山で出会った狐に、久成は狐女房の話をしてやった。
 よく耳にする古い民話だ。命を救われた狐が人間の女に化け、助けた男の元へ嫁ぐという、ごくありふれた部類のお伽話だった。

 久成は訓導らしい口調でそれを語った後、小さな狐に打ち明けた。

俺には妹がいる。
不幸な結婚をして、離縁をした後、あいつは昔のようには笑わなくなった…

……

 狐はぴんと耳を立て、こちらの話に聞き入っているように見えた。

兄として俺はあいつを幸せにしてやりたい、守ってやりたい。
なのに俺が世話をすればするほど、あいつはそのことを気に病む

 山の風は時折強く、木々や草葉を軋ませながら吹き付けた。そのお蔭で、久成の声はすぐ傍にいる狐にしか聞こえなかったはずだ。

だから俺は嫁が、新しい家族が欲しい。
あいつに家族のいる幸いがどんなものかを、もう一度見せてやりたい。
俺とあいつが失くしてきたもののうち、一つきりでいい、取り戻したい

 時代と時の流れによって兄妹は多くを失った。
 今となっては戻ってこないものばかりだ。望んだところでどうにもなるわけでもない。

 だからこそ久成は別の幸いを望む。

なあ。
お前は、お伽話のように化けられないのか

 そう問いかけつつ狐の頭を撫でる。

……

俺のところへ嫁に来る気はないか

 馬鹿げたことを口にしていると思う。狐が黙って話を聞いてくれるので、洗いざらい打ち明けたくなる。

もっともうちは貧乏だ。
女房を貰ったところで良い暮らしをさせられるわけでもなし、妹はもう嫁に行かぬだろうし、嫁ぐ利など何一つない。
だから女には見向きもされない

……

 毛並みに沿って背を撫でる。いつしか久成の方も慣れてしまって、遠慮なく狐に触れている。撫でられる方も全く嫌がるそぶりはなく、おとなしくしていた。

お前はどうだ。
貧乏人の唐変木が相手では、恩返しでも女房にはならぬと言うか

……

 問うても狐は答えない。
 つぶらな双眸で見つめてくる。

俺はどんな嫁でも構わん。
化けた狐だろうと、子どもが産めなかろうと気にはしない

 狐の顔を両手で挟むようにして、軽く揺すった。
 手触りがいい。

……

 狐が心地よさそうにしたので少し笑う。

妹のことを大事にしてくれる女がいい。
望むのはそれだけだ

 望んだのは家族としての幸いだった。
 兄妹が揃って失ってきたものを、別の形でもいいから取り戻したかった。

 ――その時、強い風がまた吹きつけた。
 ごうと唸るような音と共に、山の木々がかぶりを振って騒ぎ立てる。
 久成は梢を見上げ、風の冷たさに気付く。

 少ししてからぼそりと零した。

お伽話に縋るようでは、それこそ嫁の来手もあるまい

 微かな自嘲をどう聞いたか、不意に狐が身を捩った。
 久成の手をすり抜ける。そのまま少しの間、匂いを嗅ぐように鼻を鳴らす。

……

 そして直に歩き出す。草むらの手前で立ち止まり、一度こちらを振り返る。
 久成と目が合えば小首を傾げ、それから茂みの向こうへ飛び込んだ。
 あっという間に見えなくなる。

 狐に逃げられた久成は、しばらく呆然としていた。
 山が何事もなかったように静かになるまで、その場を動けなかった。

 初音が嫁に来たのは、その山狩りの日から二日後のことだ。
 本当に来るとは思わなかった。だが久成はこの奇妙なめぐりあわせを心から喜んだ。
 そして嫁を迎えた久成はもちろん、佐和子までもがこの奇妙な義姉を受け入れ、新しく生まれた家族の暮らしは一月以上も平穏に続いている。

 山の鳥よりも明るい、女達の笑い声で目が覚めた。
 床から起き上がった久成は、妹と妻の楽しげな声を耳にする。二人で何やら笑い合っているらしい。今朝の献立は小豆飯でも油揚げでもないはずだが、それならきっと、初音の身支度が早く済んだのだろう。

 初音が来てからというもの、佐和子は生来の朗らかさを取り戻しつつあった。
 嫁としての初音には至らぬところも多い。だが久成が求めた最もたる条件、すなわち『佐和子のことも慈しみ、大切にしてくれる女』である点は確かに及第していた。初音もまた佐和子を慕い、二人でいる時は若い娘のようにきゃあきゃあと笑い合っている。

 楽しげな笑声を聞きながら、久成はそっと幸いを噛み締める。
 ようやく、家族としての幸いを取り戻せたようだ。

おはよう

 久成は囲炉裏端にいる妹と妻に挨拶をしてから、横座に着いた。
 それからかか座に並ぶ二人を見やり、ふと瞬きを止めた。

 いつも通りに明るく笑う佐和子の隣に、初音が座っている。
 今朝の初音は色鮮やかな着物をまとい、丁寧に髪を結い上げ、そして――どこかで見たことのある顔をしていた。
 美しいその顔立ちを一目見た瞬間、言い表しようもない懐かしさが胸に込み上げてきた。

初音、その姿は……。
前に、見たことがある

佐和子さんにもそう言っていただきました。
私が以前、この顔とそっくり同じように化けたことがあると

では、同じように化けられるようになったということか?

まだはっきりとは申し上げられませんけど、少しばかり化け方が板についてきたのかもしれません

そうか……

 屈託なく笑う初音を、久成はまじまじと見つめた。
 この顔だけを特別気に入っていたわけではない。初音は毎朝、昨日とは全く違う顔ではあったがどんな顔も非常に美しく化けてくれた。夫として日毎に変わりゆく妻の姿を楽しみにしていたのも事実だ。
 だがこうして以前見た顔と出会うと、まるで心から会いたいと思っていた相手と再会できたような、懐かしさや喜び、それにいとおしさが胸に満ち溢れてくるようだった。

兄上

 初音の隣に座る佐和子が、囁く声で兄を呼ぶ。
 今朝の表情は明るく、わずかな憂いにも囚われていない。

黙って見惚れていらっしゃらないで、何か言って差し上げてはいかがです?

 どうやら今の妹の憂いは兄の唐変木ぶりだけらしい。
 促された久成はもう一度初音を見やり、今更のように面映く思いながらも何か言わなければという使命感からようやく言葉を紡ぐ。

懐かしい顔に会えたようだ……。
お前がずっとその顔でも、俺は一向に構わん

では、私、久成様の好みの顔になれましたでしょうか?

いや、俺の好みは気にするな。
お前の化けやすいように化けるがいい

お言葉ですが、久成様。
私は何よりも久成様に好いていただける顔になりたいのです

 初音がこちらの反応に困るようなことを言う。
 思わずぐっと詰まった久成に、妹が追い討ちをかけてきた。

兄上、お内儀様に隠し事はよくありません。
思っていることをはっきりと言って差し上げなくては、初音さんも気がかりでしょう

……わかった。
俺は今の顔が、大層気に入っている

 押し切られるように白状した久成の言葉に、たちまち初音は頬を染め、じっとこちらを見つめてきた。

わあ……!
久成様、そのお気持ち、大変嬉しゅうございます!

……そうか

 久成はそれ以上何も答えず、何も言えずに、囲炉裏の火を眺めていた。お蔭で顔が熱かった。

 初音はよい女房だった。この家に来てからと言うもの、久成は家を留守にする際の安心を、佐和子はかつてのような明るさを、そして兄と妹は家族らしさをそれぞれ取り戻していた。以前からは考えられぬほどの幸いを手にしていた。
 ただ、誤算がないわけでもなかった。

 出掛けに靴を履き替えていれば、初音がたたっと駆け寄ってくる。
 顔は毎日違っていても、仕種は毎日のように同じだった。足取りの軽さ、鞄を差し出す時にじっと見上げてくる眼差し、鞄を受け取った後、ふと目が合うとする小首を傾げるさまも全てがそうだ。そういう仕種はことさら愛らしく、狐であった頃の彼女を思わせた。
 もしかするとこれからは毎日同じ顔で、この仕種を眺めることになるのかもしれない。それは確かに喜ばしいことでもあったが、一方で久成の心は無性にざわめき立っていた。

 初音は可愛い女房だった。存外にと言ってもいいだろう。どんな嫁でも構わないと思っていた久成は、すっかり初音の瑞々しさに魅入られていた。
 狐の女房に本気で惚れるなど、奇妙なものだ。
 だが事実、本気で惚れつつあるのだろう。初音が日毎に人里に慣れ、久成の暮らしになくてはならないものになっていくうち、彼女へのいとおしさも増していくようだった。これから毎日同じ顔を見せてくれたなら、その顔への愛着も増すことだろう。そのうち誰が見ても疑わぬような、仲睦まじく寄り添いあう夫婦になるのかもしれない。
 唐変木の久成にはまだそういう自らの先行きが想像しがたく、そして受け止めがたいものでもあった。

どうかなさいましたか、久成様

 上がり框に座る初音が、怪訝そうに瞬きをする。
 お前のことを考えていた、などとは言えるはずもなく、久成は慌てて答えた。

今朝のお前は身支度が手早かったな。
俺よりも早かったから、驚いた

佐和子さんのお手伝いがしたくて、近頃は支度を急ぐようにしております

 素直に頷く初音。妹を気に掛けてくれるのはうれしく、自然と久成の口元も緩んだ。

そうか、お前はよい女房だ。
安心して留守も任せられる

お言葉、光栄に存じます。
久成様のいらっしゃらない間も、私が佐和子さんをお守りいたします

 次の答えは、少々複雑な思いで受け取った。
 やはりもしもの時など来ない方がよい。佐和子の為にも、初音の為にも、あの火縄銃を持ち出す日はもう二度と来ない方がよい。そう思う。

 むしろ、もう二度と来ないのかもしれない。
 誰よりも過去の幻に苛まれているのは久成自身で、こうして手に入れた幸いを、未だに形見の火縄銃でしか守れないと思い込んでいるだけ、かもしれない。

 この幸いを守っているのが自分ではないことを、久成は薄々感づきつつあった。
 いつか佐和子と初音の為に、あの火縄銃を手放す日も訪れるのだろうか。今はまだ、予感だけがある。

早く、お前を外で連れ歩きたいものだ

私も今の顔のまま化けられるようになって、久成様と共に人里を歩いてみたいものです

そうだな、明日もその顔が見られたらいい。
だが明日、違う顔になったからといって落ち込むなよ。
気負わずにゆっくりやればいい

 言いながら、久成はふと今の言葉に自らを省みた。
 気負わずにゆっくりやればいいのは、なにも初音の化け方に限ったことではない。
 今はまだ受け止めがたい気がしようとも、いつかは受け入れてしまうものだろう。初音がここでの暮らしに慣れていくのと同じように、久成もいつかは夫婦としてのあり方に慣れてしまうことだろう。
 その日が少し、待ち遠しいような気がしてならない。

……久成様は、お優しい方です

 不意に初音がそう言った。
 唐突な言葉に久成は面食らった。

そうでもない

いいえ。
まだ未熟な私でも妻として扱ってくださいますから、大変お優しい方です

 かぶりを振った初音の言葉に、思わず目を伏せたくなる。
 そんなことは当たり前だ。佐和子と同じように、初音もまた久成にとっては大切な家族だった。
 未熟か、そうではないかに関わらず、初音はいなくてはならない存在なのだ。

久成様

 初音がふと、夫を呼んだ。
 それで渋々視線を戻した久成は、俯き加減の妻を見つける。恥らうようにおずおず、切り出してくる。

その……もし私が未熟ではなくなったら、その時はお願いがございます

何だ

先日のようにまた、ぎゅうっと、抱き締めてくださいますでしょうか

 わざわざ両腕で、自分の身体を抱くようにして説明してきた。世間知らずな嫁もいたものだ。
 初音の言い分に久成は狼狽した。望むにしても内容が内容だから困る。

馬鹿、朝っぱらからそんな話をする奴があるか

 抑えた声で叱ると、びくりとした嫁がその後で釈然としない面持ちになる。

いけませんでしたか。
この間のことも、朝方だったかと存じますが

そういうことではなくて……ともかく、仕事の前は駄目だ

 何かと差し支える、と続けようとしたが、止めた。この女房なら真に受けて、酷く気に病むに違いないからだ。

……その時が来たらな

 決まり悪い思いで釘を刺せば、初音は途端に表情を明るくする。

はい、その為にも精進いたします

 全く世間知らずで、奇妙で、可愛い女房だった。

 久成は学校を目指して朝の畦道を行く。
 済んだ空気の中を歩きながら、時々そっと独り笑む。
 唐変木の訓導が行儀の悪い思い出し笑いなんぞをしていれば、道中行き会った教え子らが囃し立ててくる。

わあ、先生がにやにやして歩いてる。
何かいいことでもあったのかあ

栄永先生、とうとう嫁御を貰えたのかあ

きっとそうだ、締まりのねえ顔してるからな

馬鹿なことを言うな、今日の書き取りの量を倍にしてやるぞ

わあ、先生が酷い!

怒るってことは本当なのか……?
なあっ、先生!

誰が怒ったと言った?
いいからお前らは、騒がず学校まで行け

 囃し立てる子供らをあしらいつつ、久成は内心溜息をつく。
 あの可愛い女房を、早く連中にも見せびらかしてやりたいものだ。そうして初音と、佐和子と三人、村でも一等の幸せ者になってやろう。誰もが羨むような幸いを、あの家で日々築いてゆくのだ。

 村の家々からは朝餉の煙が消え始めていた。
 久成の今日はいつものように、幸いの中で幕が開く。

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