コワーキングスペース
『CHERRY』運営奮闘記

第六話

A市に新しく公営の大規模コワーキングスペースができると聞いて動揺した鮎美は、『CHERRY』近くのコンビニに来ていました。

あ、ほんとにいた。

鮎美

…ふぁ
…柳さん。どうしたの。

今、『CHERRY』に行ったんですけど。
大崎さんに、ここのコンビニ行けって言われたんですよ。鮎美さんが多分カップラーメン食べてサボっている筈だから、元気づけて連れて帰って来いって。

鮎美

……あのおっさん。

大崎さんって、おっさんなんですか。僕と同じくらいだと思っていた。

鮎美

知らないわよどうでもいい。子持ちの中年はみんなおっさんよ。

ははっ、荒れてるなぁ。
ま、元気そうでよかった。僕もアイス買ってきますね。

聞きましたよ。A市の新しいコワーキングスペースの話。
鮎美さん、前言ってたじゃないですか。
他にもスペースが増えることでコワーキングの認知度が上がるから嬉しいことだって。

鮎美

頭ではそう思ってたよ。でも無料で大きい所があんな便利なところにできちゃうと、やっぱり焦るよ。『CHERRY』はどうやったって勝てない。ただでさえ赤字なのに。

勝ち負けじゃないでしょ。ビジネスとしてどうやって差別化して生き残るか、でしょ。『CHERRY』には『CHERRY』にしかないコミュニティがあって、鮎美さんやちひろさんは『CHERRY』にしかいない。そこを生かす方法を考えましょうよ。

鮎美

……だって。私がずっと相談に乗ってもらってた東京の『Apollo』も経営厳しくて閉めちゃうんだよ。いくらコミュニティがあっても難しいのかなって思っちゃう。

僕もその、コミュニティの一部なんですよね。そんな頼りないみたいな言い方しないでよ。

鮎美

う、うーん。
失礼しました。

うーんと、じゃぁ、とりあえず連絡して、見学しに行くのはどうですか?

鮎美

あ!

向こうだって『CHERRY』の存在を知らないはずはないと思う。
行ってみるといいですよ。その上で、そしてお互いの共存を探ってみればいいと思います。

鮎美

そうか……そのとおりだよね。

鮎美

よーし突撃しちゃおう。
柳さんありがとう!おかげで元気でた。

僕はそういう役割みたいですから。

鮎美は新しいスペースの担当者に連絡を取りました。そして準備中のスペースを見学できることになったのです。

水戸部

水戸部です、よろしくお願いします。『CHERRY』のことは、知っていたんです。A市でコワーキングで検索すると必ず出て来ますから。一度利用したいと思っていました。

鮎美

ご存知だったんですねやっぱり。

水戸部

課長にも『CHERRY』に行こうって言ったんですけど。

鮎美

上司の方ですか。

水戸部

ええ。東京をはじめ多くのスペースに一緒に行って調査しました。

鮎美

ふふっ、普通は、東京のスペースや大手の運営している有名なところを参考にするでしょうね。
うちは小さいから、参考にならないかも。

水戸部

あっ、いえ、でもほんと私は『CHERRY』に絶対行きたかったんですよ!カレーの会とかとても楽しそうで!

鮎美

こんどぜひ。楽しいですよぉ。

水戸部

はい!

……で、こちらがメインとなるコワーキングエリアです。机と椅子をこれから配置しますが、固定じゃなく雰囲気を見て動かせるようにするつもりです。

鮎美

吹き抜け……うわーいいなぁ、広くて、明るくて……
あっ、キッチンもあるじゃないですか!

水戸部

はい。料理教室とか食と組み合わせたイベントも、最近コワーキングスペースに多いですから。
私も食べるの好きなんで、キッチンは絶対欲しかったんです!

鮎美

そうだよね。うんうん。
みんなで食べるイベントって大事ですよ。

水戸部

そしてこちらに、打ち合わせスペース。

こちらが会議室。
SkypeやGoogleハングアウトで使える個人用ブースです。

鮎美

すごい!私が欲しいなって思っているもの、全部入ってる……

水戸部

そうですか!そう言っていただけると嬉しいです。
あ、じゃ、私が一番気に入ってるところにご案内しますね。階段の上なんですけど。

水戸部

……ラウンジです。今は何もないですけど、ソファと、自販機、ドリンクコーナーを置いて、リラックスできるスペースになる予定です。眺めがいいでしょ!

鮎美

うわーっ、窓からはA市が一望できるし、廊下側からはコワーキングエリアが見下ろせるんですね。
いいわーこれ。ハンモックも置きましょうよ……


………あっ

水戸部

あ、課長!こちらにいらしてたんですか。
こちら、連絡いただいてた『CHERRY』の運営者の……

星崎

こんにちは。鮎美さん。久しぶりだね。

鮎美

……星崎さん……

水戸部

……え、星崎課長、お知り合いだったんですか?

鮎美

びっくりした。元カレがいた。

ちひろ

……そ、そう。

鮎美

星崎さんかぁ。『CHERRY』に接触してこないわけだわ。ま、それだけじゃないと思うけど。

清川

A市は狭いからね。
ちょっと動くと知り合いばっかりだ。

小松

悪いことはできませんね。

鮎美

って別に私、悪いことしてないんだけど!

そうだ、今度のカレーの会にね。
今日案内してくれた水戸部さんって人、来たいって!
いろいろ意気投合しちゃった。

ちひろ

いい出会いに、なったみたいね。

鮎美

うん。あのね、新しいスペース、ほんとに凄いよ。ただ広くて綺麗でオシャレで新しいわけじゃない。ちゃんといろんなスペースを見て考えて作ってるよ。
コワーキングスペースとして欲しい機能は全部入ってる。
ハコモノだけ整備して安心してるところとは違うわー。

小松

ふひひ。

清川

しかし、そんな大掛かりな場所を作って、人が入るかどうかだね。人をどう集めるかは、運営の手腕にかかってくるんじゃない。

鮎美

そこは運営も手探り状態みたいですね。もちろん他のスペースの事例は見ているけど、なにしろコワーキングスペースって一つ一つカラーが違うし。都会と地方の違いもありますね。同じようにやって同じ効果があるかどうか。

清川

地方ならではの、何かができるといいんだろうね。

小松

鮎美さん、そんな楽しそうにして帰ってくると思いませんでしたよ。あんなにショック受けていたのに。

鮎美

そうだ!『CHERRY』のライバルだった。でもね、なんだかわくわくしちゃったんだなぁ。

小松

元カレと会えて嬉しかったんですか。

鮎美

あのねぇ関係ないよ。星崎さんってだいたい婚約者いるのに私に手出してきた人だよ。
あーあ、長いこと引きずってて損した。いいおっさんになってたし。年月は残酷だね。

小松

鮎美さんだってその分老けたんでしょ。

鮎美

おいこら。

ちひろ

………

ある日の夕方の『CHERRY』。
室内にはちひろと、大崎さんが2人。
鮎美は新しくできるコワーキングスペースに打ち合わせに行っていました。

大崎

コワーキングスペースの、オープニングイベント?!すごいね。

ちひろ

東京や他の地方の運営者やコワーキングに詳しい識者を呼んで、大々的にやるみたいですよ。

それで、鮎美さんも手伝う気満々で、飛び出していっちゃった。

大崎

ちひろちゃん、なんだかつまんなそうだね。ちひろちゃんもなんかやったらいいのよ。

ちひろ

……

ちひろ

………大崎さん。
あの、ちょっとお尋ねしたいんですけど。

大崎

うん?

ちひろ

あの、大崎さんはご家族のために、仕事を辞めて、A市に引っ越していらっしゃったんですよね。

それって、けっこう大きな決断ですよね。

大崎

どうしたの。唐突に。

ちひろ

………ちょっと話、聞いていただけますか。

大崎

そうか……

ちひろ

私に選択肢はないのかもしれません。でも、せっかく今までここで頑張ってきたのに。

大崎

ちひろさんは、何を大事にしたい?『CHERRY』もあるし、友達もあるし、もちろん家庭もあるだろうけど。

ちひろ

全部大事です。選べないですよ!

大崎

ふーん。


あのね。俺の話なんだけど。
俺はこっちに来る前に病気したのよ。

ちひろ

えっ……そうなんですか?

大崎

そう。突然だった。死にかけてしばらく入院した。嫁さんも出産直前だったから大変だったよ。
今でも時々検査しにいかなきゃいけないんだよね。

ちひろ

ええっ…。そんなことが。

大崎

それまで、仕事は好きだし昼も夜もない状態でやってて、家に帰るのも遅くて、それが当たり前だと思ってたんだよね。

大崎

どうやらまだ生きられるらしいって状態になってようやく、いろいろ考えた。
俺はこれから父親になるのにこんなやりかたでやってて、いいのかって思ったのよ。もう俺の人生は俺だけのものじゃないんだな。もっと家族も自分自身も大事にする生活したっていいんじゃないかな、そういうことできるように考えてみようと思ったんだよね。

ちひろ

………

大崎

それで嫁さんとも話し合って、思いきって会社辞めて、A市に引っ越してきたってわけ。

ちひろ

そうだったんですか。

大崎

家族のためっていうより、俺自身のため。

ちひろ

……

大崎

だから。
ちひろちゃんが、誰のためでもない、自分でこれからどうしたいか、だと思うのよ。

ちひろ

はい……考えてみます……

大崎

誰かのため、と思った選択は、後悔するよ。

翌日の朝。

鮎美

ちひろさんおはよう!

ちひろ

あ、おはよう。昨日は報告ありがとう。

……鮎美さん、すごいね。
新しいスペースのオープニングイベントで、セッション一つ持つことになったんだって?

鮎美

そうなんだよー!
今現在のコワーキングをめぐる状況って、思いっきり大事なテーマについて話さなきゃいけなくなった。
そういうのってさ、ほら、もっと偉い人がやるのかと思っていたから、私に振られて、もうびっくりだよー!

ちひろ

ふふ。そう言いながら、嬉しそうじゃない。
A市でコワーキングについて一番詳しいのは鮎美さんだと思う。
A市にいる鮎美さんが話すからこそ、意味があるんじゃない?

鮎美

そうかな。
うん、とにかくまだ間があるからね。
がんばって、話、組み立てないと!

……あ、で、ちひろさん、なんか話があるって、何?

ちひろ

あ、うん。

鮎美

ん?

ちひろ

あのね。

…………鮎美さん、ごめんなさい!

鮎美

え?どうしたの?

ちひろ

私、もう『CHERRY』を続けられなくなっちゃったの。

鮎美

え……

ちひろ

……引っ越すの。

鮎美

え……えーっ!!!

<< 続く >>

第六話 未来へ続く分かれ道

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