今、私には眼の前景色が、さっきまでと違って見えていた。映るもの、人、場所、なにひとつ変わっていないというのに。
これは……?
今、私には眼の前景色が、さっきまでと違って見えていた。映るもの、人、場所、なにひとつ変わっていないというのに。
その感覚は、朝に起床するのと同じような、突然に目覚める感覚に似ていた。
――けれど、こうなってしまったことが、もう過ちなのだろうか?
I184
厳しい声が、私に飛ぶ。
聞き慣れない、けれどなぜか知っている。
鈴音、という私の呼び名ではない、コードナンバーのような一言。
声の主へ振り向けば、眼の前に、見知った友達の顔がある。
けれど、私はどこか遠い感覚で彼女を見ているし、彼女の瞳も友人を見つめるそれではなかった。
鈴音、そう私のことを親しげに呼んでいたその友達は、普段の人懐こい笑みからは考えられない、硬い表情をしている。
絵里ちゃん、なんで、そんな怖い顔をしているの……?
私のほうは、親しげに、今までと同じトーンで話しかける。
しかし、絵里ちゃんは――柔らかな笑みが持ち味だった彼女は――今までの全てが演技であったかのように、能面を保ったまま。
お前の『修正』に、間に合わなかった
低い、抑揚のない声。機械が作り出したかのように、表情のない声。
――穏やかで明るい、丸みを持ったあの声が聞ける日はもうないのだろうか。
異分子は排除されなければならない……I184
彼女の左手が、ゆっくりと動く。
時間が止まったかのように教室のみんなが動かないなか、彼女の動きは、とても優雅でなめらかに見えた。
……ああ、もしかして、私のことなの?
とぼけながら、絵里ちゃんが言った番号を、内心で反芻する。
I184。冷たい番号の組み合わせ。
今までの人生で、聞いたことがない番号。なのに、記憶を探ると、その番号には、馴染みがある。
だから、私は彼女に言った。
私の名前は、鈴音よ
彼女に呼ばれていた、私としての名前を。
鈴音と呼ばれる人間は、今はいない。だが、『修正』が進み次第、本来お前がなすべきことをするようになる
けれど、事実は残酷であり。
さきほど彼女が動かした手のなかには、私を壊すための獲物が握られており。
――世界のプログラムへの『修正』は、すでに始まっている。
世界の秩序は、崩されてはならない。
誰のための秩序なのか、今はまだわからないけれど。
少しばかり花壇の花に見入っていて、過去を少し想いだしただけで、世界の断りから外されてしまう。
一瞬の目覚めで、この世界の法則から大きく踏み出してしまう。
絵里ちゃんが語る、もう一人の私。
私の名前を付けられた、新たな彼女。
彼女は――私じゃない。鈴音と呼ばれているだけの――違う番号の、別人よ
私の代わりを務めている彼女も、同じようにナンバーで呼ばれる日が来るかもしれない。
そんな皮肉に、初めて絵里ちゃんは苦い顔を浮かべる。
からかっているのか
からかってないわ。ただ、そうでしょって言っているだけ
私が声を返すか、返さないかの刹那。
絵里ちゃんの右手がおおきく後ろに揺らめく瞬間。
身を屈めて足を踏み出し、体勢を地面に転がす。
ついで、二、三の大きな音。
シャープペンシルや定規も、使う者が使えば凶器となる。
――!
続いて、風を切る文具を避けながら、絵里ちゃんの懐にもぐりこむ。
彼女の手を両手で拘束しながら、私は説得を試みる。
似合わないわ、絵里ちゃん。こんなこと、なんの意味もない
今のわたしは、もう絵里じゃないわ
そんなところだけ、以前の優しい絵里ちゃんの声に戻るのは反則だ。
わたしは、E109867。すでに『修正』の届かない、エラー品の一部よ
それでもあなたは、親しい時間を過ごした友達の一人だった。
たとえそれが、作り物の記憶と判別できなくとも。
絵里ちゃんが私の腕をふりほどき。
そんな、悲しいことを言うのね
自由になった指先で、こちらの顔面へ手刀を突き出してくる。
けれど、彼女の行動は、私には読めていた。
大きく突き出された手刀を紙一重で交わし、右足から彼女の懐へ大きく踏みこむ。
……でも、わたしにとってあなたは絵里という名前の、優しい子だったわ
ふりあげた拳に――
――!
鉄とオイルの匂いが、じっとりと染みこむ。
倒れふした少女は、私の一撃を受けて、首と胴体を分断させられていた。
もう、彼女が語ることも、襲ってくることも、笑いあえることもない。
絵里、ちゃん……
――どうしてか彼女の顔が、安らかに見えたのは、私の偽善ゆえなのだろうか。
冷静に彼女の亡骸を見ながら、私も自分の力に驚いていた。
困ったことに、わたしも以前の私ではなくなっているようだ。
……そう、わたしももう、以前のわたしではないのだった。
こんなふうに親友を殺すなど、以前の私ならできもしなかっただろうから。
……なぜ?
けれど、違和感はなく。
また、なぜか、罪悪感もなく。
ただ、なにかが渇いている。
胸の内の渇いた空洞が、騒いでいるかのように。
その、なにかに導かれるかのように。
――私は、ある場所を目指す。
……!
……!
……!
絵里ちゃんが倒れると同時、周囲の生徒が一斉に動き始める。
もしかすると、結果を待っていたのかもしれない。
できるだけ、『修正』とやらの影響を減らそうとするため、システムをダウンさせていたのかもしれなかった。
冷静に事態を見極めながら、けれどすばやく、私は近くの窓から身を踊らせ脱出をはかった。
入り組んだ構内を駆けながら、後ろから追いかけてくる音が耳に響く。
けれど、とりあえず私の足は、彼女たちを巻く程度の能力があるようで次第に消えていった。
音もなく駆けるだなんて、小説の中だけのものだと想っていた。その姿を他人の眼で見れれば、まるで風に見えたことだろう。
――記憶にある鈴音は、もちろん、そんなことができる子ではなかった。
けれど、今は感傷に浸っているときではないと考え、足を踏み出し続ける。
……!
……!
しかし、人目を避けながら進んでいたのに、見つかってしまうと厄介だった。
談笑していた人間たちが、突然に懐から銃器や刀類を持ち出し襲いかかってくる。
幸いなのか、どうなのか、私のスペックではそれらの者達程度では障害にならない。
――!
幾十人もの障害を避けながら、私は目的地に向かう。
私は、不思議と不安になることはなかった。
……不安、という感情を持つことが、今の私にできるのかどうか、よくわからないのだけれど。
私の持つ機動力と攻撃力は、どうやら彼らに劣るものではないようで。
脳裏に浮かび上がる知識が、彼らの四肢や頭蓋を砕くように指示し、身体は違和感もなく、与えられる知識に追いついていく。
――どうして私は、『修正』というこの事態を受け入れ、自身の変化に、平静でいられるのだろう?
内心で自問しても、考える余裕はなかった。
追っ手の攻撃や、浮かび上がる知識の数々に、私自身が精一杯だったからだ。
あらかたの追っ手を破壊し、攻撃の手が止まった瞬間。
私は、ふと、空を見上げた。
追っ手から逃れ、けれど目的の場所に向かうために通過する道中。
――空中庭園と呼ばれている場所へ、たどり着いていた。
広大な敷地を持って造られたこの学園には、各建物をつなぐ中心部に、高い技術力で糸のようにつなげられた道が張り巡らされていた。
その場所を、空中庭園と、生徒達は呼んでいた。
どうしてか、この場所がひどく懐かしく感じる。
ここで空を見上げることが、鈴音としての私の、好むことだった。
でももうその幸福も、先ほどわき上がった一瞬の目覚めのせいなのか、まるで別人のものだったかのように感じられていた。
どこまでも広がる、空っぽで果てのない空。それを見て、想わず私は口を開く。
どこまで……?
呟いてから、視線を斜めにおろす。
空から移した瞳には、先ほどくぐり抜けてきた校舎があった。
以前よりもひどくクリアに見える視界のなかで、あるものが眼に入った。
あれは……
あちら側からは死角になっている、校舎の窓。そこでたたずむ、ある人物。
――そこには、『私』」が見える。
鈴音としての新たな役割を与えられた、別の『私』。
もう、この世界には……私は、いない
かつての私も、そうだったのかもしれない。
知らないうちに『鈴音』という役割を与えられ、そこに安住していたのかもしれない。
ほがらかに微笑む彼女をじっと見ていると――
それでは、なぜいけない?
――横合いから、冷たく叱責するような声が聞こえてきた。
なぜ、なんでしょうね?
返せたのは、問い返し。
本当に、なぜなんでしょうね……先輩