#1 群青

 今日の仕事はストーカー退治だ。

 彩萌(あやめ)市久那堀二丁目のタングステンハイム三階。端に位置取られたその部屋には、依頼主である一人暮らしのOLが住んでいる。彼女の部屋の間近にあたる天井には埋め込み式の小型カメラが一台、それからドアのレンズに偽装したカメラが一台、つまり計二台の監視カメラが仕掛けられている。

 膝の上に乗せたノートパソコンの画面を睨み、池谷杏樹(いけだにあんじゅ)は眉を寄せた。

池谷杏樹

そろそろね

こちら狛犬三号、黒づくめの男がエレベーターに入りました

 エレベーター付近を見張っていた部下からの報告が右耳のインカムから入ってくる。

階段から後を追います

池谷杏樹

くれぐれも気取られないように

かくれんぼは得意な方です。交信終了

 杏樹は再びパソコンの画面に集中する。

 いま見ているパソコンの画面は上下で映像が二分割されている。上は天井の、下はドアレンズのカメラだ。上のカメラは火災報知器みたいな形に偽装されているので、これに気付いたら犯人はストーキングのプロだと断言してもいい。

 来た。上下の画面に、黒い姿が一つずつ映り込んだ。黒いキャップに黒いブルゾン、顔の下半分は黒いマスクで覆われている。種族は勿論人間。体格は中肉中背だ。

 男はドアの前で立ち止まるなり、ブルゾンの懐からビニール袋を取り出し、ゴム手袋を嵌めた片方の手でその中をまさぐった。

 何を取り出す気だろう? と思った矢先、早速杏樹の溜飲が上がった。

 汚物だ。袋から手のひらいっぱいの茶色いナニかを、女性宅のドアノブに塗りたくっている。

池谷杏樹

ココイチさん、戻したらごめんなさい

 杏樹は夕食の内容を思い出して辟易とし、続いて先程の部下に無線を繋いだ。

池谷杏樹

こちら狛犬一号。対象が下に降りたら戻ってきて

了解

 しているうちに、男は袋の中身を全て出し切ったようで、その汚れた指先でチャイムのボタンを連打すると、素早く踵を返して床を蹴り、どたがたと騒がしく階段を駆け下りる。

 杏樹が後部座席のシートに横たわっていたAKライフルと散弾銃を片腕に抱き込むと、たったいまフロントガラス越しに黒ずくめの男が目の前を横切った。
外に出て、男を追うようにして走って来た細身の女性に散弾銃をぶん投げる。

 得物をキャッチした女性、狛犬三号こと、美作玲が場違いにも和やかな笑みを浮かべた。

美作玲

かくれんぼも追いかけっこも楽しいですね

池谷杏樹

バカ言ってないで、とっとと追うの!

こちら狛犬二号。対象を確認。手筈通り、共同公園まで追い立てる

 今度は野太い男の声が報告してきた。彼はマンションを飛び出してきた対象の頭を押さえる役割だ。彼が動き出した以上、こちらもうかうかしてはいられない。

池谷杏樹

玲!

美作玲

ええ

 杏樹と玲が地を蹴り、共同公園の方向へ全力疾走する。

 いまは夜の十時くらいだ。張り込んでいたマンションの付近には人通りが少ない。仕事柄、夜目が利く杏樹達にとっては、夜の追いかけっこはまさに独壇場なのだ。

 やがて公園の入り口に到着して、深緑に囲まれた細道を抜け、円形の広場に出た。

池谷杏樹

そこまで!

 杏樹が声を張り上げると、随伴していた玲が右手側に回り込み、既に左手側でロケットランチャーを肩に乗せて佇んでいた大柄な男――狛犬二号こと、東屋轟と共同で例の男を板挟みにする。

 いや、正確には、板挟みではない。

 黒いジャケットを着た小柄な人物が一人、既に男の正面で行く手を遮っていた。つまり、例の男は四方を完全に包囲されているのだ。

池谷杏樹

観念なさい、ストーカー君

 まず、杏樹が機先を制した。

池谷杏樹

須郷忠弘。ここら近辺の運送業で事務として働いているサラリーマン。そして、ついさっきクソまみれにされたドアの向こうに住む女性は貴方の同僚社員。
三か月前より彼女の周辺をちょろちょろするようになり、次第にその行動は悪化の一途を辿った。女性の話によれば、悪質なメールでの嫌がらせも後を絶たなかったそうね

な……なんなんだ、いきなり何を……

美作玲

誤魔化したって無駄よん

 玲が散弾銃のポンプを前後させる。

美作玲

あなたの行動は全て映像で記録されてるもの

映像?

東屋轟

ああ。警察に引き渡せば一発でアウトな代物だ

 轟がロケットランチャーの照準を標的に合わせながら言った。

東屋轟

美味しく焼き上がりたくなきゃ、ここで大人しくしていような

ひっ……!

 須郷は引きつった声で唸ると、四方を忙しく見回し、杏樹を指さして叫び散らした。

お……おお、お前ら、お前らは一体――一体何なんだ!

探偵だよ

 杏樹の反対方向に立つ彼が、一歩だけ前に出る。

 夜陰から抜け、月明かりに照らされた彼の顔には、黒い犬を模した無機質な仮面が装着されていた。

黒狛(くろこま)探偵社。名前くらい聞いたことはあんだろ?

 仮面の内側に備わった変声器が、彼の声を甲高く響かせる。
 須郷はさらに恐慌した。

黒狛……町の顔役が、どうして!

どうしてもこうしても、ストーカー退治の依頼を受けたからだ

このっ……

 須郷は最初にAKライフルを構えた杏樹、続いて玲、轟と順々に見て――最後に、丸腰で突っ立っている仮面の人物に向き直った。

 すると、

う……おああああああああああああああっ!

 半狂乱となって絶叫し、仮面の人物に突っ込んだ。
 仮面の彼は決して慌てず、相手の突進に合わせて前に出て、須郷の腕を取り、足を狩り、腰を回し――結果、綺麗な背負い投げを決めてみせた。

 彼はすかさず、地面に大の字となった須郷の額に、いつの間にやら取り出していた自動拳銃の黒い銃口を突きつける。

 あれはベレッタM92F。数あるハンドガンの中でも比較的ポピュラーな機種だ。

もう一度言う。観念しろ

……くそ

 男はとうとう抵抗を止め、全身から力を抜いた。
 頃合いを見て、杏樹は指をぱちんと鳴らす。

池谷杏樹

終わったわね。玲、やっておしまい

美作玲

お任せあれ

 合図に従い、玲が何処からともなく頑丈そうな縄を取り出した。

お……おい、お前、何を……っ

美作玲

警察に引き渡すまでの間、貴方の体を拘束します

「拘束って……いや、俺はもう何もしな――」

美作玲

問答無用

やめ……ちょ、何処触って、ていうか何だその縛り方……アーーーーーーッ!

 年甲斐も無く涙目となった須郷の叫び声は、近年稀に聞くような汚さだった。

新渡戸文雄

何故に亀甲縛り?

 彩萌警察署の巡査長、新渡戸文雄が唇をへの字に曲げる。

新渡戸文雄

しかもご丁寧にギャグボールのオプション付きかよ。まるで風俗じゃねぇか

池谷杏樹

新渡戸さんもそういうプレイしたことあんの?

新渡戸文雄

お前は俺を何だと思ってんだ?

池谷杏樹

え? 新渡戸さんって、前の奥さんに変態プレイを強要したから逃げられたんじゃないの? うっそ、マジで? じゃあ、何で別れちゃったのよ?

新渡戸文雄

人様のプライベートを勝手に改変すんじゃねぇ! 別れてねぇし、むしろ夫婦仲は健在じゃボケ!

池谷杏樹

……………………っ!

新渡戸文雄

何驚いてんの!? お前、後日ちょっと話あるからな!

 新渡戸が頭痛を催したように頭を押さえている。一体どうしたんだろう?

 ちなみに文字通りお縄を頂戴した須郷だが、たったいま例の縛り方をされたままパトカーの後部座席に放りこまれたところである。せめてギャグボールは外しておくべきだっただろうか。いや、面白いからあのままで良しとしよう。

 真夜中の大捕り物が繰り広げられた共同公園の周辺には、杏樹が呼んでおいたパトカーと制服警官がいるのは勿論として、通行人が野次馬となって警戒線の外から遠巻きにこちらの様子を眺めている。おかげ様で、騒がしいったらありゃしない。

新渡戸文雄

ところで、池谷

 新渡戸は杏樹が提げていたAKライフルをちらりと見下ろして訊ねてくる。

新渡戸文雄

あともう二台くらいはパトカーを要請するような事案が俺の前にちらついているんだが、とりあえず説明の一つくらいは寄越してもらおう

池谷杏樹

ああ、これ?

 杏樹はいま思い出したようにAKライフルを持ち上げる。

池谷杏樹

これね、家電量販店の玩具コーナーで売ってた子供向けのエアガンを、うちの東屋君が本物そっくりに塗装してくれたんだ。よく出来てるでしょ?

新渡戸文雄

東屋の趣味か。ならいいや

 特に確かめもせず、新渡戸はあっさり納得してくれた。

新渡戸文雄

で、ちゃんと証拠は取ってるんだろうな

池谷杏樹

あたしを誰だと思ってるの?

新渡戸文雄

黒狛探偵社の社長、町の顔役にして四十路のロリっ子凄腕探偵、池谷杏樹様だ

池谷杏樹

分かっているならそれで良し。でも、四十路のロリっ子は余計だから

 何をどうアンチエイジングしたのかは自分でもよく分かっていないが、杏樹の外見年齢は中学生とさして変わらない。昔は夜に出歩いているところを何度警察に補導されそうになって苦労したか――私立探偵として駆け出しだった頃が懐かしい。

池谷杏樹

じゃ、あたしはそろそろお暇してもよろしい? 被害者女性宅のお掃除にいかなきゃいけないから

新渡戸文雄

どうせアフターサービスはロハだろうに、よくやるよ

池谷杏樹

どれも探偵のお仕事よ。じゃ、後はよろしくね

新渡戸文雄

へいへい

 杏樹は近くで手持ち無沙汰にしていた轟と玲を呼び、来た道を戻るようにして歩き出す。

新渡戸文雄

あー、ちょい待ち

 新渡戸が後ろから呼び止めてくる。

新渡戸文雄

お前んトコの従業員、そこの連れ二人だけじゃねぇだろ。もう一人は何処行った?

池谷杏樹

もう一人? 何の話?

新渡戸文雄

黒犬の仮面を被った奴だ。ありゃ一体誰だ?

池谷杏樹

白猫の連中と懇意にしてる貴方にそうおいそれ教えると思う?

新渡戸文雄

幹人の野郎とは昔の同僚だったってだけの話だよ。俺は基本的に中立の立場だ

池谷杏樹

白猫のエースも白猫の仮面を被ってるそうね。その正体を教えてくれたら考えるわ

新渡戸文雄

痛いところを突きやがる。もういい、とっとと帰れ

池谷杏樹

はいはい

 からかい半分に頷き、杏樹は部下二人を連れてこの場を後にした。

『群青の探偵』編/#1「群青」 その一

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