え?




 オルちゃんの言葉に、私は一瞬戸惑った。
 いや、こんなことはオルちゃんの口からひっきりなしに言われてきたことのはずだ。私が本当に戸惑っていたのは……。

 ……内心では、それを受け入れてもいいと思っていることだった。



だ、だから言ってるでしょ。それはダメなんだって

本当に?

う……




 オルちゃんの顔がぐいっと私に近寄ると、私は自分の中にこれまでに感じることのなかった劣情のようなものが押し寄せてくるのを感じていた。
 全てを話したことで心が開放的になったのか。それとも、自分の過去や恥部まで理解してくれた相手に対して、これまで誰にも抱くことのなかったような情を抱いてしまったのか。
 そもそも今、どうしてオルちゃんの提案を拒否しなければならないのか。それすらもう、私にはわからなくなっていたのだ。



い、いい? オルちゃん。何度も言っているように、人間には恥じらいっていうものがあって……

今さら、恥じらいも何もないでしょ。
それとも、そんなつまらないこだわりを理由に、また過去の自分に戻るつもり?

誰が観ているわけでもないよ。元々これが私のやるべきことで、私で何をどうしようと、それが麻子ちんの自己解放なんだから。
そして、私の自己解放でもある




 そう言ってオルちゃんはゆっくりと立ち上がって衣服を脱ぎ捨てると、あっという間に一糸まとわぬ姿になった。
 部屋の電気をつけ忘れていた。すっかり暗くなった部屋の中では、窓から差し込んだ満月の強い光だけが二人の姿を照らしている。褐色かかった肌が月光を反射して、凹凸の激しいボディラインが光に照らされる。
 それでも私は生唾を飲み込むだとか、そんな色欲に近い感情は抱かなかった。差し出されたオルちゃんの裸体は、そういったものを通り越した感情を、私の中から引きずり出そうとしている気がしたからだ。
 オルちゃんが、彼女が厳密な『生物』でないことは理解している。けれど目の前にあるものは、生き物とそうでないもの、劣情と雑多な感情、あらゆるもののボーダーをかき消して、私という存在を丸呑みしてしまいそうな、まるで魂の引力が作用したかのように、私を惹きつけていたのだ。
 精神の垣根を壊されるような感覚。私は直視し続けることが敵わず、ふいに目をそらしてしまった。



でも、オルちゃん、私はあなたを受け入れてしまったら、もう戻れなくなってしまうんじゃないかと思って……

違う。麻子ちんが受け入れるのは、私じゃなくて麻子ちん自身。私の存在理由は、麻子ちんが私を買ったあの瞬間から、いつでもそのためだけしかなかったから。
麻子ちんが戻る場所は、いつでも自分自身の中にしか無いから

私の名前はオルガマニア。あなたに素晴らしいセルフプレジャーの時間をお届けします

あ……




 オルちゃんが私の身体に覆いかぶさる。

 それからのことは後から振り返ってみると、よく覚えているようで覚えてないようで、まるでハッキリとした夢に取り込まれてしまったような時間を過ごしていた。
 頭のてっぺんから足の爪先まで、甘い痺れと浮遊感に侵食されながら、心と身体が剥離するような感覚の中で、オルちゃんは無機質に、だけど愛おしく撫でるように、言葉に乗せられない感覚で私の花を摘んだ。

 いや、私は自分で花を摘んだのだ。オルちゃんを介して。自分自身の手で尊厳を取り戻すように。今までこぼし続けてしまったものをかき集めるように。





……




 カーテンの隙間から朝の光がこぼれている。
 倦怠感と充足感を引きずったまま目を覚ますと、いつかと同じような朝を迎えていた。

 ただひとつ違うのは、私の隣にはもう、見知らぬ美女が寝転んだりしていないということ。
 その代わりに、その場所にあったのは……ひとつのアダルトグッズだった。



……




 オルちゃんがいなくなった。けれど不思議と、悲しみや寂しさや喪失感はなかった。薄情な感覚からきているものじゃないと信じたい。なぜなら私は、とても満たされていたからだ。心にはオルちゃんへの、感謝の思いが募っていたからだ。

 彼女がきてから、わからないことだらけだった。そもそもどうして人間の形をしているのか。どうしてああも恥じらいを持てない存在だったのか。ふたりきりの短い生活の中でわかったことは、私自身のことだけで。そして、それはとても大事なことで。私がいつか向かい合わなければならかったことに、彼女が背中を押してタイミングを作ってくれたのだ。こうして、恥じらいをかなぐり捨てたもっとも気持ちのいいやり方で。

 オルちゃんにしかできないことだった。幸せな巡り合わせというものがあるのなら、きっと私が泥酔していたあの夜に起きたのだろう。

 私は傍らに置かれていたアダルトグッズを手に取った。こんな形だったっけ。そのグネグネとした異様な形状は、どこかオルちゃんの身体のそれを彷彿とさせる。スイッチを入れると、まるで生きているかのように動きまわり、頭の中をオルちゃんの笑顔がかすめる。

 汗と汗じゃないものが染みこんだシーツに身をくるんで、満月だけが見ていた一夜の感触をずっと噛み締め続けていた。





岩山さん、この書類、目を通しておいて

あ、はーい




 オルちゃんがいなくなって一週間が経った。
 部屋の中は前より少し、広く静かに感じるようになったけれど、私は私でオルちゃんが訪れる前と、何も変わらない生活を送っている。
 ただひとつ違うことは『お花摘み』の回数が増えたことくらいだけれど、それはさておき……。



やあ、岩山さん

あ、平田さん……お疲れ様です

穴太郎から聞きました。
オルちゃん、いなくなったんですね

……ええ




 自分と同じ存在の動向を知りたかったのか、穴太郎さんは少し前に私に連絡をくれた。
 そこで私は自分の過去の詳細は伏せつつも、オルちゃんがいなくなるまでの経緯をサラリと話した。
 驚きと声とともに、穴太郎さんは憂いのこもった言葉を口にした。いつかは自分もオルちゃんと同じようにきえていくのかもしれないのだから当たり前なんだけれど。
 それでも、決して不幸な話なんかではないことも知っていた。アダルトグッズの本懐を遂げた結果なのだ。もしも平田さんが求めてきたのなら、自分も当たり前に受け入れるだろう、と穴太郎さんは答えた。



……やっぱり寂しいですか?

……どうなんでしょう。
でも、なんだか満たされているんです

満たされている?

もしかしてオルちゃんは、私が隠していたもうひとりの私みたいな存在だったんじゃないかって思うようになって、それが役目を終えてから私の中に戻ってきただけで……

あの子が消えたのは、決して悲しいことなんかじゃないって、わかってるんです

そっか。でも、やっぱりそうだと思ってました。きっと、何か幸せなことが起こった、幸せな結果として、オルちゃんがいなくなったんじゃないかって。岩山さんの顔を見ていたら、なんとなくわかったんです

私の顔?

だって前よりもずっと、まっすぐに前を見つめていて、自信に満ち溢れていて、以前より綺麗だ

……ありがとうございます




 まるで口説き文句のような言葉だけれど、きっと嘘はないのだろう。 私だって、窓ガラスにふと映った自分の姿を見て、自画自賛になってしまうけれどそう思うことがある。
 だとしたら、それは全てオルちゃんが与えてくれたものだ。だから私は寂しくないのだ。あの子が残していったもので抱えきれないほど、満ち溢れた人生を送っているのだから。



その……『お花摘み』も決して悪いことなんかじゃないって、教えてくれたあの子のためにも、私は胸はって生きるべきなんじゃないかって思うんです

まあ、恥じらいを捨てる覚悟まではさすがにできそうもないですけれど

岩山さん……




 オルちゃんがいなくなってから、初めて『お花摘み』をした日のことを何度も思い返した。
 初めて禁忌としていたものに触れたとき、それはいやらしいとか、だらしないという概念の話じゃなくて、自分を表に出すという事実に触れたとき、大きな戸惑いと恥ずかしさと、少しの幸せを感じていた。
 オルちゃんに初めてあったあの朝も、私は多分どこかで感じていたんじゃないだろうか。あの時のささやかな幸せの残滓を、どこかで思い出したんじゃないだろうか。
 もしもまたオルちゃんが目の前に現れる日がきたら、その時はもっと笑って受け入れてあげられるだろう。ふたりはひとつなのだから。



じゃあ、岩山さん……オナ協に入ってくれるんですね!

それはイヤ






 ― 『おとなのおもちゃ』 完 ―




最終話 私たちが好きだったこと

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