軽い脳震盪から少しだけ回復した入間は、葉群紫月が撤退中に流していた血の道筋を追っているうちに、一階の渡り廊下まで辿り着いていた。これより上の階とは違い、この階の渡り廊下は左右が吹きさらしとなっている。多種多様な衝撃と衝動によってオーバーヒート寸前にまで熱していた頭を冷ますには、ここはうってつけの場所かもしれない。

入間宰三

十何年ぶりかな、お前と会うのは

 正面に佇んでいた白スーツの男の存在にようやく気付き、入間はぐらつく頭を上げた。

 奴の顔は勿論覚えている。蓮村幹人。白猫探偵事務所の社長で、かつて入間の手首にワッパをかけた男だ。

入間宰三

久しぶりだな、蓮村。正直、こんな形で再会するなんて夢にも思っていなかった

蓮村幹人

こっちの台詞だ。てっきり死んだものと思っていたぞ

入間宰三

偶然のような必然に救われたのさ。成長した我が子の姿を見たかったっていう未練が通じたのか、地獄の閻魔は俺を地獄から蘇らせた

蓮村幹人

そいつは多分、閻魔大王なりの執行猶予って奴だろう

池谷杏樹

だとしたら、あたしは閻魔大王より甘くないってことになるけど?

 後方の太い柱の陰から、杏樹がデーザー銃を突き出して入間の背後に立つ。これで入間は前後を挟み撃ちされた形になる。

池谷杏樹

さっきも言った筈よ。あんたの都合なんか知ったこっちゃ無いって。あんたが何をしたかったか知らないけど、ここで全て終わるのよ

入間宰三

……そうか。巧く嵌められたな、俺も

 入間は諦観したように薄ら笑いを漏らす。

入間宰三

さっきの少年は俺の体力を限界まで奪う役割を担っていた。俺を白猫の嬢ちゃんから引き離した上で、安全に捕縛する為に

池谷杏樹

理解したなら大人しく投降しなさい。両膝を地面につき、両手を頭の後ろへ回して、ゆっくりと地面に伏せるの

入間宰三

ああ、分かったよ

 頷きつつ、入間は指示通り、まずはゆっくりと膝を折った。

 地面に膝が接地する。次は、両手を頭の後ろへ。

 回す直前、入間は右手首を軽く振り、袖から黒いリモコンを掌に滑らせた。

池谷杏樹

入間宰三

動くな

 杏樹がデーザー銃の引き金を引くより先に、入間は鋭く彼女を制した。

入間宰三

デーザーの電極が俺に刺さった瞬間、スイッチと密着した俺の親指が動く。そうなれば、人質の周囲に仕掛けられた爆弾が一斉に作動する

池谷杏樹

何ですって?

蓮村幹人

下手な脅しを

入間宰三

洒落か冗談と思うなら、いますぐ実演してやろうか

 入間は思わず失笑した。

入間宰三

なぁに、犠牲者は人質の小娘一匹だけで済む。決して大きい被害にはならないが――勘の良い探偵が既に人質の居場所を掴んでいたとしたら、話は別だろうなぁ

蓮村幹人

っ! まずい!

池谷杏樹

あそこには白猫のエースが!

 幹人と杏樹の顔が一瞬で蒼白になった。やはり、既に青葉が人質の隠し場所に辿り着いていたのだろう。

 入間はさらなる追い打ちを掛けた。

入間宰三

言い忘れていたが、人質の体内にも強力な爆弾を挿し込んである。仮に彼女を周辺の爆弾から遠ざけたとしても、彼女自身が人間爆弾になっているのなら、救出した人間ごと木端微塵でグッバイサヨナラあの世行きだ

蓮村幹人

貴様……!

入間宰三

さあて、いま頃どうなっているんだろうなぁ、
俺達の娘は!

 それからの入間は、ずっと一人で哄笑を上げ続けていた。

 杏樹も幹人も動けない。彼らのうち一人でもこちらに接近した瞬間、空気よりも軽い気持ちでリモコンのスイッチが押されてしまうと理解しているからだ。

 夜陰の静寂に木霊する甲高い狂気の嬌声は、入間自身が嗤い疲れるまで、もう誰にも止められない。

 ついさっきまで、入間自身はそう思っていた。

挿し込まれていた爆弾、というのはこいつのことか?

 入間の足元に、試験管みたいな形をしたガラスの筒が放られた。

 これには幹人や杏樹のみならず、入間も驚愕を隠せなかった。

貴陽青葉

元・殺し屋の手口も大したことは無いな

 渡り廊下の左手側に、白猫の仮面を被った小柄な少女が立っていた。

 青葉だ。しかし、何で彼女がこんなところに?

入間宰三

お前、斉藤久美の救出はどうした?

貴陽青葉

どうしたも何も、既に彼女の身柄はこちらで保護させてもらった。いまお前の足元に転がっている爆弾が何よりの証拠だ

蓮村幹人

一体どうなっている?

 幹人が純粋な驚きを示して訊ねてくる。

蓮村幹人

彼女はいま無事なのか?

貴陽青葉

命は無事だ。あくまで、命だけだがな

 青葉が仮面の奥から殺気立った視線を入間に向けた。

貴陽青葉

彼女は体育館のステージの直下に設けられた用具入れみたいな通路で眠っていた。

貴陽青葉

おい、しっかりしろ

斉藤久美

……………………

貴陽青葉

くそ……入間の奴、何てマネを――ん?

貴陽青葉

周囲にC4爆弾がびっしり設置されたのを見た時は心臓が止まるかと思ったが、彼女自身は五体満足だった。

もっとも、そこの種馬から性的暴行を受けていた形跡がいくつか発見されたがな。

いま私が放った爆弾もその一つだ。そいつは彼女の膣内に挿入されていた

池谷杏樹

なんてことを……

 同じ女性としてか、杏樹が胸糞悪そうに毒づいた。

 青葉が入間に人指し指を突き出す。

貴陽青葉

おそらく、お前が持っているそのリモコンと、この校内に存在する全ての爆弾はリンクしている。

もしいまこの場でスイッチを押せば、木端微塵になるのは彼女や私ではなくお前の方だ、入間宰三!

入間宰三

……何故、爆弾の位置が分かった?

 せめてもの抵抗として、入間は青葉に質問を投げかける。

入間宰三

物の隠し場所としては常識外だったろうに

貴陽青葉

前田健は生きたまま解体されたと聞いている。ということは、生きたままの斉藤久美にも何らかの細工を施していた可能性は十分ある。何ら不自然の無い考え方だ

入間宰三

いいや、異常な考え方さ。やっぱり、お前は俺の娘なんだなぁ

貴陽青葉

違う

 青葉は面と向かって否定する。

 その瞳は、混じり気一つ無く、ただひたすら澄み切っていた。

貴陽青葉

私は貴陽青葉。
白猫探偵事務所の
探偵で、

蓮村幹人の一人娘だ

入間宰三

そうか

 ようやく、彼女の『答え』を聞けた気がした。

 入間はリモコンを持った手をゆっくりと上げる。

入間宰三

失敬したな。俺は最初から全てを勘違いしていたらしい

貴陽青葉

何を――

入間宰三

お前は俺の娘じゃない

 入間はリモコンのスイッチに触れた親指に、最大の力を込めた。

入間宰三

それでも強く生きろ、青葉

 咄嗟に身を後ろに投げ出していなかったら、入間を取り囲んでいた三人の探偵は丸焦げになっていたかもしれない。

 耳朶を砕くような爆炎の大喝采は、入間の全身から血風に散華させた。ついでに、体育館に仕掛けられていたC4爆弾も全て一斉に炸裂したので、あそこも良くて半壊、悪くて全壊しているだろう。

 頭を抱えて地面に伏せっていた青葉は、爆発の余波に耐え抜き、ゆっくりと顔を上げる。

 地面に散らばる肉塊と血だまり、地面に燦然と輝く背の低い炎の数々を見て、青葉は顔を伏せて悪態を吐いた。

貴陽青葉

……馬鹿野郎が

 生きていようが死んでいようが、実にはた迷惑な男だった。生きてる時より、死んだ時の方が言いたいことが沢山思い付く。

 爆音のせいか、三半規管に乱れが生じている。立ち上がるにしても体が怠い。

 青葉は眩暈を押してどうにか立ち上がると、柱の陰でぐったりと座り込んでいた幹人の傍に歩み寄り、視線を合わせるようにしてしゃがみ込む。

貴陽青葉

社長、無事か?

蓮村幹人

ああ。危ないところだった

 幹人は地面に散らばった肉の残骸と、牛乳を床にぶちまけたように広がる赤黒い血の池を見遣る。

蓮村幹人

心理学の世界にはロールシャッハテストという実験法が存在する。インクを垂らした紙を二つ折りにして広げ、出来上がったインクの模様を見て被験者が何を感じるか、或いはどういう言語表現をするかをテストする。お前はあの血の広がりを見て、何を想う?

貴陽青葉

…………

 不謹慎なようだが、たしかに入間が自らを中心に散らした血の有様はロールシャッハカードの図柄とよく似ていた。

 青葉は率直な感想を述べる。

貴陽青葉

悪魔の翼というものがこの世にあるんなら、こういう形をしているんだろうな

蓮村幹人

同感だ

 幹人が力なく笑みを浮かべる。

蓮村幹人

青葉。さっきの様子だと、お前は入間から全てを知らされたんだな

貴陽青葉

ああ。随分と年季の入った隠し事だったな

蓮村幹人

それを言われると辛いなぁ

 彼はほとんど泣きそうな声で言った。

蓮村幹人

奴からお前を引き取るように頼まれたあの時から、施設を転々としていたお前を探し当てるのに随分な歳月を要してしまった。でも内心では、奴の頼みを聞き入れたくないって、大人気なく駄々を捏ねていただけのような気もする

貴陽青葉

迷う気持ちも分からなくはない。私はあんな狂人の子供なんだし

蓮村幹人

そうだな。でも、これだけは間違っていなかった

 幹人はゆっくりと手を伸ばし、大きくて硬い掌で、いつものように青葉の頭を撫でた。

蓮村幹人

お前はお前のままでいてくれた。さすがは私の部下で、私の娘だ

貴陽青葉

社長……

池谷杏樹

何だかよく分からないけど、良かったわね

 杏樹が片腕を押さえながら歩いてきた。爆発の際に痛めたらしい。

池谷杏樹

あなた、青葉ちゃん……で、いいのかしら?

貴陽青葉

好きに呼べば良い

池谷杏樹

今回はあなたのおかげで助かったわ。ありがとうね

貴陽青葉

そっちのエースがいなければ、斉藤久美の救出は成し得なかった。私の方こそ感謝する

蓮村幹人

そのエースとやらは、いま何処にいるんだろうなぁ

 幹人がわざとらしい口調で言った。

蓮村幹人

まあいい。青葉、お前は野島君と先に事務所に帰ってろ。警察との折衝、救急車や消防の手配はこちらでやっておく

貴陽青葉

呼ぶのは消防だけでいい。警察と救急車の手配は既に黒狛四号がやってくれた

蓮村幹人

何?

貴陽青葉

そもそも私がここにいるのも、黒狛四号に斉藤久美の身柄を預けていたからだ

池谷杏樹

じゃあ、黒狛四号に会ったの?

 杏樹が何故か不安そうに訊ねてくる。

貴陽青葉

いいや。彼とはトランシーバーを介して連絡を取り合っていただけだ。私が斉藤久美を保健室に運んでからこちらに向かう道すがら、黒狛四号に保健室まで来るよう指示させてもらった。その時、ついでに警察や救急車を手配すると彼の方から申し出てくれた

池谷杏樹

お互い、やってくれるわね

蓮村幹人

喜ぶのはまだ早い。問題はまだ山積みだからな

 幹人がため息交じりに言った。

蓮村幹人

今回出た被害は、入間を除けば死者一名、重傷者二名、逮捕者一名の計四名だ。特に斉藤久美が受けた肉体的、及び精神的苦痛は一生モノのトラウマになる。しばらくは病院通いになるだろうし、通院費の支払責任についても交渉しなければなるまい

池谷杏樹

金の話ばっかりじゃない

蓮村幹人

事実だ。本来だったら彼女に慰謝料を払うべき和屋の父親は自殺して、和屋本人も逮捕されてしまった。金の問題が解決したからといって全てが丸く収まる話でもないが、彼女を思うならネックはやはりそこだろう

池谷杏樹

一理あるわね

新渡戸文雄

そいつはお前らが考えるこっちゃねぇよ

 正面口側の方向から、新渡戸が複数の制服警官を引き連れて歩み寄ってくる。

新渡戸文雄

しかし、よくもまあこれだけの騒ぎを引き起こしてくれたもんだ。後でたーっぷり事情は聞かせてもらうからな?

蓮村幹人

せめて青葉だけは帰してやりたいんだが

新渡戸文雄

俺は最初からバカ社長二人にしか用はねぇ。お嬢ちゃんは好きにしな

 新渡戸がしっしっと青葉に手首を振った。これは彼なりの気遣いだろう。

 お言葉に甘えて、青葉は無言でその場を立ち去った

 青葉の背を見送り、杏樹は微笑を浮かべて呟いた。

池谷杏樹

あの子、いい子ね

蓮村幹人

自慢の娘さ。もっとも、産みの親はそこでステーキになってしまったが

 さっきの会話の内容には杏樹も多少なりとも驚いている。だが、それでも彼女は蓮村幹人の娘であることには違いない。これ以上は深く詮索しない方が良いだろう。

蓮村幹人

お前こそ、どうやら自慢の息子とやらがいるらしいじゃないか

池谷杏樹

お願いだから、彼のことはどうか周囲には秘密にしてやって

蓮村幹人

彼には大きく助けられてしまったからな。別に構わんが――彼の存在を秘匿していた理由を聞かせてくれないか?

池谷杏樹

…………

蓮村幹人

無理に、とは言わない

 杏樹は一瞬躊躇ったが、すぐに考え直した。

 おそらく青葉の立場は紫月と大体同じだろう。なら、彼が青葉を秘匿する理由と、杏樹が紫月を秘蔵っ子扱いしている理由も、きっと似たり寄ったりだ。

池谷杏樹

……見ての通り、彼はまだ未成年なの。しかも高校生で、幼少期に実の両親から暴力を振るわれていた。だから天涯孤独で、社会的な立場がまだ弱い。まだ自慢気に探偵を名乗れるような年頃じゃないの

蓮村幹人

たしかに、浮気調査をするような生徒が校内で普通に学生をやってたら、生徒どころか教師ですら戦々恐々とするだろうな。誰も彼には近寄らないし、周囲との軋轢も避けられない。実のところ、私も大体似たような理由で青葉を匿っている

池谷杏樹

考えることは大体同じなのね。遺憾なことに

蓮村幹人

ああ、全く遺憾なことに

 価値観の違いから戸籍どころか事務所まで別ったのに、最終的にはいつだって同じところへ辿り着く。

 全く喜ばしくはないが、だからといって極端に腹立たしい訳でもない。

 ただ単に、ああそうなのね? などと納得してしまうだけだ。

新渡戸文雄

うぇーるかーむ

 いきなり後ろから、新渡戸が二人の首を両脇にがっちり抱え込んだ。

新渡戸文雄

さあさあお二人さーん、楽しい取り調べのお時間でーす

池谷杏樹

楽しそうね

蓮村幹人

さしづめ、いままで何処ぞの居酒屋で飲んでいたんだろう

新渡戸文雄

さっすが探偵様。よく分かっていらっしゃる

 いや、酒臭いから誰にでも分かる。

 二人から離れ、新渡戸がしんみりと言った。

新渡戸文雄

蓮村。これで『生命遊戯』は本当の幕引きを迎えた訳だが――どうだ? てめぇの娘と元奥さんに俺達の尻拭いをさせた気分は

蓮村幹人

その答えについてはお前の想像通りだろうな

新渡戸文雄

ああ

 新渡戸が無感動に呟く。

新渡戸文雄

お二人さんよ。俺はな、本当ならお前達と一緒に戦いたかった。それだけが心残りだよ

池谷杏樹

誰だってこんな結末は納得してないって

 杏樹は敢えて冗談っぽく言った。

池谷杏樹

そんな文句は今度飲みに行く時まで大事にとっておきなさいよ

蓮村幹人

同感だな。後悔するのも管を巻くのも全てが一段落してからだ

新渡戸文雄

蓮村はともかく、池谷とかぁ……

 新渡戸は何故か思案顔で唸った。

新渡戸文雄

あんたを居酒屋に連れていくのはちょっとした勇気が必要だな

池谷杏樹

何でよ

新渡戸文雄

いや、だって、見た目の年齢がなぁ

池谷杏樹

うるさい

新渡戸文雄

ごっ!?

 杏樹は容赦なく、新渡戸の硬い尻にミドルキックを喰らわせた。

『群青の探偵』編/#3「相克と相生」 その五

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