幼いころの夢を見ていた。



ねえ、お母様

あら、どうしたの麻子さん

これ見て。従兄弟のたくちゃんからもらったの。お手玉なんだけど

初めてやってみたんだ。そしたらすごく上手にできて……

そう……
お母様に貸しなさい。これは私が預かっておきます

あ……

こんなもので遊んでいるヒマがあったら、もっとお稽古やお勉強に励みなさい
いい、麻子さん。お母様はあなたに期待してるんですからね

……はい








あれ……私の本がない

麻子、それはこれのことか?

あ……お父様、どうしてそれを

恋愛小説か。こんな軽薄なもの、お前にはふさわしくない。お前には読むべき本があるんだ。今度それを買い渡してやる

で、でもそれ、今までに知らなかったような、学校でも家でも教えてもらえなかったようなことがたくさん書いてあって、面白くて、読みかけだし、その……

……麻子、お前は余計なことを考えなくていいんだ。お前には歩むべき道がある。お前に必要な物は、全て私達が用意してやる

だからお前は、私達の望む人間になるよう努めなさい。それがお前のためなのだから

……わかりました





 幼い私には自由がなかった。

 資産家の家庭に生まれ育ち、学ぶべきこと、あるべき人格、言動の一切、趣味嗜好までもが両親に管理され、コントロールされていた私は、『自分』というものをうちに秘めて生きることを余儀なくされていた。
 選ばれた本を読み、選ばれた趣味を持ち、選ばれた言葉を使い、選ばれたものを求める。
 選ばれた人と結ばれ、選ばれた生活を送り、選ばれた人生を全うする。それが私の命なのだと、それが私なのだとずっと思っていた。

 ……大学を出るまでは。





麻子ちん、大丈夫!?

……あれ、私、寝てた?




 ベッドの上で目を覚ますと、オルちゃんが私をじっと見つめていた。私は背中に寝汗をぐっしょりとかいていた。すでに窓からは西陽が差しているので、三~四時間は寝てしまったのだろう。



驚いたよ。昔のことを話そうって話題になった途端、気絶するんだもん

そう……心配かけてごめんね

そんなに辛かった? だったら、無理に思い出さなくても、話してくれなくてもいいよ

どんな過去を持っていようが、麻子ちんは麻子ちんだからね

うん、ありがとうオルちゃん




 オルちゃんの腕力で私をベッドまで運ぶのは相当骨が折れただろう。私は彼女にただただ感謝した。
 同時に、過去の夢を掘り起こしたことで、ようやく自分のしたことを思い出した。
 そうだ。私は昔のことを封印していた。何かもががんじがらめで、色のない心を持って生きていた日々を。
 誰に語るでもなく、語る相手がいるわけでもないあの時代を、忘れるように努めたことさえ忘れていたのだ。



大丈夫? おなかすいてない? 
私、なにか作ろっか?

ううん、大丈夫。もう平気だから……




 しかし、言葉とは違い私の身体は動こうとはしなかった。頭の先から爪先まで、いつよもり強い重力がのしかかっているかのように、私は身体を動かすことができなかった。
 いや、厳密には一部だけ動いている部分がある。私の右手が、小刻みに震えているのだ。



やだな……変なこと思い出しちゃったから……またオルちゃんを不安にさせちゃうな




 そんな私の異変に気付いたオルちゃんは、そっと立ち上がるとベッドに腰掛けて私に寄り添い、そっと手を伸ばして私の頭を抱きしめる。



オルちゃん……?

こうすれば喜ぶのかどうか、機械の私にはわからないけれど、とりあえず今は……何も考えなくていいよ。忘れたいこと、全部忘れちゃおう




 機械なりに柔らかい胸が私をそっと包み込むと、体温こそ感じなかったけれど、それでもなにか温かなものを注がれているようで、私は言葉に出来ない安心感を味わっていた。
 同時に、ひとつの疑問が自分自身の中に、しこりのように残っている。

 本当に私は忘れたいのだろうか。本当に、自分の中にしまいこんだままにしたいのだろうか。
 自分がどれほど、自分というものを縛り付けて、抑えこんできたか。それがイヤだから、続けることが苦しくなってきたから、私は昔の自分を忘れようとしたのではないか。
 でも、忘れ続けることが正しいことだろうか。こうして、夢になってまで引きずり続けているのは、忘れることが正解ではないからではないのか。
 決断までには、少し時間がかかった。オルちゃんの胸の中で甘えながら呼吸を整え、胸につかえた冷たく重いものに向き合い続けて、それからゆっくり身体を引き剥がすと、いつものように脳天気な表情のオルちゃんに向い合って、私は口を開いた。



話すよ……全部

大丈夫なの? 無理しなくていいんだよ?

ううん、聞いてほしいから話す。どうしてだろう、オルちゃんには聞いてもらいたいの




 それから私は、自分の家庭のこと、育ってきた環境のことを話した。封じ込めていた過去は、自分でも驚くほどするすると言葉になって表れる。
 オルちゃんは何も言わず、ただただうんうんと頷き、口を挟むことは一度もなかった。
 不思議なものできちんと言葉にする作業を経由すると、自分が見ようとしなかったこと、思うことすらなかったことが、自分の持っていたものとして表に出てくるのだ。



……でも、大学の在学中、幼い頃から決められていた許嫁に会う段階になって、私は思った。このままじゃダメだ。私は私の人生を生きるべきだって

両親は大学の卒業と同時に私を結婚させる算段だったようだけれど、私は二人に内緒で少しづつお金を貯めて、卒業と同時に周りの制止を振りきって、逃げるように家を出た

ひとりで暮らし始めて、仕事も見つけて、今に至るってわけ

……そうだったんだ。そういえば麻子ちん、お花摘みの呼び方を決めるときも、お嬢様っぽいもの苦手だったもんね。高級レストランでのマナーも、すごくよかったし。本物のお嬢様だとしたら納得だね

でも、本当に辛かったでしょ。
頑張ってきたんだね

逃げただけだよ。でも、後悔はしてない




 私はすっと、胸のつかえが取れていくのを感じていた。苦労も話せば楽になるというのはよく聞くことだけれど、私は今たしかにそれを感じている。
 それでもひとつ、スッとしないことが残っているのだ。



それにしても、心変わりが急だったんだね。あれだけ自分を縛られていた麻子ちんがどうしていきなり、家を離れて自分の人生を生きようと思いだしたの? 
なにかきっかけがあったのかな?

う……それは……




 するすると出てきていた私の言葉は、そこで急に勢いを欠いた。
 オルちゃんの投げた質問の答えはわかっている。けれど、理解しているというわけではなかった。
 何よりも、口にするのが憚るようなことだったのだ。
 それでも私は、決断してなんとか言葉を探しだし、続けた。



……お花摘み

え?

……大学で、キャンパスメイトから教えられたのよ。『お花摘み』のことを

私はそんなものの存在、全く知らずに育ってきたから、ちょっとした好奇心で始めてしてみたら……

クセになったんだ?

うっ……!




 自分の顔が熱くなっていることに気付いた。いくら相手が自分の恥ずかしいところを誰よりも知っている存在だとはいえ、ここまであけすけに話すことはやはり抵抗がある。
 それでもオルちゃんが聞きたがっているのなら、私は話さなければならない気がしたのだ。なにより、何より世界広しといえど、私にとってはオルちゃんにしか話せないことなのだから。



なんだかひどくいやらしいことだから、こんなことしちゃいけない、両親に申し訳ない、って思っていたんだけれど、そう考えれば考える程に、夢中になって……

でもなぜか、それを始めて以来自分の中で少しづつ変化が起きて、環境に対する反骨心のようなものが芽生えたというか……最初は、自分が不良になってしまったのかと思ったけれど

きっと、頭が悪くなったのかなって。
いや、こういうことを言うとオルちゃんが怒るのはわかっているんだけれど、でも他に関連性が思いつかないというか。
不思議なもので、すればするほどに、かえって考えが開けてきたというか、気分が明るくなってきたというか

ああ、やっぱり私、変態なのかな……

なるほど……




 オルちゃんは真剣な表情で何かを考えている。
 いざ言葉にすると、自分のことが色々と見えるようになってきた。
 私がオルちゃんとお花摘みの話をすることを極力避けようとしたのは、罪悪感と向き合うことを拒んでいたからなのかもしれない。
 そして、抱え続けた言葉をいまこうして、オルちゃんにだけ話すことができたのは。彼女が誰よりも、私の恥ずかしいところを知っているからだ。
 私は私を誰かに知ってほしかった。だから、オルちゃんはいつの間にか、私にとって居心地の良い存在になっていたのだ。




麻子ちん、初めて会ったときの言葉を覚えてる?
お花摘みは決して悪いことなんじゃないって。自分の欲求に素直になれる手段なんだって、私言ったよね?

誰だって自分の欲求は隠して生きている。誰かに迷惑をかけないように。でもそればかりじゃパンクしてしまうんだ。昔の麻子ちんはきっと、パンク寸前だったんだよ

だから、麻子ちんはお花摘みのおかげで自分の欲望に正直になれた。やっと、自分にかけられた鎖を外してあげることができたんだ。それはきっと恥ずかしいことでも、悪いことでもない

だって、今の麻子ちん、とても魅力的な顔をしてるじゃん。自分のしたいこと、自分のしたいように、できてるじゃん。
あんまり賢くない話になっちゃうけど、それはお花摘みに出会えたからだよ。ようやく大人になったんだ

麻子ちんはもう、大人の都合で人生を左右されるような、『おとなのおもちゃ』じゃなくなったんだよ

……そうだね。ありがとう、オルちゃん




 いつの間にか私を取り巻いていた重力は拭い去られ、すっかり陽は落ちてしまっていた。
 オルちゃんは私の手をそっと握り、真摯な表情で私を見つめている。
 それがなんだか、気恥ずかしかった。



ねえ、麻子ちん。言ったよね。私の仕事は、あなたをケアすることだって。
私の事を信用して話してくれたなら、この話の最後で、麻子ちんの心を私が解放させてあげることができるなら、私にできることはひとつしかないから




 私の手を握るオルちゃんの手に、ぐっと力がこもった。



……今、私と『お花摘み』してみるのはどうかな?





最終話につづく

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