さっきから何度発信しても健の携帯に繋がらないので、とりあえず先に共同公園へ行ってみたら、数台のパトカーと救急車が無機質な赤色灯を光らせてスクラムを組んでいた。遠巻きから青いビニールシートや警戒線も見えたし、あそこで何らかの事件が起きたというのだけは何となく分かる。

 だったら健は何でこちらに連絡を寄越してくれないんだろう?

 もしかして偶然あの場にいて、何かの事件に巻き込まれて、あとからやってきた警察から事情聴取でも受けているんだろうか。だとしたら、たしかにこちらに連絡している余裕は無いのかもしれない。

 久美は一旦自宅への帰路を辿った。陽が落ちるのも早くなったし、暗い中で女子一人というのもあまり好ましくは無い。
 ぼんやり歩いていると、正面に灰色のトレンチコートを着た細身の男性が見えた。彼は歩きもしなければ退がりもせず、ただひたすら街灯の下で突っ立っている。
 ああいう手合いは無視だ。大きく右に逸れ、彼の横を通り過ぎる。

入間宰三

斉藤久美だね?

斉藤久美

っ!

 思わぬ問いかけに、久美がびくっと足を止めて振り返る。

入間宰三

知ってるよぉ? 君のことは、よーく知ってる。何せ、和屋君が大枚をはたいてでも追っていた子だからねぇえ?

斉藤久美

な……何ですか? 何で……私と和仁君の名前を……?

入間宰三

当然知ってるさ。何せ、あの少年に探偵の利用を勧めたのはこの俺だ

 何を言っているのか分からない。いや、分かりたくも無い。

 久美が耳を塞ぎたい気分のまま後ずさると、男は懐から何らかの紙束を出して、彼女の足元に投げ捨てた。

斉藤久美

これって……

 地面に撒かれた書面に掲載された写真を見て、久美の瞼が限界まで開かれる。

入間宰三

こいつぁ和仁君が持っていた調査報告書の複製だよ。いやぁ、良い御身分さ。人気の無い公園の小さな広場で青姦に勤しむ高校二年生の若き男女。君も見かけによらず淫乱な雌豚って訳だ

斉藤久美

いやぁああっ!

 羞恥心と怒りと屈辱から悲鳴を上げ、久美は地面の書類を全てかき集めて胸にかき抱いた。

入間宰三

いいねぇ、いいねぇ、その悲鳴! じゃあ、もう一つお土産だ。喜んでくれるかなぁ?

 けらけら笑う男が続いて取り出したのは、赤黒く汚れた生々しい何かだった。形は判然としないが、よく見れば何かの細い肉塊に見えなくもない。

 男は肉塊をべちゃりと地面に投げつけると、その正体を楽しそうに明かす。

入間宰三

感動のゴタイメーン! そいつは君がいま抱いてる報告書の写真の中で、君の穴に突っ込まれていた彼氏君のイチモツでーす!

 理解が全く追いつかない。彼の言葉が言語として認識されない。その意味を咀嚼しようとしても、知能の顎が全く動かない。

 ついには言葉を発する舌まで硬直する。何も喋れない。

入間宰三

んー? どうしたのかな? ショックを与えすぎてフリーズしちゃったかな? 俺はスーファミ世代だからねぇ、ちょっとやそっとじゃ壊れない自信があるんだけど……君らの世代はどうやらこういうショックに弱いらしいねぇ?

 元から壊れている奴に言われたくない――というような簡単過ぎる挑発ですら浮かばない。

入間宰三

でもさぁ、気持ちはよく分かるよ? だって、彼氏君が死んじゃったんだもん

斉藤久美

死んだ……?

 ようやく喉から言葉が漏れる。言語野が回復しつつあるのだ。

斉藤久美

死んだ……健が?

入間宰三

そうだよぉ? 俺が、殺したの

 男があっさりと自らの犯行を認めた。でも、ああそうなの? などと簡単に納得するような思考回路を、少なくとも常人たる久美は持ち合わせていなかった。

 男が愉悦を隠そうともせずに語る。

入間宰三

最初は手の指を全て斬り落としてやった。いい悲鳴だったよ。で、お次はそこに転がってるお×ん×ん。そしたら白目を剥いて黙り込んじゃったんで、とりあえずおしおきとして唇をナイフでさくっと切り落として通りすがりの猫の餌にしてやった。明太子みたいな味がしたんだろうなぁ。そこからはさすがに無反応だったんで、最初に斬った指はお口にぶち込んで、最後は――

 彼は懐から銀色の大きなリボルバー拳銃をこれみよがしに抜き出した。

入間宰三

こいつで両目を、
ドーン!

斉藤久美

っ!

 ドーン! のあたりで、久美はぶるっと身を震わせた。単なる脊椎反射だ。

入間宰三

きゃはははははははっ! 気持ちィィィィッ! リア充爆発させんのマジたのピィィィィ! 痛快過ぎてお腹いたぁああああああああああい!

斉藤久美

嘘だ!

 久美は男の大爆笑をかき消すように叫ぶ。

斉藤久美

全部嘘だ! そんなのある訳無いじゃん! 嘘だって言ってよ!

入間宰三

ふひゃははは! むーりー! 本当のことだから、ムーリー!

斉藤久美

黙れ!

そうそう。黙っておくのが吉だぜ。近所迷惑だしな

 二人の叫び声に割り込んだ冷静な声音。いつの間にか、男の背後に、これまた見覚えの無い大柄な男が佇んでいた。

 口の周りの無精髭と小さい目。茶色い革のジャケットを着た恰幅の良い体型。彼は肩からストラップで吊り下げているアサルトライフルの銃口を男に向ける。

 男は途端に声のボリュームを落として訊ねた。

入間宰三

誰だ、お前さんは

東屋轟

黒狛探偵事務所の東屋轟ってモンだ

斉藤久美

くろ……こま?

 久美は耳を疑った。

 黒狛探偵事務所。久美にとっては諸悪の根源である会社の構成員が、どうしていまさらこの場面で現れたのだろうか。

 轟はさらに驚くべきことを言って退けた。

東屋轟

斉藤久美さん。うちの社長の命で、俺はあんたを保護しに来た

入間宰三

いまさらどの口が言っているのかね

 男は久美の言いたいことをそのまま代弁した。

入間宰三

お嬢さんを悲劇の舞台に引きずり込んだ連中が言うに事欠いてナイト気取りかね? 虫が良すぎるにも程があるだろうに

東屋轟

そもそもてめぇがいなけりゃこんな騒ぎにはなってなかった気がするよ。しかし、まさかこんなところで大物有名人とご対面するとは。いまでもちょっと驚いてる

入間宰三

お前さんが俺の何を知ってる?

東屋轟

知ってる奴は知ってるさ。入間宰三

入間宰三

ほう

 入間なる男が小さく唸る。そこはかとなく楽しそうだ。

入間宰三

それで? お前さんは俺をどうする気だ?

東屋轟

記憶力がねぇのか、てめぇは。用があんのはお前じゃなくて、そっちのお嬢さんだ。もっとも、俺の仕事を邪魔するつもりなら、お前から先に始末してもいい

入間宰三

やれるのかな、お前さんに

 入間は腰から刃が黒いコンバットナイフの鞘を払った。

入間宰三

たしか黒狛は表向きの噂とは裏腹に荒事のスペシャリストが揃っているって話だが、そいつが本当かどうか、丁度いいからここで試してみよう

東屋轟

来いや、サイコ野郎

 轟が片手の指を招くように曲げると、入間は地を蹴り、疾風のような勢いで相手の間合いに侵入した。

 入間のナイフが、盾として突き出された轟のアサルトライフルを貫通する。これで轟は戦闘力を失った――かのように思われた。

東屋轟

あばよ

 轟はにやりと笑うと、いつの間にやら空いた片手に持っていたスプレー缶みたいな物体を地面に放った。

 すると、缶を中心に、激しい閃光と金属音が爆発した。

 元より、轟には入間と戦う気が全く無かった。斉藤久美さえ回収出来れば、後は近くの大通りに待機させた黒狛の車に彼女を乗せてゲームエンドだ。

 閃光手榴弾で入間の足止めには成功した。轟は久美を抱えて、騒然となり始めていた夜の住宅街を殺される寸前みたいな思いで走っていた。

 自衛隊の訓練マラソンがピクニックに思える。後から追ってくるであろう入間宰三という男が、あの程度でこちらの逃亡を見逃してくれるとは思わないからだ。

 さっきの接触で奴の力は把握した。あの様子なら、すぐ追いついてくる。

斉藤久美

放して!

 久美が泣きながら喚き立てる。

斉藤久美

あんた達のせいで……全部、あんた達のせいでこうなったんだ!

東屋轟

説教ならうちの事務所でたっぷり訊いてやる。それよりいまは――

 背後から突然の銃声。がくんと脚から力が抜け、轟は飛ぶようにして前に倒れた。腕からは久美の体が放物線を描いて放り出される。

 倒れてすぐ、轟は異常が起きていると思しき右脚の状態を確認する。

 ふくらはぎに大きな丸い穴が空き、血が泉のように湧いている。これでしばらくの間、この右脚は使い物にならないだろう。

入間宰三

おやおやぁ、駄目じゃないか

 何事も無かったかのように、後ろから入間が歩み寄ってくる。

入間宰三

俺の足を止めたきゃ、いまみたいに脚を撃ち抜かんと足りないってば

東屋轟

くそ……

入間宰三

お? 見た目通りタフだねぇ

 入間は右手のリボルバーをちらつかせながら言った。

入間宰三

こいつに使われてる弾頭は俺オリジナルのフルメタルジャケットだ。破壊力を捨て、貫通力や飛距離を極限まで高めてある。もし通常の弾頭なら、あんたの脚は千切れ飛んでいたかもしれんなぁ

東屋轟

何を気持ちよさそうにペラペラと……

入間宰三

あんまり人と喋る機会が無くてねぇ。こう見えて俺、殺人鬼だし

 どう見たってお前は殺人鬼だろ。とは思ったが、口にする気力はさすがに無かった。

 入間は地面に投げ出されたっきりその場でへたり込んでいた久美の前まで歩み寄り、表情一つ変えずに彼女を見下ろした。

東屋轟

やめろ……その子に手を出すな……!

入間宰三

この後控えてる祭りに必要なんでね、彼女の身柄はこの俺が預かってやろう。お前さんは精々そこで苦しみながらノビてるといいさ

 入間が無造作に久美の腹を拳で突くと、彼女は一瞬唸り、ぐったりと全身から力を抜いた。

 このままでは責任が果たせない。こちらの被害者である久美に何と言われようが全て受け入れるつもりだが、よりにもよって人の姿をした知能の高い猛獣からこんな形で責苦を受けて、みすみす彼女を連れていかれるのは屈辱なことこの上無い。

 失血と激痛で目の前が暗い。轟は久美を連れて遠ざかる入間の背中にめいっぱい手を伸ばした。

東屋轟

待て……

 視界全体で季節外れの陽炎が揺れる。

東屋轟

待ちやが……れ……

 別の仕事で久那堀二丁目に訪れていた弥一と和音は、帰り途中の車内で銃声を聞き、何があったのかを確かめるべく付近の住宅街に急行した。

 そこで見たものは、道の真ん中で血溜まりに沈む、見覚えのある大柄な男だった。

野島弥一

このオッサン、黒狛の東屋か

西井和音

一応、息はまだあるな

 和音が轟の脈を測りながら言った。

西井和音

野島。応急処置を頼める?

野島弥一

お医者さんごっこか。久しぶりだな

西井和音

ふざけてんじゃないの

野島弥一

仕方ないだろ。こんな重傷を診るのは久しぶりだ

 弥一は自前の特製医療キットが詰め込まれた小箱を懐から取り出し、まずは止血の作業に取り掛かった。彼は探偵になる前は医者だったので、こういう非常時には有用な技能を遺憾なく発揮する。

 和音が救急車を電話で呼び終わった頃には、既に止血作業は終わっていた。

野島弥一

ふぅっ……まあ、ごっこ遊びにしちゃ上出来か

西井和音

さすが。それにしても、一体何だってこんなところに?

野島弥一

俺が知るかよ。それより、黒狛の連中に報せなくて良いのかよ

西井和音

そうね。忘れてた――ん? 電話だ

 スマホに着信。相手は幹人からだ。

西井和音

もしもし?

蓮村幹人

西井君。いま君達は何処にいる?

西井和音

久那堀の二丁目ですけど。そんなことより聞いてくださいよ。黒狛の東屋ってのが何故か血まみれで倒れてるんすよ

蓮村幹人

何だって?

西井和音

丁度そっちへ引き返そうかと思ったら近くで銃声がして……一体何なんですかね?

蓮村幹人

……遅かったか

西井和音

え?

 幹人の沈痛そうな声音に、和音は思わず眉を寄せた。

蓮村幹人

やはり黒狛が先を行っていたか。だが、どうやらその様子だと最悪の事態に発展したと見える。もう一刻の猶予も無いな

西井和音

何のことです?

蓮村幹人

とりあえず、東屋君を救急車に乗せたらすぐに戻ってこい。話はそれからだ

西井和音

はぁ……

蓮村幹人

切るぞ

 幹人が一方的に通話を打ち切った。何やら切迫している様子だ。
 こちらの様子を見ていた弥一が首を傾げる。

野島弥一

どうしたよ?

西井和音

用事が済んだらさっさと事務所に戻れって

野島弥一

それだけ?

西井和音

うん。でも、何か様子が変だったような……何だろうね、ほんと

野島弥一

さあ?

 二人はただ顔を見合わせて、しばらく頭上に疑問符を浮かべ続けていた。

『群青の探偵』編/#2「狂人再臨」 その六

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