黒狛探偵社の事務机から、紫月は業務用プリンターで書類を印刷していた玲を凝視していた。

美作玲

ちょっとぉ、穴が空く程見ても私からは何も出ないよ?

葉群紫月

玲さんのお肌って、十代半ばの女子高生と遜色無いくらい綺麗ですよね

美作玲

急に何? もしかして私、褒められてる?

葉群紫月

ええ。褒めてます。絶賛してます

美作玲

やーだー、超うれしー

 玲が小走りで寄り、紫月を背後から抱きすくめる。思った以上に良い匂いがするし、背中に当たっている胸の感触も最高だ。

 これが青葉なら、幸せ過ぎて泣いちゃいそうになるのではなかろうか。

美作玲

ていうか女子高生のお肌って、もしかして彼女さんでも出来たの?

葉群紫月

いえ。昨晩、ちょっとしたハプニングがありまして

美作玲

ラッキースケベ?

葉群紫月

そんなとこっす

池谷杏樹

玲。仕事中にうちの息子で遊ばないでくれる?

 轟を伴って、外回りから戻ってきた杏樹が渋い顔をする。

池谷杏樹

それより、不破さんの報告書は?

美作玲

もう出来てますよー

 玲がたったいま印刷を終えた紙束を杏樹に手渡すと、

 杏樹の机の上に鎮座する固定電話が鳴り響く。

 杏樹は小走りで自分の机に向かい、受話器を手に取って通話に応じる。

池谷杏樹

もしもし? ……ああ、新渡戸さん?

 相手はいつも黒狛と白猫に便宜を図っている刑事だが、紫月は彼と直接顔を合わせたことが一度も無い。何せ、紫月の存在は警察にも秘密なのだから。

池谷杏樹

はあ……え? 何で新渡戸さんがそれを? ええ……何ですって?

 杏樹の表情が突如として曇る。

池谷杏樹

うちの報告書が!? そんな……まさか私達、利用されていたんですか? はい……分かりました。後日伺いますので……はい……はい……では

 受話器を置くと、杏樹が両手で頭を覆って呻く。

池谷杏樹

嘘でしょ……? こんなことってある?

葉群紫月

どうしたんすか?

池谷杏樹

私達、嵌められたかも

葉群紫月

嵌められた?

池谷杏樹

和屋和仁君から受けた浮気調査の報告書なんだけど――

 杏樹は和屋和仁がつい昨晩に逮捕されたという話をして、その詳細や彼が使用した道具についても語った。

 その中に、こちらが彼に渡した浮気調査の報告書が混じっていたのだ。

葉群紫月

うちで作った報告書の情報を使ってストーカー行為だぁ? 何じゃそりゃ!?

東屋轟

浮気調査ってのも嘘っぱちか

 ただ一人、轟は落ち着いていた。

東屋轟

和屋和仁と斉藤久美は元々付き合っていなかったから、そもそも浮気なんてしようが無い。本当の悪者はあの坊主だったって話か

美作玲

やっぱり、和屋君の背景は調べておくべきだったかもしれない

 玲がさっきと打って変わり、深刻な口調で紫月に訊ねる。

美作玲

紫月君が言ってたのはこういうだったの? 何で早く言わなかったの?

葉群紫月

玲さんだって触らぬ神に祟り無しって言ってたじゃないですか。頼まれた調査以外のことをすれば、うちの立場だって危うかったかもしれないし

池谷杏樹

紫月君の言う通りね

 切り替えの早さを発揮して、杏樹が話の続きをする。

池谷杏樹

新渡戸さんの話だと、和屋君のお父さんは大層彼に甘いらしいの。小学生時代なんか、彼を苛めていたクラスメートの家族が全員入水自殺したなんて話もあるくらいよ。あたし達だって、あと一歩彼の背景に踏み込んでいたらどうなっていたか……

葉群紫月

暴力団と一枚噛んでいたってのは本当らしいな

 紫月が親指の爪を噛む。

葉群紫月

で、俺達に対して、それで何かお咎めはあるんですか?

池谷杏樹

新渡戸さんは仕方ないって言ってくれたけど、問題なのは幹人よ。相手の神輿にまんまと乗せられた私達は探偵の恥だって。だから、これを機に店を畳めって

葉群紫月

そんなのに従う必要は無いですよ

東屋轟

そうだな。しかしこうなると、危ないのはむしろ斉藤久美と白猫の方だ

 轟が悩ましそうな面持ちで言った。

東屋轟

示談なり司法取引なり……何でもいい。親父殿はガキの釈放に全力を尽くすだろう。でも、いまの話を信じるなら、息子の恨みを買った白猫と、息子を振った斉藤久美が何らかの制裁を受ける可能性は充分に高い

葉群紫月

そうでなくても、こうなるように仕組んだ愉快犯がいる可能性もある

池谷杏樹

は?

 いまの発言に全員が耳を疑い、揃いも揃って紫月を注視する。

 多少の気まずさも覚えつつ、紫月は毅然と自身の考えを語る。

葉群紫月

最初に和屋和仁がここへ訪れた時、彼は知り合いの紹介でここを勧められたって言ってました。陰謀論を成立させたいなら、その知り合いとやらが重要参考人としてこの件に関与していると考えた方が自然です

池谷杏樹

確証はあるの?

葉群紫月

勘の域は出ない。でも、このまま黙って放置しておくのも癪な奴です。和屋先輩の持ち物には銃も含まれていたんでしょう? もしかしたら、そいつから何らかの理由で銃を与えられた可能性も充分に有り得ます

池谷杏樹

何にせよ、いまの段階では下手に動けないわね

 杏樹が再び全員の顔を見回して告げる。

池谷杏樹

いまの紫月君の話を新渡戸さんに伝えて、和屋君の取り調べの時に使ってもらえないかどうかを掛け合ってみましょう。彼の口から新たな情報が出てくるまで、あなた達は通常業務を続けていて頂戴。今後の行動方針はそれから決めるわ

葉群紫月

了解

美作玲

先が思い遣られるわ

東屋轟

だな

 その頃、問題の新渡戸は白猫探偵事務所のオフィスに訪れていた。いま、応接間で幹人と今回の厄介事について話し合っている最中である。ちなみに弥一と和音は別の仕事で出払っているので、いまこの場にいるのは新渡戸と幹人、それから青葉のみである。

新渡戸文雄

――それにしても、お前らしくもねぇ

蓮村幹人

何がだね?

新渡戸文雄

元妻相手に店を畳めとか、もうちょっと言い方ってのがあんだろ

蓮村幹人

相手は商売仇だ。消えてくれるなら喜ばしいことこの上無い

 幹人が手元のコーヒーカップを持ち上げる。

蓮村幹人

それより、青葉

 呼ばれて、事務机でぼんやりしていた青葉が幹人を見遣る。

貴陽青葉

何か?

蓮村幹人

お前、昨日の傷はもう大丈夫なのか?

貴陽青葉

思ったより深くなかった。相手のナイフも良く研がれていたみたいだし、傷口ならすぐに引っ付く筈

新渡戸文雄

今回の件と関係があるにせよ無いにせよ、そいつを見逃す訳にいかないな

 新渡戸が懐から年季の入ったメモ帳を取り出す。

新渡戸文雄

青葉ちゃん。もう一度訊くが、襲ってきた奴は四十前半くらいの長身痩躯男性、銃はS&WのM500で間違い無いんだな?

貴陽青葉

うん。何か心当たりでも?

新渡戸文雄

一応……な

 新渡戸が頭をくしゃくしゃと片手で掻く。

新渡戸文雄

入間宰三(いるまさいぞう)

貴陽青葉

何だって?

新渡戸文雄

入間宰三。俺らの現場では『生命遊戯』と呼ばれた事件の首謀者だ。あれが刑事時代の幹人にとって最後の事件だった

蓮村幹人

新渡戸、やめろ

 幹人がこれまでにないくらい険しい目で新渡戸を射抜く。

蓮村幹人

青葉を襲った奴が入間であろうとなかろうと、その事件の話はもう思い出したくもない

新渡戸文雄

意固地になるのは勝手だけどな。まあ、いいだろう

 新渡戸が腰を鈍重に上げる。

新渡戸文雄

お前らがいま考えるべきは二つ。一つはお前ら白猫に差し迫った身の危険、もう一つは彩萌市内で野放しになっている襲撃犯だ。相手が和屋絡みだと、この町全ての侠客を敵に回す羽目になるかもな

蓮村幹人

黒狛も白猫も、互いに面倒な相手をする羽目になるとはな

新渡戸文雄

同情するがね――失礼

 新渡戸が携帯電話の着信に応じ、何かを話し始めた。会話の内容から、十中八九彼の部下からだろう。手持ち無沙汰にしていた青葉は、とりあえず愛銃であるベレッタの分解整備をして時間を潰すことにした。

貴陽青葉

社長

 青葉は整備の手を止めないまま訊ねた。

貴陽青葉

社長は覚えてる? 私が社長に拾われた時のことを

蓮村幹人

何だ、いきなり

貴陽青葉

何が狂おしかったのか、私は預けられた先々で問題行動を起こしていた。でも社長はそんな私の里親になった。よりにもよって、重大な精神疾患を抱えていた、この私を

蓮村幹人

…………

貴陽青葉

その入間とかいう奴は、当時の私よりも危険な奴なのか?

蓮村幹人

奴とお前とでは危険の次元が違う

 幹人はそっぽを向いて答えた。

蓮村幹人

それに、過去は結局過去で、大事なのは現在だ。いまのお前は誰よりも強くて優しい探偵になった。私がかつて目指そうとして立てなかった境地にお前はいま立っている。だから、もう二度とそんな寝言は口にするな。これは社長命令だ。一生遵守しろ

貴陽青葉

……了解

新渡戸文雄

――ああ、分かった、すぐ署に向かう

 やがて通話が終わり、新渡戸がやれやれと首を振る。

新渡戸文雄

たったいま、良い意味で悪いニュースと、本当の意味で悪いニュースが入った。どっちから先に聞きたい?

蓮村幹人

良い方から

新渡戸文雄

和屋和仁の親父さんの死体が彼のオフィス内で発見された

蓮村幹人

懸案事項が一つ減ったな。これで暴力団から狙われずに済む。死因は?

新渡戸文雄

側頭部に銃弾が一発。勿論即死だ。あと、執務机に仏さん直筆の書き置きがあったそうだ。自分の息子が犯した度重なる愚行に対して自らの命で責任を取る、みたいな内容だったらしい

 ということは、先のストーカー以外にも和仁には何かしらの前科があるようだ。それが何かを追求する気は無いが、そうなると彼に目を付けられた黒狛はなおさら不憫だ。さすがに同情を禁じ得ない。

新渡戸文雄

それと、自殺に使用された銃はスタームルガー・ブラックホーク。発見時にシリンダーが空っぽだったことから、発砲直前までの残弾数は一発だったと思われる。男らしい最期だよ

 どうやら親として愚かでも、曲がりなりにも男としての仁義は持ち合わせていたらしい。とはいえ、この責任の取り方が決して正解という訳ではない。

 ただ、何にせよ、これで町全体を敵に回さずに済みそうだ。

蓮村幹人

そうか。で、本当の意味で悪いニュースは?

新渡戸文雄

それなんだが……

 新渡戸は何故か躊躇うような仕草を見せるが――隠し果せる訳も無いし、口ごもっているだけ時間の無駄と察したのか、慎重に口を開いた。

新渡戸文雄

いま話題の依頼者、斉藤久美の彼氏――前田健の遺体が発見された

 和屋和仁から押収した黒狛特製の報告書に掲載された写真の中で、前田健と斉藤久美は仲睦まじく身を寄せ合ったりしていたが、その時使われた場所が彼の最期を飾る処刑台となった。

 商店街を抜けた先の住宅街にある、深緑が密集した共同公園の小さな広場が今回の事件現場なのだが、問題なのは場所ではなく、被害者・前田健の死に様だった。

 まず、両の目玉が後頭部の頭蓋ごと綺麗さっぱり消し飛んで、頭に丸い風穴が二つ開けられていた。おそらく、銃弾か何かに貫通されたのだろう。しかも唇が削ぎ落とされ、第二関節で斬り落とされた両手の指が全て喉の奥まで突っ込まれている。さらに下半身は裸で、股間からは陰茎が根本から切断されて消え失せている。原型を留めたまま近くで見つかれば御の字だが、運が悪ければ彼のイチモツは烏のエサか。

 これは数多くの死体と対面してきた新渡戸からしても、吐き気を禁じ得ない様相だった。

新渡戸文雄

くそ……急いで飛んでくるんじゃなかったぜ

いましがた臨場した検視官によると、マル害はおそらく生きたまま解体されたのではないかとのことです

 隣にいた若い巡査が、発見当初の様子を簡潔に述べてくれた。

第一発見者はマル害と同じ学校に通う高校一年生の男子生徒です。帰宅中にここへ寄り道していたところ、この死体を目撃したとか

新渡戸文雄

そいつはいま何処に?

あちらに

 巡査が指したのは、公園の入り口手前に止まっているパトカーの一台だった。後部座席で制服姿の少年が制服警官と何かを話している。

 新渡戸は早速、そのパトカーに近寄り、窓を開けてもらった。

新渡戸文雄

よう、少年。君、第一発見者なんだってな

貴方は?

新渡戸文雄

俺は彩萌警察署の新渡戸ってモンだ。お前さんの名前は?

葉群紫月

……葉群、紫月です

 変わった名前だな。それに、どことなく青葉と雰囲気が似ている。

新渡戸文雄

通報したのもお前さんか。どうだ? 落ち着いたか?

葉群紫月

ええ、まあ

新渡戸文雄

そうか。一応すぐには帰すつもりだから、もうちょっとだけ話を聞かせてくれや

葉群紫月

僕を疑ってるんですか?

新渡戸文雄

まさか。これはあくまで目算だが、仏さんの血の乾き具合がそこまで進行していない。ってぇことはあの少年が殺されたのは本当についさっきだ。お前さんの服には返り血一つ跳ねていないし、お前さんはシロで間違いはない

そのような犯行が可能な所持品も一切持ち合わせて無かったですし

 いままで事情聴取をしていた制服警官も新渡戸の意見に同調する。

新渡戸巡査長、あとはまた私が

新渡戸文雄

おう。任せたぜ。――あ、そうだ

 新渡戸はたったいま思い出したことを紫月に告げる。

新渡戸文雄

帰り道はマジで気ィつけろや。最近、おかしな奴がここらへんをちょろちょろしてる

葉群紫月

……肝に銘じておきます

新渡戸文雄

良い心がけだ

 新渡戸は紫月に背を向け、再び現場に向けて歩み寄る。あと少しで死体が運び込まれてしまうので、いまのうちにこの現状の空気を可能な限り覚えておく必要がありそうだ。

 再び前田健の死体を見下ろしていると、新渡戸の脳裏にとある映像が過った。

 写真だ。黒狛の調査報告書に掲載されていた、あの写真。

 あの中で、前田健は斉藤久美と両手の指を絡めていた。がぶりつくようなキスもしていたし、お互いを長い間見つめ合ったりもしていた。夜間の写真では、丁度ここの地面で久美は健の下腹部の上に跨って腰を振り――

新渡戸文雄

そういうことかよ

 皮肉の利いた惨殺手段――これはあの、『生命遊戯』の続きだ。

 彩萌市の犯罪史において史上最悪の様相を呈したあの事件が、十数年の時を経てこの町に舞い戻ってきた。

新渡戸文雄

入間……宰三……!

 我知らず、新渡戸は両手の拳を固く握り込んでいた。

『群青の探偵』編/#2「狂人再臨」 その四

facebook twitter
pagetop