何事も一朝一夕とはゆかぬもの。
初音が同じ顔でいるのもたった二日間のことで、その翌日にはまた別の、久成にとって見慣れぬ顔へと戻っていた。
何事も一朝一夕とはゆかぬもの。
初音が同じ顔でいるのもたった二日間のことで、その翌日にはまた別の、久成にとって見慣れぬ顔へと戻っていた。
ひ、久成様、佐和子さん……!
昨日のように化けられないのです……!
泣きながら囲炉裏端へ現れた初音を見て、久成はもちろんのこと、佐和子までが慌てに慌てた。
泣くな、初音。
何事もそうたやすく成就できるものではない、時にはじっと耐え忍ぶことも必要だ
そ、そうですとも。
どうぞ泣かないで、笑ってくださいまし
でも……
それにほら、本日のお顔もこれはこれで愛らしいですし、お着物だってお美しいです。
ねえ、兄上?
えっ……あ、ああ、その通りだ
本当でございますかっ!
妹にさりげなく目配せをされ、新妻からは潤んだ瞳で見つめられれば何も言わないわけにもいかない。仕方なく、久成は言葉を絞り出す。
今朝のお前も……なかなかきれいだ。
だから気にせず、精進を続けるといい
ありがとうございます、久成様!
初音は目を輝かせ、どうやら立ち直った様子だった。
佐和子は二人の会話を穏やかに、しかしどこか楽しげに聞いていた。妹の視線を感じる時、久成は何とも言えず面映い気分になるのだが、同時に満ち足りた心境にもなった。妹と新妻と、三人での暮らしはここまで順調なようだった。
この日は小学校も休み。久成はもちろん、初音も佐和子ものんびりと朝餉の一時を過ごした。
食事が済むと、久成は井戸端で洗濯をしている佐和子に声をかけた。
俺は奥にいる。
何か用があったら、呼べば来る
かしこまりました。
兄上、初音さんはどうなさるのです?
初音はこれからしばらく勉学の時間だ。
そろそろ読み書きを教えねばならん
初音さんは聡明ですもの、きっとすぐに覚えてしまわれることでしょう
佐和子は兄の言動に不審を抱かなかったようだ。
奥で何をするのか、問い詰めてくることはなかった。
一方の初音は久成が国語読本を貸し与えると、興味深そうにそれをめくり始めた。覚えたての字を声に出して読み上げている。
はた、たこ、こま
そうだ。
大分すらすら読めるようになったな
はと、まめ!
わあ、鳩も豆が好きなんですね。私もです!
お前は本当に小豆飯が好きだな、初音
初音の勉学が順調と見るや、久成は彼女に石版と石墨を与え、書き取りの練習に励むよう告げた。
俺は奥の部屋にいる。
戻ってくるまでここで書き取りをするように
久成様、何かご用事ですか?
……ああ。
言われた通りにできるな、初音
はいっ
初音が素直に頷いたので、久成は内心ほっとしていた。奥で何をするのかと問われたら答えづらい。妹にも妻にも言いにくい話だが、妻の方は言葉を濁しても察するということがないから余分に厄介だった。
こうして遠ざけてでも済ませなければならない用があった。
奥に篭った久成は、火縄銃を取り出す。
安政生まれの父親が遺していった、最も形見らしい形見がこの銃だった。火縄銃が時代遅れの遺物となりつつある今日、唐変木と呼ばれる久成がこの銃にこだわるのもらしいと言えば実にらしいのだろう。
初音もそうだが、佐和子もまた、久成が銃を持ち出すことにあまりいい顔をしない。面と向かって咎めることこそないものの、あからさまに表情を曇らせるので、銃の手入れは二人の目につかぬところでと決めていた。久成自身はこの火縄銃を好んでいたし、いざと言う時の頼りでもあると考えている。廃刀令が発布されたのは久成が生まれるよりも前の話で、久成にとっては刀よりもこの火縄銃の方が身近な護身具だった。
だから手入れは怠らぬようにしている。いつ何時でも取り出して、必要とあらば守るべき者を守れるように――。
不意に、足音が近づいてきた。
――!
久成が気づいて手を止めた時には既に、正面の障子に影が映っていた。
影は障子の前に座って、静かに声を掛けてくる。
久成様、まだこちらにいらっしゃいますか
どうした、初音
慎重に、息を吐くように尋ねる。こちらの表情が見えぬせいだろう、初音が柔らかく笑うのが聞こえた。
はい。
書き取りも終わりましたし、せっかくのお休みですから、少しお話がしたいと存じまして
よりによってなぜ今、それを言うのか。身勝手な思いと自覚しつつも、久成は眉を顰める。
久成様のお傍にいさせていただけたらと……こうして参りました。
入っても、よろしいでしょうか
駄目だ
障子越しの確認を、久成は厳しく拒絶した。
妻がはっと息を呑むのもわかったが、拒まなければならなかった。
今、ここに初音を招き入れてはならない。
久成様……も、申し訳ございません。
ご迷惑でしたか?
取り成すように初音が詫びてきた。こちらが気分を害したと踏んだのだろうか。
久成は手元の銃に目をやり、銃身に溜まる光を睨んで応じた。
迷惑ではない。ただ、今は困る
初音が無言でいるので、更にもう一言添えなければならなかった。
お前の最も嫌いなものを扱っている。
そう言えば、わかるな
……はい
その答えの後、障子越しの空気はかえって張り詰めたようだった。初音は動かず、もしかしたら動けずに、障子の前でじっとしていた。
久成も手入れを途中で止めてしまうわkrにはいかなかった。初音を放り出したまま、ひたすら手元の作業に没頭した。
手入れを終え、火縄銃を初音の目につかぬところへ片づけてしまってから、久成はようやく障子を開けた。
初音はまだそこにいた。ぺたんとへたり込むようにして、障子が開くとぎくしゃく面を上げてくる。
……
そんな目をするな。
俺はあれが必要だから手入れをしている
……存じております
なら、わかってくれ
言いながら、久成は妻の傍らに膝をつく。
妻は逃げない。ただ座り込んだままでいる。
……
久成はその細い肩に、宥めるように手を伸ばしたが、指先に油の汚れが残っていたことに気づくと、すぐさま引っ込めなければならなくなった。
夫の挙動を見ても初音の表情は変わらない。張り詰めた面持ちをしている。
やがて久成はその顔に告げる。
あれは、お前と佐和子を守る為のものだ
存じております。
それでも……私は、怖いのです
……
久成は心中で嘆息する。
だから初音には、銃を扱っているところを見つかりたくなかったのだ。
しかし顧みるなら、二人の目を恐れるあまり、先にはっきりと申し渡しておかなかった自分にこそ非があるのだろう。
あるいは時代遅れの火縄銃に縋って、後生大事にしている自分にか――。
お前を撃ちはしない、決して
重ねて語りかけると、またしても初音は同じように答えた。
存じております
では、何を怯えることがある
たしなめるように久成は言った。妻が火縄銃に怯えているのだと、この時は確信して、他の可能性を考えもしなかった。
しかし。
妻は直後、強い眼差しを向けてきた。
久成様と佐和子さんは、私が必ず守って差し上げます
抑えた低い声で、淡々と後を継いでゆく。
ご存知の通り、私はただの女ではございません。
いざとなればお二人の為、戦う覚悟はできております
久成は言葉に詰まる。呻き声すら出なくなる。
見慣れぬ今の初音の顔に、頑ななまでの意志が覗いていた。夫ですらも打ち崩せぬ鋼の意志だ。それは鉄砲玉の威力で久成を射抜く。
ですからどうか、久成様は……もしもの時にも決して、戦おうとなさらないでください。
佐和子さんの為にも、逃げてくださいませ
凛として、初音は覚悟を述べた。
立派なものだった。時代が時代なら、まさに女房の鑑だと称えられていたことだろう。
しかしあいにくとこの世では、初音の覚悟も、久成の覚悟もまた、時代遅れの遺物でしかない。
お前らを守るのは俺の務めだ
弱りながらも久成が言い張れば、初音もまたかぶりを振って言い募る。
いいえ。
その役目は、どうぞ私に
お前にもしものことがあれば、きっと佐和子が悲しむ
それは久成様の時も同じでございましょう。それに私だって……
初音の赤みを帯びた双眸が、その時潤んだように見えた。
久成様の身に何かあれば……私は悲しくて、きっと堪りません
妻に頑なになられるよりも、そうして辛そうにされる方が余程、久成には堪えた。
そもそも休日の朝から交わすべき会話でもない。時代遅れの覚悟を語り合うのも、来るかもわからぬ『もしもの時』を案じ合っているのも、新米夫婦にはいささか荷が重く、面映く、甚だしく不似合いだろう。
そのことに気づいた久成は、仏頂面になって告げた。
それを言うなら、お前がいなくなる方が困る
困りましょうか
初音は真顔で問い返してくる。
何を言わせるのかと内心で焦れつつ、更に告げた。
困る、だろうな。
お前のような嫁は、どこを探しても他には見つかるまい
それで初音は、なぜか考え込むようなそぶりを見せた。久成の言葉が事実かどうかを考えようとしたのだろう。しかし否定されても、やはり困る。
だから、久成は指先が触れぬよう細心の注意を払い、二の腕を使って妻を抱きすくめた。
きゃっ!
妻が声を上げたが、そ知らぬふりで捕らえておく。
自らの顎を使ってやや乱暴に相手の柔らかな頬を突き、細い顎を掬い、無理矢理に上を向かせる。
目が合い、ようやく初音が頬を染める。
……
もしもの時は、来ないのが一番よい
久成は腕の中の妻に説く。
その時が来たら、三人で逃げればいい。
誰を失くしても、俺たちは最早立ちゆかぬ
でも……
頬を染めつつも、初音はまだ反論しようとしていた。頑なで強情な女だった。
黙らせるには唇を塞いでやる必要があったから、久成は躊躇せずにそうした。
……少し黙っていろ、初音
あっ……!
小さく声を上げた後、唇を塞がれた初音は本当に黙っていた。
その後で唇が離れても、腕を解いてやっても、ややしばらく黙ったままでいた。上気した頬と惚けた表情で、久成の眼前に座っていた。鉄砲玉など比べ物にもならぬ威力で初音の強情さを打ち崩し、反論を封じてしまったようだ。
久成は久成で、唐変木らしくもない大それたふるまいをしたかと、内心悶々としていた。接吻で女の言葉を遮るなど、佐和子が聞けばどこの伊達男ですかと眉を顰めるに違いない。しかし後悔ばかりが残っている訳でもなく、ぼんやりと寝惚けたような妻を眺めているのもなかなか悪くないものだった。
やがて、初音はぽつりと尋ねてきた。
久成様、今のは……一体何事でございましょう
何事かと、聞かれても困る
私、なぜだか奇妙な心持ちです。
まるでふわふわと、溶けてゆくような
新妻が熱に浮かされた口調で続ける。
でも、幸せな気分です……とても
もしもの時以上に今、強い覚悟が求められている。鉄砲玉を放つ意志よりも身近で、しかしなかなか乗り越えがたい覚悟が。そう思っていられるのは幸いなのだろう。戦に赴く時に相応する覚悟を、近しい者の為だけに浪費出来る今日は、幸いに違いないのだろう。
久成は改めて、妻の肩に腕を回した。
溶けてしまわぬようにと抱き留めた。その行動に移るまでいかほどの覚悟を戦わせたか、それは久成自身しか知らぬことだ。
……初音
久成様……
何も知らぬはずの初音は、それでもくたりと、身体を預けてきた。
時代遅れの新米夫婦には、覚悟の使い道がいくらでもある。日々が精一杯で、他へ向ける余力も残らない。
障子の前で妻と抱き合いながら、今、もしもの時が来たとして、このありさまではどうしようもないなと、溶け出しそうな心持ちで久成は思う。