久成は初音を座らせると、その小さな足に真新しい草履を履かせてやった。
 初めて草履を履いた自分の足を、初音は怪訝そうに見つめている。

これで、お外を歩くのですか?

ああそうだ、初めは慣れないかもしれないが
我慢して少し歩いてみろ

裸足で歩いてはいけないのですか?

怪我をするから駄目だ。
さあ、試しに一度立ってみろ

 言われて初音は立ち上がり、子供がするみたいにその場でくるくると二度回ってみせた。初めての草履は早くも足に馴染み、歩きにくいということもないようだ。

わあっ、この足音!
お外から聞こえる人の足音とおんなじです!

 初音も草履を気に入ったようだ。はしゃいでまたくるくる回る。
 調子に乗ってそのうち転ぶのではないかと、傍で見ている久成は気が気でない。もっとも初音の身軽さは狐の頃と何ら変わらず、結局転ぶどころか息切れもせずにはしゃぎ続けていた。

 嫁入りから数ヶ月が過ぎ、里に秋の気配が訪れた頃、初音もようやく人への化け方に慣れてきたようだ。毎朝のように違う顔を見せるということもなくなり、こうして毎日同じ笑顔を向けてくれるようになった。
 そろそろ頃合いだろうと、久成は佐和子とも相談の上、村人達に初音の存在と、妻を娶ったことを知らせることにした。子供達を始め、久成の人柄をよく知る村人達からは大きな驚きをもって迎えられたが、同時に皆から祝われ、慶ばれた。

 今日は初音を連れて村々を歩き、あいさつ回りをする手はずとなっていた。
 初音にとっては、栄永家に嫁いでから初めての外出だった。

あら、草履がよくお似合いですね。
もうお出かけになるのでしょう?

 家の奥から見送りに、佐和子が姿を現した。
 初音は回るのをやめ、久成の隣に立って佐和子に向き直る。途端に動きがぎこちなくなったのは、草履を履かされた意味を今更思い出したからだろう。

は、はい、行って参ります

あら、緊張なさっておいでですか?
大丈夫、村の方々は皆とてもよい人です

はい……

それに兄上も一緒ですから。
うんと頼ってやってくださいませ、初音さん

そ、そうでした。
久成様がご一緒なら、きっと怖いこともございませんし……平気です

大袈裟な。
少し村を歩いて、挨拶をしてくるだけだぞ

 初音にとって初めての外出とは言え、そう距離を歩くわけでもない。村の面々にも既に話は通してある。あとは初音さえおかしなことを口走らなければ何の問題もないはずだった。

初音、お前は挨拶だけすればいい。
あまり気負わず、散歩のつもりでついてこい

承知いたしました!
では行って参ります、佐和子さん

日が暮れるまでには戻る

いってらっしゃいませ、お二人とも

 佐和子に見送られ、久成は初音と共に家を出た。
 初音は生け垣をくぐるなり、辺りをきょろきょろと物珍しげに見回した。久方ぶりに出た戸外はその目にどんなふうに映っているのだろう。たちまちのうちに輝く瞳が久成に向けられる。

久成様、今日はよいお天気ですね!

ああ、暖かくてよかったな

 秋空は晴れ渡り、降り注ぐ日の光が色づき始めた野山と麓の集落を照らしている。畦道を寄り添って歩く久成と初音は、しばらく無言で秋の景色を楽しんだ。
 特に初音は久方ぶりの外出とあってか、広がる野山の景色に目を瞠っていた。

わあ……山の色が変わっていますね。
もう秋なのですね、久成様

ああ、もう木々が色づいている。
長い間閉じ込めていて、済まなかったな

いいえ、私の至らなさゆえですから。
でも本当に懐かしい……

懐かしいか、そうだろうな。
あの山で元は暮らしていたのだろう?

はい。
山の上からこの村を眺めたこともございます

 初音の細く白い手が山の頂上を指さした。
 かつて久成が村の男衆と共に、狐狩りに向かったあの山だ。あれきり狐が里に下りた様子はなく、田畑を荒らされることもないとのことだった。
 ただその狐が人に化け、人里へ下り、嫁入りをしたという話だけは久成と佐和子以外誰も知らぬことだろう。

あっ、先生……

わあっ、本当だ!
先生が女の人とおる!

 久成達が山を眺めていると、畦道の向こうから駆けてきた教え子らに見つかった。
 彼らは目をどんぐりよりも丸くして、久成の隣に立つ初音の姿をじろじろと無遠慮に眺める。

お前ら、少し無礼が過ぎるぞ。
挨拶はどうした

 久成が語気を強めると、教え子らだけではなく初音までが慌てふためいた。

あっ、そ、そうでした。
初めまして、初音と申します!

初音さんかあ……。
この人、本当に先生のお嫁御さん?

きれいな人だなあ……。
先生、どっから攫ってきたのさ

何だ、その言い種は。
本当に俺の嫁だ、それに攫ってきてはいない

ええ、『是非とも嫁に来て欲しい』と言ってくださったので、お嫁に参りました

……初音、お前は少し黙っていろ

 久成は嫁の口を封じようとしたが時既に遅し。
 教え子らは二人揃って顔を輝かせたかと思うと、口々に囃し立て始めた。

わあ、先生が頭下げて頼みこんだのか!
そりゃそうでもしないと、先生のところになんて嫁に来ないよなあ!

こんな別嬪さん、先生みたいな人のところに来るはずない。
きっとおでこが擦り減るくらい頭下げたんだろうなあ!

うるさいぞ、お前ら。
俺が頼み込んで嫁に来てもらって何が悪い!

わ、わわ……。
確かに頼んでくださったのは久成様ですが、私も久成様のようにお優しい方のところになら是非お嫁に参りたいと思って、それで――

……頼むから黙っていてくれ、初音

 初音が口走った言葉に、久成も面映さを覚えずにはいられなかった。
 当然、子供らは目敏い。堅物の久成がいつもと違う顔をすれば、すぐさま見つけてそれもからかう。

先生、お嫁御さんの前じゃ締まらねえ顔してんなあ。
こりゃうちのおとうみたいに、尻に敷かれるだろうさ

お嫁御さんの前だと先生が怖くない!
なあ先生、いっそ学校もお嫁御さんと一緒に来たらどうだ?

いい加減にしろ!

 久成が一喝すると、子供らはけたけたと妖怪のような笑い声を立てながら畦道を駆け抜けていった。

 教え子らの姿が見えなくなってから、初音はどこか物憂げな顔をして久成にそっと尋ねてきた。

久成様、もしかして私が余計なことを言ったから、困ってしまわれたのですか?

……いや、お前のせいではない。
きっとお前が黙っていても、しばらくはこの調子だ

 久成の予感はものの見事に的中し、その後の挨拶回りでは会う人会う人に冷やかされる羽目となった。

あら先生、お嫁御さんとご一緒だと顔つきまで違って見えますね。
そんなお顔の先生なんて、初めてお目にかかりましたよ

いえ、自分では普段とそう変わらないつもりなのですが……

まあまあ、幸せそうなお二人ですこと。
先生、こんなきれいなお嫁御さんを貰えて、ご縁があって本当によかったですねえ

ええ、まあ……。
何と申しますか、幸運だったのだと思います

おや、これは評判通りの別嬪さんだ!
羨ましいですねえ先生、どうやって捕まえたんです?

いえ、捕まえたというわけではなく、頼み込んで来てもらったというのが事実でして……

……!

あ、あれ?
どうしました、奥さん

どうした、初音

あっ、いいえ……。
きっと気のせいです、失礼しました

 挨拶を一通り終える頃には日も傾き、久成と初音は夕暮れの光の中で静かな畦道を戻り始めた。

久成様、先程のお帽子の方ですけど……。
私、あの方の匂いに覚えがあるのです

……だろうな。
あの日、一緒に山に入った

ああ、そうなのですか。
だからでしょうか……

 お前を追い回していた人間だ、と教えてやるべきかどうか、久成は少し迷った。だが結局、言わなかった。
 今の初音には不要な情報だろう。今はもう人間の女にしか見えない。誰が見ても初音が狐だったなどと思うはずがなく、当然、銃を持った人間に追い回されることもないはずだった。

 佐和子の待つ家の傍まで戻ってきた時、初音がふと足を止めた。

……

 急に振り返ったかと思うと、暮れなずむ空の下に広がる野山の景色をじっと見つめる。
 久成も同じように足を止めたが、久成が見ていたのは山を注視する初音の横顔だった。思い出に浸っているのか、どこか寂しげな、切なげな表情が浮かんでいた。

 これまで、初音にあえて尋ねなかったことがある。
 嫁入りの日、初音は久成に『知己がいる』と語っていた。その知己とやらがどういう存在なのかはおぼろげにしか察していなかったが、その者とも嫁入り以来会ってはいないはずだった。
 その者は今、どこでどうしているのか。
 人里に下り、人として生きることになった初音は、もうその者と会うこともないままここで暮らすことになるのか――気がかりである一方で、それを尋ねてしまえば初音が山へ帰りたがるのではないかという不安もあり、久成は一度として口にすることができなかった。

……

 だが初音は今、山を見て昔を思い出しているようだ。
 山で暮らしていた時のこと、その時初音と共にいた誰かのことも、もしかしたら思いを巡らせていたのかもしれない。

 夫として、気にかけてやるべきなのだろう。
 だが初音の切なげな横顔を見ていれば、やがて口をついて出たのは気遣いよりも素直な本心の方だった。

どこへも行くなよ、初音

えっ

お前がいなくなっては俺が困る。
後生だからどこにも行かず、俺と同じところへ帰ってくれ

久成様……

 初音は久成を見上げると、柔らかく微笑んだ。
 夕日の色が頬に映え、ほんのりと色づいているように見えた。

もちろんです、私の帰る場所は久成様のお家と決まっております。
久成様こそ、私をお嫌いになったりせずに、ずっとお傍に置いてくださいますよね?

当たり前だ。
何があっても、お前を嫌いになどなるものか

よかった……!
絶対、お忘れにならないでくださいね

忘れるものか。
俺は約束を忘れたりはしない

では私も、ずっとずっと覚えております!

 それから二人は山に背を向け、もうすぐ傍に見えている家へと歩き始める。
 行きの道を歩いた時よりも近く、ぴったりと寄り添いあいながら、残りわずかな帰り道を歩いた。

 既に佐和子が夕餉の支度を始めているのか、家からは細い煙と飯の焚ける匂いが立ち昇っていた。既に秋に入り、夕暮れ時の風は時折驚くほど冷たかったが、二人が帰る家は暖かく、そして穏やかだった。

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