今日の仕事に関しては成功したという手応えより、疑問点の方が数多く残った。

浮気の証拠だけに焦点を絞り、依頼者当人の素性を調べなかったのは、単にそれが仕事に含まれていなかったからだ。和仁に気を遣わず、へそで茶が沸くような恋物語に登場する人物全ての素性を細かく調べていれば、もしかしたらこの案件は予想外の結末を迎えていたかもしれない。

 それが例え、和屋和仁が知りたい結果で無かったとしても。

 しかし杏樹はあの調子だし、玲も轟もこれ以上はこの件に深入りしない様子を見せている。紫月一人が何を言ったところで、耳を傾けてはくれないだろう。

 何かもやもやする。俺は一体、どうすれば良かったんだ?

葉群紫月

……本屋か

 帰りの夕刻。紫月が何となく立ち寄ったのは、彩萌駅と隣接する駅ビルの本屋だった。学校では他者との関わりを断つという意味合いも込めていつも自分の席で本ばっかり読んでいるのだが、そろそろ新しい本を仕入れなければ色々気まずい。下手に変な奴が寄りついて、自分が探偵をやってるだなんて噂が立つのも非常に困る。

 俺は日陰者の役を徹底しなければならない。誰から嫌われようが、誰から疎まれようが、そうでもしなければ俺の日常は現代の病に浸食される。

 紫月はふらりと新刊の棚の前に立ち、適当な文庫本を手に取ってみる。

 どーれーにーしーよーおーかーなー、などと呟いていると、紫月は自らの背後を通過する奇妙な気配を感じ取った。

 何となく振り返った先には、見覚えのある後ろ姿が、覚束ない足取りでよろめいていた。

 後頭部で左右に揺れるポニーテール。低い背の割に出るところはきちんと出た扇情的な体型。着ている制服は、明天女子高等学校のそれだ。

葉群紫月

……貴陽さん?

貴陽青葉

お、君は――
あ、ちょ、ヤベ

 振り返った拍子に、青葉がバランスを崩し、両手一杯に抱えていた大量の本を床にぶちまけた。何をやってんだかと落ちた本を見下ろすと、青葉は無表情のまま慌てふためき、わたわたと床の本をかき集め始めた。

貴陽青葉

見るな、忘れろ

葉群紫月

いや、別に……君の趣味に関しちゃ何も言うつもりは無いけど……

 なるほど。青葉は少女漫画とBL本が好きなのか。覚えておこう。

貴陽青葉

だ……大体、君は何でこんなところに

葉群紫月

俺は読書家なんだよ。何処の本屋に現れても不思議は無い。もっとも、BL漫画には興味無いけど

貴陽青葉

忘れろと言ったろうが。ちなみにこれは……あれだ。BでLな本については、単なる知り合いのお遣いだ

葉群紫月

それって腐女子のお友達?

貴陽青葉

いや。ゲイだ

葉群紫月

ぶっ!?

 ゲイにBL本のお遣いを頼まれる女子高生、貴陽青葉。面白すぎる。

葉群紫月

へ……へぇ。お知り合いにゲイの方がいるんだー。奇遇だなー。俺にも知り合いにレズビアンがいるんだー

貴陽青葉

君は君で幅広い交友関係を築いているようだ

 全ての本を拾い上げると、青葉は無言で踵を返し、ろくにこちらへ挨拶もせずにレジへ向かった。紫月も買う本が決まったところなので、彼女の後を追うようにして列に並んだ。

 青葉が顔だけで振り返り、紫月をじとっと睨みつける。

貴陽青葉

ついて来るな、鬱陶しい

葉群紫月

俺だって買い物したいの

貴陽青葉

あっそ

 表情では読み取り辛いが、いまの彼女は少し怒っている様子だった。そんなにBL本を見られたのが恨めしいか。こういうのを人は不可抗力、もしくは理不尽と言う。

 やがて青葉の会計が終わり、紫月の番になる。すると、青葉は逃げるようにして本屋から離れた。彼女がいま提げているマイバッグの中には十冊以上もの書籍が詰め込まれているので、あれを彼女一人で持って帰れるのか、少々心配なところではある。

 こちらの会計も終わったので、青葉の姿を探してみる。

 いた。駅の改札に繋がる連絡通路の手前で、青葉は未だにマイバッグの重量と格闘しながらよたよたと歩いている。

 紫月は遠くから彼女に声を掛けた。

葉群紫月

おーい、貴陽さーん

 青葉はこちらの呼びかけに応じて足を止めて振り返ったが、すぐに視線を前に戻して歩き出してしまう。

 随分と無愛想なお嬢さんだ。なら、こちらも相応の手を打たせてもらおう。

葉群紫月

あんれぇ? この本、たしかさっき落としていった人がいたような……

貴陽青葉

!!?

 紫月が振り上げた物体を見て、青葉が目をぎょっと剥いた。

 それはまさしく、彼女が持っていたBL本の一冊である。実は本を床にぶちまけた段階で、一冊だけ彼女が拾い損ねていたのを紫月がこっそり拾っていたのだ。

葉群紫月

大丈夫、お会計は俺の方でしといたから――

葉群紫月

あれ?

 信じられないことに、青葉は超重量のマイバッグを、ハンマー投げの要領で紫月に投擲していた。

 直撃。布地からくっきりと浮き出た本の角を鼻面に喰らい、紫月はコンクリートの床に大の字となって転がった。

 傍まで歩み寄った青葉が半眼で見下ろしてくる。

貴陽青葉

何だ? 君は私と仲良くなりたいのか? それとも私を怒らせたいのか?

葉群紫月

せっかく今年一番の親切心を働かせてやったのに……

貴陽青葉

公衆の面前で他人のBL本を振り回す親切心がこの世の何処にある?

葉群紫月

悪かったよー。謝るからさー。土下座……いや、土下寝するからさー

貴陽青葉

そのまま一生眠ってろ

 青葉は忘れ物の本とマイバッグを拾い上げると、財布から千円札を抜き、紫月の腹の上に放り捨てた。紫月が立て替えた分の金を戻しているつもりらしい。

貴陽青葉

本の値段よりちと高いが、釣りは要らないから

葉群紫月

ああ、そう? じゃあ、お言葉に甘えて

 起き上がり、紫月は鼻をさすりながら言った。

葉群紫月

それより、どっかで適当にご飯でも食べにいかない?

貴陽青葉

……まあ、いいだろう。私も丁度、空腹だし

 さっきより落ち着いたのか、青葉は以前会った時と同じくらい平静に頷いた。いまみたいに、余程機嫌が悪くなければ素直な子なのだろう、きっと。

 二人は駅の足元にある適当なラーメン屋に入り、券売機でその時期一番のオススメメニューを選択し、手近なカウンター席に並んで座った。よく考えてみれば、いまの学校では友人が一人もいない紫月にとって、同世代の女子と外食する機会は非常に珍しいと言える。

 さて。このままずっと黙っているのも芸が無いので、注文の品が来るまでの間、とりあえず適当な話題でも振ってみるとしよう。

貴陽青葉

葉群君や

 おっと。あっちから話題を振られてしまった。

貴陽青葉

君は昔からこの町に住んでたのかい?

葉群紫月

そうだよ。君は?

貴陽青葉

私は……もっと、遠くの地方に住んでいた

 言葉を濁しつつ答える青葉の横顔は何処か物憂げだった。

貴陽青葉

葉群君は、「こうのとりのゆりかご」って分かる?

葉群紫月

いわゆる、赤ちゃんポストだな。熊本県のとある病院が設置しているらしい

貴陽青葉

私は出生後、そこに投函された

 どうやら、これからされるのは随分と胸糞の悪い話のようだ。

貴陽青葉

乳児院で保護された私はしばらくの間、引き取り手が見つからなかった。それからは色んな施設を転々として、小学二年生くらいになった時にようやく引き取り手が見つかった

 青葉は紫月の前に、所々が細かく錆びている小さなオルゴールを置いた。

貴陽青葉

投函された私の傍にこのオルゴールが置いてあったそうだ。産みの親が私にくれたものらしい

葉群紫月

ふーん。どんな曲が入ってるの?

貴陽青葉

『荒城の月』だ。音楽の授業で名前くらいは知ってるだろう?

 勿論知っている。よく葬式なんかで流れているBGMみたいで、子供心にはあまり心地良い代物とは言えなかった。

葉群紫月

これ、まだ動くの?

貴陽青葉

動きはするけど、ここで流すのはどうかと思う

葉群紫月

人様の店でそんなことはしないよ

 紫月がお冷を一口飲むと、二人の手元に注文したラーメンが運ばれてくる。どういう訳か、注文していない餃子もセットで付いてきた。

カップルには大サービスですぁ

 LED電球みたいに明るいスキンヘッドのグラサン店主が、太陽光みたいに明るい笑顔をくれた。

貴陽青葉

葉群君。どうやら私達はお似合いのようだ

葉群紫月

らしいな

 なら、店を出るまではカップルのフリでもさせてもらうまでだ。後で真相が判明して、目の前のハゲ店主から餃子代を寄越せとか言われてもたまらないし。

 お箸を手に取り、据え膳を前に手を合わせて麺を何口か啜る。

 すると、青葉が能面みたいな無表情を保ちながら訊ねてきた。

貴陽青葉

私は腹を割って内臓をぶちまけた。今度は君の番だ。何か面白い話をしろ

葉群紫月

君が勝手に切腹したんだろ。……まあ、いいや

 箸を器の上に置き、紫月はシミだらけの天井を見上げながら言った。

葉群紫月

俺も、実の両親がいないんだ

貴陽青葉

そうなのか?

葉群紫月

産みの親から暴力を振るわれてたんだよ。それを当時住んでたアパートの大家が気付いて通報して、両親は逮捕され、俺は児童福祉施設に入れられた。両親はもう既に出所してるけど、その直前にいまの親が俺を引き取った

貴陽青葉

実の両親のもとに戻る気は無いのか?

葉群紫月

無いね。顔を見たら殺したくなるだろうし、若い身空で前科一犯は中々堪える

貴陽青葉

お互い、苦労してるな

葉群紫月

面白い話じゃなくて悪かったよ

貴陽青葉

いや。辛いのが私一人じゃないって知れただけでもめっけもんだ

葉群紫月

そうか

 二人はしばらく、無言でラーメンにがっついていた。さっきまで思春期の男女が語るにしては重すぎる話題をぶつけ合ったせいなのか、揃いも揃って次の話題が見当たらないでいる。

 ラーメンを完食して一息ついていると、これまたどういう訳か、店主がきんきんに冷えたジョッキを一杯ずつ、二人の手前に置いてくれた。

葉群紫月

店主さん。これは?

新作の特製レモンサワー。勿論、ノンアルコールだ

葉群紫月

頼んだ覚えは無いんすけど

いまのお二人さんにはお似合いのチョイスかと

葉群紫月

…………

 何だろう。適当なノリで敷居を跨いだのが申し訳なるくらい、このラーメン屋の店主は素晴らしいハードボイルド精神をお持ちのようだ。

 紫月と青葉はそれぞれ目を白黒させ、互いに顔を見合わせると、透明なレモンサワーのジョッキをおそるおそる持ち上げる。

葉群紫月

じゃあ、お言葉に甘えて

貴陽青葉

何か知らんが、乾杯

 ややぎこちなく、二人はジョッキを打ち鳴らした。

 和屋和仁の父親が裏社会で懇意にしている暴力団連中は、主に彩萌市内の風俗街一帯を強い力で取り仕切っている。当然、ここら一帯で和仁の顔を知らない者はいないし、カモにしようなどと考える馬鹿な連中はとっくのとうに海の藻屑だ。

 父親の名刺を手形にして入店したキャバクラの一角で、和仁は向かいの席に腰を落ち着けているトレンチコートの男に黒狛特製の報告書を差し出した。

和屋和仁

要望通り、あんたの分の報告書を貰ってきた

上出来だねぇ

和屋和仁

それを何に使うつもりだ?

詮索屋は嫌われるぞ? 俺には俺の目的がある。お前さんはお前さんの目的を果たせば良い。そういう約束だ

 男はコートの懐からくしゃくしゃの大きな茶封筒を取り出し、テーブルの上に無造作な仕草で放った。封筒の真ん中が不自然に隆起しているのは、中に大きくて硬い何かが入っているからだ。無論、人には見せられない類の物体であることは間違いない。

情報料の代わりだ。物々交換は不慣れかね?

和屋和仁

金なんて湯水のように湧いてくる。はした金よりは使い道がありそうだ

入間宰三

一応、中身ぐらいは確認しておいたらどうだ?

和屋和仁

そうだな

 別に疑ってる訳じゃないが、中身の真贋を確かめるのも悪くはない。

 和仁は封筒から例のブツ――九ミリ口径の自動拳銃と弾のケースを取り出した。弾倉には本物のホローポイント弾が装填されている。正真正銘、本物の銃だ。

和屋和仁

久美……俺は絶対に許さないからな

 シグサヴエルP226。
 これが、和仁に与えられた唯一の「殺傷力」だった。

『群青の探偵』編/#1「群青」 その五

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