葉群紫月はショルダーバッグに黒犬の仮面を押し込み、人気の無い住宅街を縫い、まっすぐ駅に向かって進んでいた。自宅のマンションが駅前にあるからだ。
葉群紫月はショルダーバッグに黒犬の仮面を押し込み、人気の無い住宅街を縫い、まっすぐ駅に向かって進んでいた。自宅のマンションが駅前にあるからだ。
閑静な夜道を抜け、サイケデリックなネオンが躍る猥雑とした大通りに出る。夜の十時半を過ぎているというのに、自分とそう年の変わらない少年少女達が堂々と往来を行き交いしているのは、単純にここら一帯の治安を担当する警察連中の職務怠慢だろう。
君、この近くの子? 保護者の方は?
父親とこの場で待ち合わせしている
警官が四人、噴水広場の手前でたむろしている。捕まりでもしたら面倒だな。
と思ったら、既に先客がいたらしい。警官達は噴水の淵に座り込む少女を取り囲み、なだめるような声音で彼女といくつかの押し問答を繰り広げていた。
私のことはどうかお構いなく
構ってあげてぇなあ。
いやいや、そういう訳にはいかないって
うんうん、そうだよね、普通は。
十八歳未満の子はこの時間に保護者の同伴も無しにうろついちゃいけないんだよ
だったらそこらへんを練り歩いている高校生らしき集団も同罪じゃね?
悪いけど身分を確認出来るものを見せてもらえるかな?
一人のいたいけな少女を相手に寄って集って、何を必死になっているのやら。男として、聞いているこっちが恥ずかしくなりそうだ。
しかし言われてみれば警官達の言うことにも一理ある。少女の外見年齢は紫月の実年齢と大体同じくらいだ。つまり、推定十六歳前後である。
顔は小さく、表情は作り物みたいに無機質だ。背は中学生と間違われる杏樹と同じくらい低く、その割に体格は女性の特徴的な部位が程よく目立っている。髪型がポニーテールなのもあって、外見的には紫月の好みそのまんまだ。
少女はさして可愛くもない財布から学生証らしきカードを警官に提示すると、無表情のまま毒を吐いた。
これで良いだろう。居心地悪いから、さっさと離れてくれない?
貴陽青葉(きようあおば)――明天女子高等学校って、結構有名な女子校じゃん。なおさら見逃せないよ
だったら一応、そのお父さんが来るまで僕らもここで待つけど……
何が「だったら」だ。邪魔だと言ってるのが分からないのか」
どうやら本格的にもめ始めたらしい。紫月の足も、自然と止まっていた。
私が何かやましいことをしているように見えるか? だったら心外だ。警察呼ぶぞ
いや、警察は僕らだから
違う。お前らは警察に偽装した性犯罪者集団だ。寄るな。まだ私は妊娠に対して躊躇がある身だぞ。産まれてくる子供の養育費を貴様らの安月給で払えるのか?
曲がりなりにも公務員なんだから金銭面の心配は無用というか話がとんでもない方向に飛躍し過ぎてはいないだろうか。
あのね、あまり騒ぐとこっちも――
あのー、サーセン
見るに見かねて、紫月は警官達に後ろから声を掛ける。
その子、俺の妹なんです
は?
いきなりの偽物兄貴の登場に、警官どころか青葉なる少女まで間抜け顔を晒す。
青葉。親父が待ち合わせ場所を変えたってよ。そこのファミレスだ。さ、行こう
え……あ、お……おう
青葉が立ち上がると、紫月は小刻みに頭を下げながら、彼女と一緒に警官達の壁をするりと抜ける。
すんません、ちょっと通りますよーっと
おらおらどけや、この税金泥棒が
誰が税金泥棒だテメェ、待ちやがれこのクソガキどもっ
来るってんなら夕食代を奢ってください。じゃ、僕ら行きますんで
レッツゴー、お兄たま
何たる適応力だろうか、青葉は何の違和感も無く、紫月の妹を曲がりなりにも演じていた。警察も一連の二人のやり取りから紫月と青葉の兄妹関係を認めたらしい、愚かにも深追いしてくるような真似はしてこなかった。
二人は咄嗟に指定したファミレスに入り、適当な席に腰を落ち着ける。
しばらくの無言の後、青葉から先に口を開いた。
……君は一体誰だ
葉群紫月。そこらへんにいる、ただの男子高校生だよ
とてもそのようには見えないが……まあ、助かった
青葉が顔色一つ変えずに頭をぺこりと下げる。ちょっと照れくさくなり、紫月は顔を背けながら頬を掻いた。
……いいよ。どうせ、暇だったし
なるほど。暇だからという理由で、何処の馬の骨とも知れん女を妹に仕立て上げてこんなところまで連れ込んだのか
そう警戒するなって。だから警察にも怪しまれるんだよ
私は別に怪しまれるようなことはしていない。父親との待ち合わせも本当の話だ
はいはい
さては信じていないな? 本当だぞ? 本当だからな
さーて、何食べようかな
聞けコラ
青葉が何か言っているが、紫月は全く気にせずメニュー表を広げて今日の夕飯となる料理を選び、ウェイトレスを呼びつけていくつかの注文を出した。
ウェイトレスが去ると、紫月は全く別の方向性から質問を投げかけた。
さっき警官が君と学校の名前を読み上げていたな、明天女子高の貴陽青葉さん
それが何か
あそこは有名なカトリック系の女学校と聞いてる。いま何年生よ
一年生だ
じゃあ、俺と同じだ。通ってるの、彩萌第一なんだ
場所的には随分と近いな
だろ? ところで、そんなお嬢様学校の生徒がこんな時間に、何の用で家族の人と待ち合わせしていたんだ?
何だっていいだろう。家庭の事情に割り込まれるのは好きじゃない
奇遇だな。俺もだよ
紫月が苦笑する。
変なことを聞いて悪かった。お詫びって訳じゃないけど、これから運ばれてくるフライドポテトをつまみながら、ここでのんびり君の親父さんを待つってのはどうよ。俺の夕飯ついでにさ
お心遣い痛み入るが、その必要は無くなった
青葉は自らのスマホの画面を見て、これまた顔色一つ変えずにすぐ席を立った。
もう親が待ち合わせ場所まで来ている。私はこれでお暇させてもらおう
あら残念
また会う機会があれば缶一本ぐらいは奢ってあげる。それで貸し借りはチャラだ
その貸しを使って俺と仲良くなる気は?
考えておく
青葉が無愛想を保ったまま早足で退席する。
彼女の姿が見えなくなるまで見送ると、紫月はたったいま運ばれてきたフライドポテトを一本だけつまみ、ため息をついて口の中に放り込んだ。
何をしていた、青葉
本来会う予定だった四十代の男、蓮村幹人が噴水前で腕を組んで顔をしかめる。
すまない、少々面倒に巻き込まれた
無事ならそれでいい。そろそろ仕事の時間だ
うん
頷き合い、二人は早足で噴水広場から離れる。目的地に着くと、青葉は電柱の陰に、幹人は大通りの人混みに紛れて対象となる建造物をつぶさに観察する。
今回、幹人が率いる白猫探偵事務所に寄せられた依頼は浮気調査だ。依頼者の女性によると、同棲中の彼氏の帰りが最近遅いのだとか。しかも帰ってくる度にその彼氏は知らない香水の匂いまで引き連れてくるらしい。これは典型的な浮気男のそれである。
幹人と青葉が張り込んでいるのは、彩萌市内でも有名な高級フレンチレストランの正面口付近。迅速な仕事をモットーにしている幹人の手腕により、本調査一日目にして早速哀れな浮気男の尻尾を掴み、こうして青葉と共に絶好のロケーションで仕事をしている。
店の戸口から、一組のカップルが出てきた。女の方は知らないが、男の顔は事前の打ち合わせで確認済みだ。間違いない、例の浮気男だ。
青葉は電柱の陰から、周辺のお洒落な景色を撮りたがる女子高生みたいなノリで改造デジカメのシャッターを切る。傍から見れば、後でSNSに公開してリア充女子を気取りたいイマドキの若者にしか映るまいよ。
ただし、デジカメの記録媒体にはきっちり、腕を組んだ二人の姿が残されている。
歩道の幹人も、ただ歩いているように見せかけて、実は隠しカメラで何枚かの写真を撮り続けている。たったいま浮気男が連れの女とキスを交わした場面なんか、言い訳しようが無いくらいに決定的なシャッターチャンスだ。
こちらカルカン。対象が向かう先にはラブホテルがある
トランシーバーによる幹人からの無線だ。
パターンDを適用。一度合流する
こちら銀のスプーン。了解しました、どうぞ
入る瞬間は絶対に押さえるぞ。中に消えたら次に出てくるまで最低三時間は掛かる。利用料金によっては朝までコースも有り得るが、私の気もそこまで長くはない
同感。明日は月曜日、私も学校だ
行くぞ
二人は例のカップルの背中を慎重に追いながら合流し、さながら普通の親子みたいな会話を交わしながら、つぶさに相手方の行方を追う。
やがて人通りの少ない道に折れる。例のラブホテルはこの先だ。
幹人が望遠レンズを装備した一眼レフを取り出し、例の施設へ入店する前後を狙ってシャッターを切る。勿論、連射モードだ。
次に、たったいま撮影した映像を確認して微笑んだ。
さて、ここからは忍耐の勝負だ
それはいいけど、後で何かご飯奢って
仕方無いなあ。何処かのファミレスで適当に――
おい
踵を返してすぐ、正面に立つ黒スーツの男達に声を掛けられた。
数は三人。とてもじゃないが、友好的な雰囲気には思えない。
何だね、君達は
答える義務は無い。そのカメラを渡せ
さもなくば
右手側の男が懐から銃を抜いた。玩具じゃない、あれは本物だ。
なるほど、大体予想通りだな
幹人が鼻の下の長い髭を指先で撫でながら言った。
調査対象は大層な大金持ちで、しかも勘が鋭いらしい。万が一の場合に備えて、SPを自らの周辺に配置していたか
分かっているなら、社長の周辺をうろちょろするのを止めて、さっさとそのカメラをこちらに引き渡してもらおうか。大丈夫、破壊するのはメモリだけだ
君も君なら私も私。お互いこれが仕事なら、譲れぬところはあるだろう
白黒はつける
先に仕掛けたのは真ん中のSPだった。彼が手を伸ばした先にある標的は、もちろん幹人の一眼レフだ。
欲しいならくれてやる
幹人は意外にも、あっさりと一眼レフを手放した。
ただし、望遠レンズが中空でSPの鼻面に直撃する。
ごっ!?
ぬん!
幹人の回し蹴りが一眼レフを巻き込んでSPの横っ面に直撃。まずは一人目。
貴様!
右手側のSPが銃口を幹人に向けるが、
青葉はその直前に男の懐まで潜り込み、
銃のバレルを片方の掌で押し上げ、もう片方の掌を男の顎に叩き込んだ。
これで路上に転がるSPは二人。残り一人はどう踊ってくれるのだろう。
勝負アリ、だな
幹人が地に落ちた一眼レフを拾い上げて気障に笑う。
このカメラは特別製でね。人間と違って、ちょっとやそっとの衝撃で記憶が飛ぶような造りにはなっていないのだよ
くそっ……
無駄な抵抗は止した方が良い。私達は無駄な争いを好まない
青葉はSPの自動拳銃を拾い上げ、残った一人に筒先を向ける。
負けを認めて早々に失せろ
……おい、いくぞ
ちっ
観念したのか、倒れた一人が起き上がり、幹人の一撃で気絶したもう一人に肩を貸し、無傷の三人目と一緒に青葉に向き直る。
青葉はセーフティをロックし、グリップ側を相手に向けて銃を持ち主に返却する。
三人はそのまま踵を返して大通りに出て角を曲がり、二人の前から姿を消した。
馬鹿め。相手を間違えたな
幹人がつまらなさそうに鼻を鳴らす。
それにしても困った。
調査がバレてしまった以上、今日はもうどのみち引き上げるしか無いではないか
証拠写真なら先週撮影した分だけで事は足りる。
今日だって元々は相手が言い逃れ出来ないようにと、依頼者から追加の撮影を頼まれたから来ただけだし
そうだな
幹人が青葉の頭を撫でるのと同じくして、大通りから何回かクラクションが鳴った。丁度正面で助手席側のドアを晒して停車している車からだ。
二人が小走りで車の傍に寄ると、助手席側の窓が開き、職員の一人である長身の気が強そうな女性――西井和音が陽気に挨拶してきた。
よう、お二人さん。迎えに来ましたぜ
君達は別の案件をこなしていた筈では?
丁度終わったんですよ
収穫の方も上々です
運転手の若い短髪の男性、野島弥一が爽やかに答える。
帰り道が社長達の持ち場と重なるんで、ついでに拾いに来たんです
そうか。では、ありがたく相乗りさせてもらおう
青葉と幹人が後部座席に乗り込むと、車はゆるやかに発進し、白猫探偵事務所に続く車道を一直線に走行する。
窓の外を流れるネオンライトをぼんやり眺めつつ、青葉はふと思い出した。
メアドくらい、聞いておけば良かったかな
何か言ったか?
……いや
この町もそう広くはない。葉群紫月とも、いずれまた会えるだろう。