返事をした久成は布団に横になっていたが、初音は隣に並べた布団の上で、ちょこんと座ったままでいる。
家の外へ出かけるようになってから数日が過ぎ、すっかり人と変わらぬ暮らしをしているはずの初音だったが、この夜の習慣だけは相変わらずだった。頑なに曲げようとしない。
では久成様、おやすみなさいませ
……ああ
返事をした久成は布団に横になっていたが、初音は隣に並べた布団の上で、ちょこんと座ったままでいる。
家の外へ出かけるようになってから数日が過ぎ、すっかり人と変わらぬ暮らしをしているはずの初音だったが、この夜の習慣だけは相変わらずだった。頑なに曲げようとしない。
今夜はお前も、もう寝てはどうだ。
毎晩、俺が寝つくのを待つのは辛いだろう
いいえ!
私が眠っている間に、狐の姿に戻ってしまっては恥ずかしゅうございますから……
何を今更。
俺はお前が狐でいる姿だって、とうに知っているのだぞ
私はお嫁に参った以上は、ずっと人の姿でありたいのです。
久成様の前では狐に戻らぬと決めております
お前が狐に戻ったからと言って、お前に愛想を尽かす俺ではない
それは存じておりますが……。
それでも、どうしてもです
この件に関して初音はこと強情であり、今の久成には説き伏せる術が思い浮かばない。
こうして毎晩のように堂々巡りの会話を続けた後、久成の方が折れて目を閉じるのが常だった。
全く……。
こちらとて、寝入るのをじっと見守られているとかえって寝づらいのだがな
久成様、眠れないのですか?
でしたら私が、お話でもいたしましょうか
お前がか?
久成が驚いたのは初音の申し出そのものよりも、初音に『眠れぬ夜に話をしてもらう』という知識があることだった。
それは人の子供だけが経験し得る事柄だと思っていた。眠れぬ夜に添い寝をする母が昔語りをする――狐の世界にもそういった習慣があるものなのだろうか。
私も眠れぬ夜には、傍で話をしてもらったものでございます。
目をつむって、聞き慣れた声に耳を傾けているだけで不思議と眠くなっていくものなのでございます
初音が妙に得意顔で語るので、久成も少し興味が湧いてきた。
布団の中で横向きになると、初音を見上げて問いかける。
では、聞かせてくれ
はい。
……久成様は、天女をご覧になったことがおありですか?
天女!? いや、あるはずがない。
そもそもそんなものが本当にいるのか、あれは昔話の中のつくりものだろう
でも私は見たことがございます。
羽衣をひらひらとはためかせて、空からあそこの山へと下り立つのを見たのです
お前の言葉を疑うわけではないが……にわかには信じがたいな。
天女が何の用であの山へ下りたというのだ
さあ……何か御用があったのかもしれませんし、どなたか、お会いしたい方でもいたのかもしれません。
私のように、嫁入りがしたくて人里へ下りるつもりでいたということもあるでしょうし
狐の嫁に続いて、天女の嫁か。
本当なら賑々しいことこの上ないな
久成は笑ったが、初音は大真面目に続けた。
ないとは言い切れませんでしょう。
だって人の中には、久成様のように優しくて温かい方もいらっしゃいました。
以前まで私は、人は皆、怖いものだとばかり思っていたのに……
そう思っていたようには見えなかったがな。
初めて会った時、お前は俺に怯えるどころか随分と人懐っこかった
久成様がお優しい方だったからです。
私、一目でわかりましたもの
あれは優しさではない。
臆病だっただけだ
久成はそう言い張った。
事実、あの時もし自分にあと一分の勇猛さがあったなら――あるいは過去を思い出してためらうことがなければ、父の形見の火縄銃は初音を仕留めていたはずだった。
初音と、そして久成の命運を左右したのは、久成が抱える苦しみの記憶であって優しさなどではない。だからこうして初音に誉めそやされると、何とも言えない居心地の悪さを覚えた。
だが初音は初音で、頑なに夫の優しさを信じているようだ。
久成様、私は久成様のところへお嫁に参って、とても幸せな暮らしをしております。
だからもしかすると、私のように人の元へお嫁に参りたいと思う者が、他にもいるだろうと思うのです
それで、天女もまた嫁入りに来たのだと思ったのか?
ええ、きっとそうです。
だってこんなにも幸せになれるのですから!
屈託なく笑う初音を見て、久成の胸は詰まった。
あの時、火縄銃の引き金を引いてしまわなくて本当によかったと思う。
たとえそれが優しさからではなく、古傷に臆しての振る舞いだったとしても、その臆病さこそが今の幸せを齎してくれたのだ。
久成もまた、確かに幸せだった。
初音のいる暮らしが、もはや何物にも代えがたい至高の幸福となっていた。
……初音
ふと久成は布団ごと上体を起こし、隣の布団の上に座り込む初音の手をそっと握った。
初音は一瞬びくりとしたが、すぐに頬を染めて口を開いた。
ど、どうかなさいましたか?
やはり今夜は……お前ももう寝ろ。
その方が俺も嬉しい
え……
初音は迷うように目を泳がせた。
だが少し考えた後、笑って答えた。
でも……恥ずかしいですから。
今夜は先にお休みになってください
俺は愛想を尽かさないと言っているのに……
存じております、ですが……。
きれいな姿だけ見ていただきたいのです。
久成様が誉めてくださるのが、私には何より嬉しいですから……
……そういうものか
女心の難しさに、今の久成はやはり太刀打ちできる術を持ち得なかった。
結局その夜は一人で先に眠ることにして、傍らで見守る初音の前で目を閉じた。
そのまま寝つくのは困難を極めたが、それでも夜が更けていくにつれ、自然な眠気が訪れてとろとろとまどろみ始めた。
……どうしても、行かれるのですか
……?
初音の声を聞いたような気がして、久成の意識が浮上する。
まだ半ば眠りの中にあったが、それでもいつしか聞き慣れた妻の声はかろうじて拾うことができた。
あなたには、わかってもらえると思っておりました。
人として、人と共に生きることの素晴らしさを……ここで分かち合えたらと思っておりましたのに
それはできない話です。
私はまだ人を信じきれてはおりません。
いえ……初音、あなたが人を信じて人と共に暮らしている、そのことすら信じがたい
もう一つ、声がした。
聞き慣れない声だった。
男とも女とも、若いとも年寄りともつかぬその声に、久成は布団の中で身を硬くした。
人の声ではない。
なぜかそう直感していた。
寝返りを打つふりをして、声のした方を向く。
薄目を開けて様子を窺うと、障子の前にいた初音ははっと振り返り、しばらくこちらを注視していた。だが久成が起きていることには気づかなかったのか、やがて閉じたままの障子に向き直る。
障子には月明かりを通して何者かの影が映っていた。
四本足で歩く、何者かの影が。
初音、あなたは嫁入りの前に言いましたね。
人が野山を拓き、我々の棲家を脅かす以上、我々も人と共に生きるしか、他に術はないのだと
ええ
であれば、我々にとっての安住の地をよそで探せばいい話です。
この地にこだわる必要などない……
いいえ、私はこの地がいいのです。
この里が、久成様のお傍がいいのです。
ここで暮らしてみてわかりました。
人と共に生きるということは、互いに思い合うということ……
……
名前を呼ばれて内心どきりとした。
盗み聞きをしている罪悪感も募ったが、ここで再び眠りに就くことなどできそうにない。
初音は夫が聞き耳を立てているのも知らずに続けた。
私が思うのと同じくらいに、久成様は私を深く、強く思ってくださいます。
久成様のお傍にいる限り、私はきっと、この選択を悔やむことなどないでしょう
……幸せそうですね、初音
ええ、とても幸せです。
久成様もそう思ってくださっているといいのですが……
久成も、初音の会話の相手が何者か、薄々察しつつあった。
彼女がかつて語った『知己』。初音に様々な知恵を授けた、恐らく人ではないものだろう。
彼――と称していいのか判然としなかったが、ともかくもその知己もまた初音を深く思い、案じているのが会話からわかった。初音とは違い、人をよく思ってはいないらしいということも。
やがて二人の会話は途切れ、障子の外からは何者かの気配がふっと消えた。
代わりにまるで引きずるような、人のものではない足音が遠ざかっていくのが聞こえ――それすら聞こえなくなった頃、初音が障子の前で立ち上がる。
そこで久成は身を起こし、障子から離れて布団へ戻ってこようとする初音に声をかけた。
初音、今のは誰だ?
一体誰と、話をしていた?
あっ……!
久成様、起きていらしたのですか
初音は大きく目を瞠ったが、思いのほかうろたえはしなかった。
自分の布団まで戻ってくると、その上に座り、上体を起こした久成へ真っ直ぐな視線を返してくる。
あの方は以前お話した、私が狐であった頃にお世話になった方です。
私にとっては名付け親であり、よき友でもありました
お前の知己という者か。
では、人ではないのだな
はい。
できればあの方にも私のように、人として、人と共にこの里で生きて欲しかったのです。
でも……あの方はそれはできぬと、今し方旅立って行かれました
旅立った?
なぜだ
この地も、大分人が増えましたから。
私達のような面妖な生き物が隠れ住む場所もなくなっていくでしょう
……そうか
一度は狐を狩る為に山へ分け入った身として、初音の言葉は少々複雑に感じられた。
久成が初音の奇妙さを受け入れられたのは差し迫った事情ゆえだったが、もしそういった事情もなしに、初音のような存在を理解し、受け入れられたかと問われれば、即答はできかねた。
それでも今は、理解したいと思う。
初音は狐としての生き方を捨ててまで自分のところへ来てくれたのだ。
久成様、私をこれからもお傍に置いてくださいますか?
前にも言ったはずだ、どこへも行くなと。
俺はお前を離すつもりはない
……よかった。
今の私にとっては、久成様が全てですから
そう言うと、初音は久成の手を取って、ぎゅっと強く握ってきた。
小さな手は芯まで冷え切り、冷たかった。障子の傍で秋の夜の冷気に当たっていたからだろう。
久成がその上から更に自らの手を重ねると、初音はしっとりと微笑んだ。久成は妻の顔を見つめ返し、静かに尋ねた。
初音、お前こそ後悔はしていないか。
俺が誘ったばかりに、お前にはやむなく捨ててきたものもたくさんあるのだろう?
久成様、私は後悔などしておりません。
それに久成様とお会いしてお嫁に参ることを決めた時も、一度として迷いませんでした
なぜだ。
迷わないはずがないだろう、お前はかつて人に追い回され、人を恐れていたというのに
私も不思議に思います。
久成様にお会いして、同じ銃を持った人だというのにどうして怖くないのか、もっとお傍にいたいと思うのか、請われた通りにお嫁に参ろうと思ったのか……
……
でもその不思議が、今はとても心地よくて幸せなのです。
久成様のお傍にいるだけで、私は……
そこまで聞くと、黙ってはいられなかった。
久成は初音の身体を抱き寄せると、組み敷くようにして自らの布団の中へ引きずり込んだ。
あっ……
小さく声を上げた初音に布団をかけ、自らもその中へ潜り込んでから改めて抱き締める。
初音は手だけでなく全身が冷え切っており、触れたところがどこも冷たく感じられた。
障子の前にいて、寒かったのだろう。
こんなに冷たい……
久成様は、とても温かいです。
お傍に置いていただけて、嬉しい……
腕の中で初音が、幸せそうに呟く。
初音を胸に抱く久成も、同じく幸福を感じていた。
妻を得たことよりも、家族としてのありようを取り戻せたことよりも、初音が自分を思い、自らもまた初音を思う、そうしてお互いに思い合えることが何よりも幸せだった。
冷たかった初音の身体はゆっくりと温かみを取り戻していき、布団の中で二人の体温が混ざり合う。
温もりに酔いしれる気分の中、やがて久成は意を決した。
抱き締めた初音の耳元で囁いた。
初音、今夜はこのまま俺の傍にいてくれるか
……
初音?
すう……すう……
も……もう寝たのか?
久成の腕の中で、初音は穏やかな寝息を立てていた。
うっとりと目を閉じた寝顔は恨めしいほど安らかで、それでいて愛らしかった。
当てが外れた久成は脱力したが、すぐにおかしくなって一人笑んだ。
この寝顔が見られただけでも、よしとするか
……
お前の選択、これからも後悔させはしない。
うんと幸せにしてやるからな、初音
その寝顔に見入っているうち、初音の温もりが久成をも眠りに誘おうとする。久成も逆らうことなく、やがて眠りに落ちていった。
明日の朝、目覚めた初音が久成より先に寝入ってしまったことを知れば、きっと大騒ぎをするだろう。
そうしたら久成は言ってやるつもりでいた。
大層可愛い寝顔だったぞ、と。
これからは気にすることなく俺に見せればいい、と。
そういうふうに、少しずつ夫婦らしくなっていこうと久成は思う。
新米夫婦の夜は静かに、穏やかに過ぎていく。
もはや訪ねてくる者もなく、二人を分かつものも何もない。片時も離れることなく、しっかりと抱き合って朝まで眠り続けた。
明くる朝に待っているのは新しい幸いだ。
どこまで行っても幸せしかないような日々が、この夫婦を待っているに違いなかった。