青葉を探しに西棟二階をゆっくり歩いている最中、入間は視界の真ん中にちらついた影に向けて、S&W M500を発砲した。

 弾丸は突き当たりの技術工作室の扉を穿ち、さっきからこちらをちょろちょろ付け回していた小柄な女をあぶり出す。

池谷杏樹

あっぶねぇ~……

 池谷杏樹はたったいま頭上を通過した弾丸に身を竦め、半笑いに涙目というふざけた面持ちでずるずると床にへたり込んだ。

池谷杏樹

いきなり撃ってこないでよね、もぉ~!

入間宰三

これはこれは、黒狛探偵社の池谷社長ではありませんか

 入間はわざとらしさ全開で大げさなお辞儀をする。

入間宰三

まさか、彩萌市の顔役がこぉんな危ない場所においでとは。いやはや、貴女もいまや仕事はご自由に選べる御身分でしょうに

池谷杏樹

言っておくけど、あたしは別に仕事で来た訳じゃないから

 さっきまでの恐慌じみた態度は何処へやら、杏樹はロングスカートの裾を払って立ち上がり、腕に抱えていたAKライフルの銃口を入間に向けた。

池谷杏樹

まさか、あたし達があの程度で泣き寝入りするとでも思ったワケ? だとしたら随分と安く見られたモンね

入間宰三

恨みつらみでこの私を潰しに来たと? ですが生憎と私も忙しくてですね。いま貴女達に構っていられるような余裕は無いのですよ

池谷杏樹

黙りなさい。あんたの都合なんか知ったこっちゃないの

入間宰三

そうですか。なら、致し方ない

 発砲。杏樹が抱えていたAKライフルが一瞬でスクラップになる。

池谷杏樹

……っと、これまた危ないわね

 杏樹の反応は至って平淡だった。しかも不思議なことに、怪我一つしていない。

池谷杏樹

ちょっとぉ! 破片で怪我したらどーする気よ!

入間宰三

……この女

 銃弾を防いだ彼女の身のこなしは異常だった。ただ単に玩具の銃を盾にしただけでは、貫通力に重点を置いた特製の弾は防ぎきれない。一体何をしたんだか。

 とりあえず、もう一発撃ってみた。

池谷杏樹

しぇぇええええええっ!?

 彼女は赤塚不二夫の漫画にでも出てきそうなキャラみたいなポーズで銃弾を回避した。通り過ぎた銃弾が、工作室の扉に新たな風穴を空ける。

 これには入間も額に青筋を浮かべて唸った。

入間宰三

こ……この……っ!

池谷杏樹

ほらほら、どうしたの? もう弾切れ?

 杏樹が手を叩きながら挑発してきた。

池谷杏樹

あんまりあたしをガッカリさせないでくれる? うちの東屋君なら、発砲したその瞬間に貴方を撃ち殺してしまえたわ

入間宰三

何が言いたい?

池谷杏樹

彼はあんたなんかに負けちゃいない

 気を緩めたせいか、入間の反応が大きく遅れた。
 杏樹は既に、こちらの至近距離にまで接近していたのだ。

入間宰三

あの距離をッ――!?

池谷杏樹

死ね!

 彼女の小ぶりな拳が入間の鼻面に直撃する。思ったより重たい感触だった。

池谷杏樹

これは、東屋君の分!

 杏樹の膝蹴りが入間の鳩尾に入る。

入間宰三

くふぉっ……ッ

池谷杏樹

これはあたしの怒りの分!

 杏樹の回し蹴りが入間の横っ面を薙ぎ払った、これも予想以上に重たい。

池谷杏樹

そしてこれが――

入間宰三

調子に乗るな!

 入間の左手が一閃。既に抜いていたコンバットナイフの刃先が杏樹の額を掠める。

 杏樹はあわや直撃かというところで咄嗟に大きく後退する。見た目通りのすばしっこさだ。

池谷杏樹

うわ、最悪! 刃の跡ついてんじゃん!

 杏樹が自らの額を両手の指先でぺたぺたと触っている。

池谷杏樹

女の顔に傷を付けるなんて、あんた超サイテー! 後で慰謝料ふんだくってやる!

入間宰三

貴様……この俺を、本気で怒らせたな?

 入間は再び右手の銃を杏樹に向けて発砲。シリンダー内の銃弾を全て撃ち尽くす。

 だが、いずれも杏樹には直撃しなかった。

入間宰三

くそっ

池谷杏樹

ほーら、鬼さんこーちらー

入間宰三

絶対に殺す!

 シリンダーから薬莢を抜き、弾を交換すると、入間はたったいま渡り廊下へ逃げ込んだ杏樹を全速力で追いかけた。

 渡り廊下に杏樹の姿は無い。あのわずかな間で東棟へ渡り切って姿を消したようだ。

 代わりに、一人の黒い人物が、道の中腹で静かに佇んでいた。

入間宰三

やあ、君。たったいまガキみたいな年増がここらへんを通ったと思うんだが

葉群紫月

年増か。あれで四十一なんだから驚くよな

 入間は耳を疑った。彼の言葉ではなく、その声に。


 窓の外から見える暗雲が気流に乗って流れ、隠れていた月がゆるやかに顔を出す。渡り廊下にまんべんなく降り注がれる青い月明かりが、彼の全体像をくっきり浮かび上がらせる。

 背丈は高くもなければ低くもない。中肉中背の、おそらくは男性。黒い犬の仮面を被り、上着は冬物の黒いジャケットだった。

 彼は仮面の向こう側から、機械音声みたいな声を発する。

葉群紫月

さて……お次は俺の番だな

入間宰三

お前さんは……そうか、あの時の十手少年か

 入間は最近出会った中で一番印象が深かった人物の顔を思い出す。

入間宰三

そこをどきたまえ。いまは時間が惜しい

葉群紫月

嫌だと言ったら?

入間宰三

倒すしかないだろうな

 入間は銃を懐に仕舞い、コンバットナイフを手元でくるくる弄びながら訊ねた。

入間宰三

一応、名前を聞いておこうか

葉群紫月

黒狛探偵社の葉群紫月

 黒狛の仮面少年――葉群紫月は、ジャケットの懐から十手を抜き放った。

葉群紫月

内緒にしといてくれよ? こうみえて、秘蔵の探偵って呼ばれてるんだ

入間宰三

約束しよう

 お互い同時に、得物の柄を逆手に持ち替える。

 窓の外で月が再び黒い雲に覆い隠され、渡り廊下にまたしても暗い影が落ちる。二人は全く動かない。暗い中で先に飛び出した方が馬鹿を見ると知っているからだ。

 雲が晴れ、月が面を上げる。

 疾駆。刃の無い鋼鉄と刃の有る鋼鉄が擦れ合い、離れ、また擦れ合う。

 紫月が片足を軸に、入間のナイフを横に弾きながら背後に回る。入間は反射的に向き直り、飛んできた打撃部の先端をナイフの腹で受け止めて押し返し、お留守になっていた彼の足に払い蹴りを繰り出した。

 紫月は縄跳びでもするかのように跳ね、こちらの腹を狙って片足の裏を突き出す。

 入間には当たらなかった。横に逸れ、体を回転させながらナイフの切っ先で紫月の頸動脈を狙う。

 紫月は空いていた片手で入間の手首を取り、まるで鉄棒でもするかのように逆上がりするや、軽業師のように着地して三歩後退。こちらの様子を再び窺っている。

入間宰三

なかなかどうして、魅せてくれるじゃないか

 入間は心の底から紫月への賛辞を贈る。

入間宰三

君は探偵業よりもヒットマンが向いている。転職先を探しているなら、私が知り合いのマフィアに話をつけてやらないでもない

葉群紫月

俺に進路指導していいのは俺の上司と学校の先生だけだ。お前が推薦した職場なんざ真っ平御免被るぜ。転職先ぐらいは自分で探してやる

入間宰三

ならば今度一緒にハローワークへ行こう

葉群紫月

連れションみたいなノリで何言ってんだ。行きたいならてめぇ一人で行きやがれ!

 紫月はこちらの提案を却下するや、低姿勢で抉り込むように突進してきた。

 入間が強いなんて、最初から分かっていた。

 奴は狂気に従順で、知性に富み、頑強な肉体を持つ現実世界の悪魔だ。

 でも、だからどうした。

葉群紫月

よくも――

 よくも東屋轟をあんな目に遭わせてくれたな。
 轟は紫月にとって、戦闘の師匠であり、父親代わりでもあった。

 両親の暴力から解放され、杏樹に引き取られた紫月には、父親と呼べるような男がいなかった。だから生涯杏樹の部下として付いて行くと決めた轟が、なし崩し的に紫月の人生に親父として関わってくれた。

 悪さをしたら怒られもしたし、殴られもした。

 良いことをしたらちゃんと褒められたし、悩んでいたら助け船を出されもした。

 その大きな背中は強くて硬い。生きている間に、必ず越えたい壁そのものだ。

 もし仮にあの時、入間が轟を殺してしまったら、自分はいまどういう気持ちで戦っていただろうか。

 きっと、いまと同じだ。

葉群紫月

よくも!

 よくも青葉の綺麗な肌に傷を負わせやがったな。

 この十六年間の人生で、一度も恋をしなかったと言ったら嘘になる。でも、それはただ、見た目の可愛さとか性格が好みだった、というだけの話だ。

 でも、青葉は違った。

 たしかに彼女は容姿が良い。性格も決して悪くない。でも、それだけじゃない。

 感情の表現法が分からない不器用さも、いつも通りのふてぶてしさも、怒った時の反応も、時折見せるお茶目なところも、いまの紫月にとっては数少ない救いの一つになっていた。杏樹や玲、轟がくれた愛情や信頼以外で、初めて信じられるものが生まれたのだ。

 もし仮にあの時、入間が青葉を殺してしまったら、自分はいまどういう気持ちで戦っていただろうか。

 きっと、いまと同じだ。

 入間を殺すことでしか、腹の虫は収まりそうにない。

葉群紫月

らぁあっ!

 全力で横薙ぎに振るった十手が入間の腰を打つ。

入間宰三

ぐっ……ぉおおおっ!

 入間がお返しにと言わんばかりに、ナイフで紫月の左肩の皮膚を斬り裂いた。ナイフの厚みか、あるいは冷たさからか、斬られただけとは思えないような痛みが傷口の周りで暴れ回る。

 二人はよろめきながら離れると、肩で息をして立ち止まった。

入間宰三

予想以上だぁ……葉群……紫月ィィィ……!

 入間は空いていた右手をトレンチコートの懐に突っ込み、彼の代名詞とも言える大型のリボルバー拳銃を抜いた。S&W M500のお出ましだ。

 紫月は十手を床に落とし、右手で懐のベレッタを抜き、照準を入間に合わせる。

 刹那、二つの筒先が正面切って睨み合う。わずかに、入間の銃口が下に揺れる。

 発砲。

入間宰三

っ……!?

 入間のリボルバーが破裂した。彼が発砲するより早く、紫月が放った弾丸がリボルバーの銃口を通り、銃全体を内部から破壊したのだ。

 もう一コンマ、入間の発砲が速ければ、紫月は確実に死んでいた。

入間宰三

くそ……

葉群紫月

うちの社長が、意味も無くてめぇの前に現れたとでも思ったか?

 十手を拾い上げ、紫月は肩の傷を押さえながら言った。

葉群紫月

その怪物リボルバーの説明書きには『連射した場合における射手の健康は保障しかねる』って書いてあるそうだな。あんだけ社長を的にして発砲したんだ。お前の右手はもうまともに動かない。俺とこの場で早撃ちを挑んだ時点で、勝敗は既に決していた

入間宰三

だったらどうしたぁ!

 半ば自暴自棄にでもなったのか、入間が白目を剥いて突っ込んできた。

 さっきよりも速い!

入間宰三

うァアアアアアアッ!

 入間の左腕が鞭のようにしなり、ナイフの切っ先が幾度となく紫月を襲う。紫月はひたすら回避に専念し、かわしきれない場合は十手で何回か弾いてやった。

 肩からの失血もあり、紫月の動きもわずかに鈍り始める。
 そろそろ限界か――

池谷杏樹

紫月君! 準備完了!

 耳に突っ込んでいたイヤホンから聞こえたのは、杏樹の叫び声だった。

 紫月は微かに唇の端を釣り上げる。

葉群紫月

――いくぞ

 呟くのと同じくして、入間がナイフの切っ先を大きく引いた。最大威力にして最速の突きで、紫月の額を貫通するつもりだろう。

 来るなら来い。その時が、お前の最期だ。

入間宰三

はぁああああアアアアア!

 入間がナイフを全速力で突き出した。切っ先は真っ直ぐ、紫月が被っていた仮面の額を深々と刺し貫く。

 だが、それだけだった。

入間宰三

なにっ……!?

 入間が刺したのは、黒犬の仮面だけ。

 紫月本体は既に、入間の真横で身を屈めて居合抜きの体勢に入っていた。

葉群紫月

くたばりやがれ、
クソ野郎!

 渾身の横一薙ぎ。紫月に十手が、入間の横っ面を捉え、薙ぎ払った。

 入間が打撃の勢いで横に一回転して、倒れる――かと思いきや、足を踏ん張り、どうにか転倒だけは免れていた。

 よろよろと壁に背を預け、紫月は舌打ち混じりに毒づいた。

葉群紫月

チッ……タフな野郎だな……

入間宰三

ここまで……やるとはな……!

 入間が顔を上げ、血走った眼でこちらを睨んでくる。いまの打撃によるものか、側頭部から垂れた血が顎を伝い、雫となって一滴ずつ床に落ちる。

 双方出血の、両者痛み分け。これ以上、二人に戦う体力は無い。

 紫月は踵を返し、覚束ない足取りで渡り廊下の突き当たりを折れた。肩の斬り傷から伝わる血の筋が指先に届き、廊下の床に細長い血の道筋を作る。

 これで俺の仕事は完了だ。あとは――

葉群紫月

相手の銃は破壊した。あとは任せましたよ、社長

池谷杏樹

ええ

 無線の向こうで、杏樹が力強く応じた。

『群青の探偵』編/#3「相克と相生」 その四

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