4 わがまま言っても

その男の子は、私が目の前でしゃがんでにこりと笑っても、表情ひとつ動かさなかった。

めげない。

川越 晴華

こんにちは。どうしたの?

母を待っているんです。

心配していただかなくても平気です、すぐに戻ってくると言っていましたから

ずいぶんと大人な対応だ。

にーにー

……けれど、男の子の猫はないている。

何かを訴えているのが、声を聞いただけでわかる。

レイン

嘘だって

レインが、簡潔に通訳してくれる。

それもそうだろう。男の子の表情には、表情を殺していますと書いてあるように見えた。

ぎゅっと力を入れて、何もかもを封印しているような顔だ。

川越 晴華

嘘って顔に書いてあるね

直球を投げてみると、男の子は私からわかりやすく目をそらした。

この子は、朝からずっとここにいるのだ。

迷子か、おいてけぼりをくらったのではないかと、心配になって尋ねる。

川越 晴華

すぐに、戻ってくるんだよね

……はい。

僕は人混みが苦手なので、外に出て待っていることにしたんです。

あと数分で戻ってくると思います。

デートの邪魔をしてごめんなさい

川越 晴華

デッ

何を言うかこの子はー!

私は思わず動揺してしまった。

ふ、と静かに笑う先輩の余裕が羨ましい。

川越 晴華

違うよ! 

お、お姉さんと、このお兄さんは、いとこなんだよ!

……嘘ですよね

雨音 光

それは嘘だろ、川越さん

レイン

晴華さん、嘘が下手すぎますね

クロニャ

いくらなんでも無理があるにゃあ

味方がいない!

川越 晴華

と、とにかくお姉さんは心配なのでお母さんが来るまで君のそばを離れません! 

名前は?

男の子は少しだけ困ったような顔をして、

まなと

まなとです。

大丈夫ですよ、お姉さん

と目をそらした。

さっきと同じ方向に、ちらりと目が揺れる。

川越 晴華

まなと君が本当のことを教えてくれたら、大丈夫だって信じる。

心配だから

まなと君は困った表情のまま首をかしげると、観念したようによどみなく話はじめた。

しゃべってしまった方が楽だろうと判断したのかもしれない。




その言葉は、あまりにまっすぐで、シンプルだった。

まなと

……もうすぐ、両親が離婚するんです。

僕は母と一緒に暮らすことになっています。

でも、僕は両親のどちらも好きなので、お別れする前に、父ともっと一緒の時間を過ごしたいんです。

ですから、こっそり家を抜け出して、父がここを通らないかなと見ていただけです。

駅の方ばかりみていると怪しまれるので、商店街の方を向きながら、ちらちらと

川越 晴華

……そっか

まなと

親の決めたことです。

お互い嫌いになったわけではないけれど、離婚したらもう会えないそうなんですよ。

だから、父とのお別れの前に、少しでも一緒の時間をって。


まあ、万が一父が通ったとしても、話しかけられないとは思うんですけどね。

今の時間帯は仕事中ですから。でも、なぜかここにいるんです。

少しだけ、バカみたいだなって、思うんですけどね

困った表情のまま、彼は言う。

なー……

レイン

……寂しいってさ

子猫の通訳をしながら、レインがふうとためいきをついた。


淡々と告げられたその言葉は、ほつれた糸のようにからまりあって、私の胸に投げつけられた。


難しい。どう答えよう。


そう思っていると、私の後ろにいた先輩が、まなと君の横に回って、まなと君の頭を優しくなでた。

雨音 光

偉いね

まなと君は、表情を変えずに、目をそらした。


ちらり、と駅を見る。

まなと

……ありがとうございます。

親には迷惑かけたくないので、こういうことも、今日だけにします

雨音 光

そっか。うん、偉いよ。

親の決めたことって、子どもにはどうしようもないこと、あるもんね。

たぶんまなと君は、我慢できる。


強いし、偉いよ

先輩の言葉に、まなと君は静かに顎を引いた。

力強い、うなずき。


確かに、子どもは無力なことが多くて、どうしようもないことも、ある。

でも、素直に従ってばかりだと、いつかとんでもないところに置き去りにされることもある。


その場所で、あなたは頑張れるでしょうって……私がそうだったように。






だから。

川越 晴華

子どもは、わがまま言ってもいいと、私は思うけどなあ

言った言葉は弱々しくて、自分でもあわてた。

声を、むりやり明るくする。

川越 晴華

言うだけなら、タダだし! 

まなと君の意見を言わないと、きっと後悔するよ

先輩は、まなと君の頭に置いていた手を離して、小さく繰り返した。

雨音 光

後悔……

私は、先輩を見上げて、笑いかけた。

川越 晴華

はい。私は、そう思うんです

雨音 光

……確かに、そういうこともあるのかもね

川越 晴華

伝えなくていいなら、いいけれど。


本当はお父さんともっと一緒にいたいことも、今後も会いたいことも、何より、まなと君がずっと我慢しているってことも

まなと君の視線が、駅から、私に移動した。

まなと

わがまま、言ってもいいんですか? 

迷惑をかけるだけなのに

川越 晴華

迷惑かけてもいいんじゃない? 

だって、他人事じゃないでしょ。

一緒にこれから暮らしていくお母さんに、辛いの気持ち、隠し続けるのは辛いし、たぶんお母さんも気がつくよ

まなと

……隠し通せますよ

にー

猫の声。


レインが、通訳する。

レイン

寂しいって、猫は言ってるよ

寂しい。


隠し通せる、通せない、それ以前に、まなと君は、寂しい。

川越 晴華

……寂しいくせに

私が静かに微笑むと、まなと君の目が少しだけ揺らいだ。

まなと

……寂しいって、お母さんに言ってません

思い出したように、まなと君は言って、ぽかんと口を開けた。

まなと

言って、いいのかな。

お母さん、僕が寂しいこと、知らなかったらどうしよう……

雨音 光

……それは、困るね

先輩が、まなと君の隣でしゃがむ。


まなと君の目線に自分の目線を合わせて、目を細めた。

雨音 光

ごめん。さっきの訂正する。


まなと君は我慢できる、じゃなくて、もう我慢してるんだよね。


たくさん、我慢して、たくさん頑張っている。


それをずっと続けていくのは、しんどいね。

ごめんね。

寂しさを、伝えられないのは、辛いよね

そして、小さく、こぼした。

雨音 光

親の言うことをしっかり聞いて、言いたいこと飲みこむのが、優しさだと思ってたよ

そう言う先輩の表情は、優しいのにどこか苦しそうで、私は驚いてしまった。


私の驚きは、先輩のように、顔に出てしまっていただろうか。

まなと!

そのとき、女性の叫び声が聞こえた。


まなと君ははじかれたように顔をあげた。


まなと君によく似た、若いお母さんが駆けてくる。

その隣には、子猫と同じ色をした猫がいる。

まなと! 探したのよ!

まなと

お母さ……

言い終わる前に、抱き締められたまなと君は、お母さんの胸の中で硬直していた。


同じようにお母さん猫に抱き締められた子猫は、にゃっと小さな声を漏らした。

びっくりしたじゃない……

強く抱き締めるお母さんの手は、震えていた。


しばらく、ぎゅっと強く抱き締めたあと、お母さんは立ち上がり、まなと君の手を握りしめたまま、私達に深々と頭を下げた。

うちのまなとが、ご迷惑をおかけしました

迷惑、という言葉にまなと君はぴくりと反応した。


私は、小さく笑いながら、まなと君に向かって首をかしげてみせる。




そうだよ、君はすでに迷惑をかけているし、それでいいんだよ。

雨音 光

いえ、無事にお母さんと再会できてよかったです

先輩がぺこりと頭を下げた。


私も立ち上がって、会釈をして、まなと君を見つめる。

川越 晴華

好きな方を選んでいいよ

静かに言った。

お母さんは、何のことかわからないと言った顔だ。


しかし、まなと君は違う。


目が、左右に揺れる。迷っている顔。

もう、その視線は駅の人混みを縫うことはない。




視線がぴたりと定まって、まなと君は、下唇を小さく噛んだ。

まなと

ごめん、お母さん

小さく、まなと君は言う。

まなと

迷惑、かけちゃう、けど……でも……!

え?

にゃー!

子猫が叫んだけれど、お母さん猫は驚きもせず、静かに猫に顔をすりよせるだけだった。

まなと君のお母さんは、どうだろう。


私は確信していた。

川越 晴華

大丈夫。大丈夫だよ、まなと君

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