男から注射されたのは、いわゆる女性専用の媚薬だった。特定の細胞を活性化させ、より多くの性的快感を求めるように精神と肉体の状態を変異させる類のものだ。

 最初はあんなに嫌だったのに、いまはまた彼の熱いものを求めている。

 私を縛り付けていた鎖は既に解かれていた。おそらく、もう私が抵抗どころか身動き一つ取れないだろうと悟ったからだ。しかし、手首だけは未だに鎖で固定されたままだ。

 そんなことより、いまは下腹部に感じる強い違和感が気になる。

 男は去り際に、私の膣内にスティック状の何かを突っ込んでいった。あれは一体、何なんだろう? いわゆる、大人の玩具の類なのだろうか。

 そして、たったいま気付いたことがもう一つ。

 周囲の壁一帯に、小さな機械が埋め込まれた灰色の粘土が張り付けられている。

 それはそれで、一体何なんだろう?

池谷杏樹

着いたわね

 白猫の車を正門前で見かけ、車内に残っていたオペレーター役の野島弥一から現在の状況を聞き、黒狛の車はすぐに裏門付近に回り込んだ。これは余談だが、紫月は車内で既に黒犬の仮面を被っていたので、彼の素顔や正体は未だに白猫側にはばれていない。

 車内で装備の点検を済ませ、玲を車に残し、紫月と杏樹は車から降りる。

 トランシーバーに繋いだイヤホンを耳に突っ込み、紫月は玲を見遣った。

葉群紫月

玲さん。GPS情報から入間の現在位置を割り出せますか?

美作玲

さっきからやってるけど……駄目ね

 ノートパソコンの画面を睨み、玲が舌打ちした。

美作玲

あっちの野島さんが白猫側の位置を常に捕捉してるけど、いま表示されてるビーコンは社長と紫月君を除くその三人分だけね。入間と思われるビーコンが無いってことは……

葉群紫月

奴はGPS端末を持ち歩いていない

美作玲

正解。ついでに言えば、斉藤久美さんのスマホの位置情報も表示されてない。物理的な手段で信号を無力化したんでしょうね

池谷杏樹

そこまでされるのも織り込み済みよ

 杏樹がAKライフルのトリガーをすこすこ引きながら答える。最近黒狛で採用された、東屋轟特製の重塗装エアガンである。勿論、BB弾は装填されていない。

池谷杏樹

いま画面に表示されてるのは二階の見取り図ね

美作玲

ええ

 玲は画面上のマップを指差しながら説明する。

美作玲

二階の西棟を移動中のビーコンが一つ。それと、音楽室に入ったっきり全く動かないビーコンがもう一つ。残り一つは二階にいないか、あるいは東棟の何処かを動き回ってる

葉群紫月

多分、白猫の誰かが入間と音楽室で戦ってますね

美作玲

どうする? 社長と紫月君の二人で音楽室に向かっちゃう?

葉群紫月

いえ。まずは音楽室の白猫を逃がします

美作玲

でも――

池谷杏樹

玲、ここは紫月君の言う通りにしましょう

 今回のリーダーは杏樹ではなく、在校生故にこの学校の構造をよく知っている紫月だ。よって、命令するのも紫月の役割だ。

 玲は無言で頷き、自らのスマホを取り出した。さっき玲と弥一は電話番号を交換していたので、これで黒狛と白猫の間で密な連携が可能となる。

美作玲

サポートは私と野島さんに任せて、二人は東屋さんの仇討ちを

葉群紫月

はい。社長、行きましょう

池谷杏樹

ええ

 二人は低い門扉を乗り越えて校内に侵入。校舎の西棟と東棟を繋ぐ渡り廊下の合間に立つ。

 まずは杏樹を西校舎の中へ送り出すと、紫月は西校舎の外郭を迂回して音楽室が見える地点に立ち、トランシーバーで玲に合図を送る。

葉群紫月

こちら黒狛四号。バンジージャンプのお時間です、どうぞ

美作玲

黒狛三号、了解。野島さんに合図を送ります。ガラスの雨に気をつけて


 無線を終えてしばらく待っていると、音楽室の窓ガラスの一つが弾け飛び、中から黒くて大きな影が飛び出した。月明かりに照らされたそれは、予想通り、人の姿をしている。

 紫月は落下してくる人物を両腕で受け止め、地面に転がした。

西井和音

うっ……

 かろうじて受け身を取ったその女性は、どことなく青葉にそっくりだった。ポニーテールといい、顔立ちといい、スタイルといい、彼女が青葉の姉だと言われても驚かない自信がある。もっとも、青葉の姉が白猫の探偵だという話は聞いたことが無い。

 紫月は切り傷だらけの彼女――西井和音の傍に跪き、体を抱き起こして囁くように訊ねた。

葉群紫月

おい、大丈夫か

西井和音

黒犬の……仮面。そうか……野島がさっき言ってた……

 和音が薄目を開けて紫月の仮面を見上げている。

西井和音

すまない……時間稼ぎだけで精いっぱいだった

葉群紫月

大丈夫。後は我々に任せろ

西井和音

そう……か

葉群紫月

よっこらせーっと

 紫月は和音の体を抱え上げ、待機中の玲が乗る車まで運び込んだ。

葉群紫月

応急処置は俺がやる。
それからしばらくの間、彼女を頼みます

美作玲

ええ

西井和音

そんなことより、これを……

 和音が傷の痛みと戦いながら、自分のトランシーバーを紫月に突き出す。

西井和音

うちらのエースとは、白猫のトランシーバーが無いと連絡が取れない……使え

葉群紫月

分かりました。貴女はそのまま休んでてください

西井和音

四番のチャンネル――あの子を……頼む

 彼女はその一言を最後に気を失った。

 紫月はトランシーバーのチャンネルを言われた通りに合わせ、PTTスイッチを押し込み、言葉を選ぶようにして白猫のエースとの交信を開始した。

 青葉はいま、西校舎から東校舎に移り、空き教室の一角で息を潜めて縮こまっている。闇雲に探しても時間を浪費するだけだと判断して、とりあえず冷静に考えを纏めようと思い直したからだ。ちなみに、音楽室を出てからいまに至るまでの間、白猫のメンバーとは誰とも交信していない。

 入間はこの学校の構造をよく知らないだろう。生徒が締め出され、教職員も全て退社した時間も鑑みて、彼がこの学校の全セキュリティの解除、及び下調べに使った時間はおよそ一時間程度。いまは大体十時半くらいなので、この目算は決して外れではない。

 彼が本当に斉藤久美を凌辱していたなら、所要時間はもっと短いかもしれない。

 とにかく、短い時間で入間が人を隠す場所を選ぶとしたら、それは何処だ?

 駄目だ。全く思い当たらない。

 それだけじゃない。動揺が未だに続いて、思考が千々に乱れている。自分としたことが、あの程度の心理攻撃でここまで追い込まれるなんて。

 入間が私の父で、奴は私に会う為だけにこの彩萌市に舞い戻ってきた。

 だったら何で奴は無関係の高校生三人を巻き込んだ?

 答えなら知っている。さっき奴自身が言っていたではないか。私と会うにあたり、程よく劇的なシナリオが欲しかった。だから利用してやった――ただ、それだけだ。

 ある意味、私のせいかもしれない。

 私さえ産まれてこなければ、こんなことにならなくて済んだかもしれないのに。

こちら黒狛四号。白猫のエース、聞こえるか

貴陽青葉

 いきなり無線用のイヤホンから聞こえたのは、機械音声じみた人間の声だった。おそらく、相手は自分と同様、変声器を用いて喋っているのだろう。

 トランシーバーの液晶に表示されているチャンネルは三番。和音の端末からだった。

もう一度言う。白猫のエース、聞こえるか。聞こえたら返事をくれ

貴陽青葉

お前は誰だ。何故私の仲間のトランシーバーを使っている?

私は黒狛の社員だ。こちらで保護した西井和音から端末を預かっている

貴陽青葉

何だと? 西井和音は無事なのか?

負傷してはいるが、普通に生きている。たったいま応急手当も終わった

 正体が分からないにせよ、彼は味方ということで間違い無さそうだ。

 かず姐、本当に無事で良かった。

私はこの学校の構造を熟知している。入間が人を隠すのに使いそうな場所も、大体三パターンくらいは思いついている。いまからその一つを話す

貴陽青葉

状況は極めて逼迫している。君を信用していいのか、いまの私には判断しかねる

入間には個人的な恨みがある。判断材料として、それだけでは不十分か?

貴陽青葉

どんな恨みか言ってみろ

大事な人を二人も傷付けられた。奴をこのまま野放しにはしておけない

 青葉にとっては、不意打ち同然の返答だった。音声は無機質でも、喋っている当人の声帯が静かな怒りで震えているように感じたからだ。

それだけでは、不十分か?

貴陽青葉

……いや

 それだけ聞ければ、いまの青葉には充分だった。

貴陽青葉

信用しよう。それで、隠し場所は?

最初に体育館をあたれ。

室内には用具入れがいくつかある以外に、ステージの下にはマットなんかを収納する地下通路がある。

君達が入間から電話を受けた時、奴はこの学校の校舎内全体をゲームのステージにすると言っていた筈だな? だが、校舎以外の場所については何も触れてなかったと聞いている。違うか?

 ハンティングゲームの舞台は校舎内全体――たしかに、奴はそう言っていた。でも、奴は久美がこの校内の何処かにいるとも発言していた。この場合、戦場と劇の舞台が同じとは限らない。

 つまり、久美の居場所が校舎以外の校内である可能性も充分にあり得る。

貴陽青葉

なるほど。そこは盲点だった

いまから奴を可能な限り体育館から引き離す。いくぞ

貴陽青葉

ああ。交信終了

 無線を切り、青葉は一息つき、さらに深呼吸した。

 黒狛四号とやらが何者かは知らない。でも、これだけははっきりしている。

 彼を信じる以外に、いまの青葉には活路が無い。

貴陽青葉

……よし、行くか

 青葉が立ち上がった、その矢先。
 遠くから、金属が爆ぜるような音が鳴り響いた。

『群青の探偵』編/#3「相克と相生」 その三

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