恐る恐る表情を窺えば、奥谷くんは居心地悪そうに顔を背けていた。

ごめん。話しかけたら邪魔だね

 余計なことを言ったと思い、私は口を噤む。
 奥谷くんは顔を背けたまま言った。

あの……すみません、俺……

 苦しそうに絞り出す声を、私は耳を澄ませて聞き取らなければならなかった。

先輩の、名前呼べなくて……もしさっき、ちゃんと呼べてたら……。
俺のせいで先輩に怪我させて……すみませんでした

 奥谷くんは私の名前を呼べなかったことをとても気に病んでいるようだった。立花の言うような格好つけではなく、きっと本当に女の子が苦手なんだろう。
 その理由はわからないけど、奥谷くんがいい子だとわかって私はむしろほっとした。

気にしないで。私、突き指慣れてるから

慣れてる、んですか。
マネージャーでも突き指、するんですね

うん。ほら、シュート練習に付き合うこととかあるし

あ、そうですね……

だから気にしなくていいよ。
でも、名前は呼んでもらえたら嬉しいかな

 ちょうど包帯を巻き終えたところだった。包帯の端を引き裂いて結ぶ最中の奥谷くんが、黙って表情を硬くする。
 奥谷くんの苦手意識は尊重すべきだと思うし、私が咎める立場でもない。
 でも私にだって言い分はある。それだけは話しておきたかった。

私はコートに立つことはないけど、それでも部の一員、のつもりだから。
無理ならいいけど、私のこともバスケ部の仲間だって思ってもらえたら嬉しいなって

 そこまで語ると、私は包帯を巻いてもらった手を軽く上げて眺めた。
 なかなかの出来栄えだ。本職に勝るとも劣らない。

ありがとう、奥谷くん。
練習中なのにごめんね

 手を引っくり返して包帯の巻き具合に見入る私を、奥谷くんは横目で一瞬だけ見た。
 それから意を決したように、

た……高橋、先輩

 急に名前を呼ばれたので、びっくりした。
 たどたどしい口調だったけど、自然な呼び方でもなかったけど、確かに呼んでくれた。

何?

 驚きを顔に出さないよう気をつけながら聞き返す。
 すると奥谷くんは早口になって、

本当にすみませんでした。俺、練習戻ります

 そう言うが早いか踵を返し、コートの中へと帰っていく。
 部の皆が彼を笑顔で迎え入れるのを、私は呆然と見送った。その後で我に返ったら、思わず口元に笑みが浮かんだ。

……なんだ

 やっぱりいい子じゃん、奥谷くん。
 不注意で怪我をした後だというのに、私はいい気分でマネージャーの仕事に戻った。右手を庇いながら作業をしていると、ふと視線を感じた。
 体育館の入り口に立つあの女の子が、いつからか私を見つめていた。

……

 私が奥谷くんといたから気にしていたんだろうか。私が彼女を見つめ返すと、彼女ははっとして渡り廊下の方へと駆け出した。
 そのまま、練習中は戻ってこなかった。

 怪我をしているといいこともあって、今日は部の皆が優しかった。
 練習後の掃除や片づけを積極的に手伝ってくれて、嬉しいやら恐縮するやらだった。私は右手に負担のかからない作業ばかりやらせてもらって楽をしていたので、申し訳ないなという気持ちにもなった。

 特に奥谷くんは責任を感じているのか、最後まで残って後片づけに協力してくれた。
 相変わらず目は合わせてくれなかったけど、私が運ぼうとした冷水器をひょいと持ち上げるなり言った。

じゃあ俺、これ洗ってきます。
た、高橋先輩……は、先にお帰りになってください

 もごもごと口の中で転がすような物言いだった。でも嬉しかった。

ありがとう。でも私、用具室の整理が残ってるからここにいるよ。
奥谷くんこそそれ終わったら、本当に帰っていいからね

でも……

 私の返答に奥谷くんは困惑したようだった。もしかしたら意外と厳しい立花に『責任取って高橋を手伝え!』なんて言われたのかもしれない。
 でも私にそれ以上の反論はせず、冷水器を提げて足早に体育館を出て行った。
 私も用具室に入り、掃除に使ったモップやトレーニング用のラダーを片づける。

 埃っぽい匂いのする、窓も締め切られた用具室で汗をかきかき整頓していると、不意に背後で気配がした。奥谷くんが戻ってきたかなと思い、振り向いた。

早かったね、奥谷く――

……

 そこにいたのは奥谷くんではなく、あの一年生の女の子だった。
 用具室の戸口に立ち、張り詰めた表情で私を見つめていた。

先輩

 その子の声を初めて聞いた。可愛い顔立ちから想像するよりもずっとハスキーな声だった。
 でも、それはもしかしたら緊張しているせいなのかもしれない。

えっと……いつも練習見に来てる子だよね?

 なるべく微笑もうとした私とは対照的に、彼女は笑わなかった。制服の袖から伸びた細い腕の先、小さな拳が固く握られ、震えていた。

そう、です。いつもすみません

ううん、別にいいよ。
ところで私に何か用かな

先輩は、奥谷と仲がいいんですか?

 唐突に思える質問をぶつけられた。
 この手の質問には割と慣れている。バスケ部唯一の女子マネージャーともなれば、他の部員との仲を勘繰られることはよくあった。特に立花とは付き合いも長いせいかしょっちゅう聞かれるので、その度にあっさり否定することができた。
 もちろん今回も即座に否定した。

そんなことないよ。
同じ部活だから話すことがあるだけ

 実際、今日のやり取りを見たところで私と奥谷くんの仲を疑う人はまずいないだろう。仲がいいようにすら見えないはずだ。でも練習の度に見に来ているこの子にとってはそうは見えなかった、ということもあり得る。誤解があるなら早めに解いた方がいい。
 ところが、私の答えに彼女は安心した様子を見せなかった。それどころかますます緊張した顔になった。

奥谷と、話ができるんですか?

え……う、うん。
同じ部活だから、少しくらいはね

なら、お願いがあります。私も奥谷と話が――

 彼女が言いかけた時だった。

あの、高橋先輩……。冷水器洗ってきました

 奥谷くんの声がしたかと思うと、彼もまた用具室の戸口に姿を現す。一年生の彼女が振り返り、そして奥谷くんも彼女を見た。
 途端に彼の表情から、すうっと血の気が引いた。

奥谷!

 女の子が短い髪を揺らし、彼の名前を叫んだ。すぐに身体ごと向き直り、彼に縋りつくようにまくし立てる。

ねえ、今日は話をさせて!
私ずっと謝りたくて、聞いて欲しくて来たんだよ! お願い!

……!

 一方、奥谷くんは凍りついている。
 目を見開き、青ざめた顔で彼女を見ている。尖った喉仏がゆっくりと上下して、彼女の言葉を飲み込もうとしているようだった。

私と二人でいるのが嫌なら、先輩と一緒でもいいから! 話をして、私に謝らせて!

 女の子が私を手のひらで指し示す。
 どうしていいのかわからない私が事の成り行きを見守っていると、奥谷くんがやがて息をついた。

……嫌だ

 食いしばる歯の奥から振り絞ったような声だ。

話なんて、したくない。
謝られたって許すつもりもない

 奥谷くんが憎しみのこもった鋭い目で女の子を睨む。
 温厚そうな彼がこんな顔をするなんて、私は想像もできなかった。

お、奥谷……

 女の子が後ずさりをする。

もう思い出したくないんだ。
俺の前に現れないでくれ!

 奥谷くんが怒鳴ると、女の子はわっと泣き出した。そして泣きながら用具室を飛び出し、無人のはずの体育館に足音を響かせながら消えてしまった。

 何が起きたのか、私にはちっともわからなかった。
 ただ気がつくと奥谷くんは糸が切れた操り人形みたいに用具室の戸口でうずくまり、彼が洗ってきてくれた冷水器ががらんと音を立てて床に転がった。ひゅうひゅうと荒い呼吸が聞こえてくる。膝に顔を埋めているから、表情は見えない。

 奥谷くんにとっての彼女は、苦手な女の子という次元の話ではなかったようだ。
 多分、彼女が過去に奥谷くんを深く傷つけ、奥谷くんはそれを今でも許せていないということなんだろう。そして彼女はそれでも謝りたくて、バスケ部の練習を、奥谷くんをずっと見に来ていた――。

 何が何だかわからないけど、彼をこのままにもしておけない。そっと声をかけてみた。

奥谷くん、大丈夫?

 聞いてしまってから、なんて白々しい質問だろうと思った。
 大丈夫なはずがないのは見たってわかる。
 でも、だからってずけずけと事情を聞くこともできない。聞いたところで奥谷くんが、思い出したくもないようなことを話してくれるはずもない。
 一体、どんな酷い目に遭ったんだろう。

……奥谷くん

 私は床に転がった冷水器を拾い、用具室のバスケ部のロッカーに収めた。
 それから彼を振り返り、何を聞こうか数秒間迷って、自分の中で推測がつく事柄だけを尋ねた。

奥谷くんが私の名前を呼べなかったのって、その思い出したくないことのせい?

 間違いなくそうだろう。
 私と目を合わせようとしない理由も、挨拶すらまともにできなかった理由も、きっとさっきのあの子にあるんだろう。

 熱気のこもる静かな用具室に、長い沈黙が流れた。
 体育館裏手の雑木林でひぐらしが鳴き始めた時、ようやく彼は言った。

そう……です

 顔を上げずに、とても辛そうに言った。

俺、忘れたいのに……あいつがいるから忘れられなくて、
思い出したくないのに、苦しくて……!

 聞いておきながら、いざ思った通りの答えが返ってくると言葉もなかった。
 何か言ってあげたいのに何も言えなかった。

 私は答えを探すように、練習中に彼が巻いてくれた右手中指の包帯を見下ろす。未だに解けもせずぐるぐるに巻かれた包帯を見ているうち、ふと思い出した。
 私は、奥谷くんの苦しみを知らない。彼が思い出したくない、忘れたい過去の傷を知らない。
 だけど、忘れたい記憶の葬り方は知っている。

忘れたいことがあるなら、ぐるぐる巻きにして埋めてしまえばいいんだよ

 奥谷くんがそろそろと顔を上げる。
 まだ血の気が戻らない顔に脂汗を浮かべた彼は、私を見てこわごわ声を発した。

埋める……?

そう。教えてあげようか。
そういう記憶を、封印しておく方法

 私は頷く。
 立花は知らなかったようだけど、女の子も中二病と言うか、そういうものにかぶれることがある。

 何か埋めたいものを持って、体育館裏に集合。
 そう告げると奥谷くんは、見た目には手ぶらのままで集合場所へやってきた。
 私も家から持ってきたのは園芸用の小さなシャベルと粘着テープだけだった。

こ、これからどうするんですか、高橋先輩

 心なしか緊張気味の奥谷くんを、私は体育館裏の雑木林に連れ込んだ。

 林と言っても大した広さではなく、中を突っ切るだけならものの五分でいける。
 それでも高く伸びる松の木の間を歩いていると、ふとすぐそばにある体育館や校舎さえ見失うことがあってどきどきする。練習を終えた夕方、林の中にはひぐらしが物寂しげに鳴いていた。

 私の目当ては一本の松の木だ。
 伸びる途中で何があったのか根元付近は滑り台のように湾曲していて、実際に誰かが滑るか登るかしたのだろう。曲がったあたりの幹だけいやにつるつるしていた。

ここに埋めたんだよね

 私がその根元にしゃがみ込み、地面にシャベルを突き立てる。ざくっと小気味よい音がした。

何を埋めたんですか

 すぐ隣にしゃがみ込んだ奥谷くんが訝しそうな声を発した。

だから、記憶。
私の忘れたい、思い出したくない記憶だよ

 左手でシャベルを握り、松の木の根元を掘り起こすと、夏の土の匂いがたちまち辺りに舞い上がった。程なくして地中からは見覚えのある物体が現れる。
 粘着テープでぐるぐる巻きにされた紅茶の缶だ。黒い土に塗れていたけど自分で埋めたからすぐにわかった。私はシャベルを足元に置き、手のひらが汚れるのも構わず土を払い落とした。それから缶を覆う粘着テープを剥がしにかかる。

な、中に何入れたんです?

 奥谷くんがなぜか慌てている。

別に死体とかじゃないよ

わ……わかってますよっ

 利き手が使えない今、強力な粘着テープには少し手こずったけどどうにか全て剥がした。

 べたつく缶を掴んで蓋を開ける。
 奥谷くんがどんな想像をしたかわからないけど、缶の中から一枚の折り畳んだプリント用紙が出てきた時、彼は拍子抜けしたように目を瞬かせた。

……これは?

創部届。わかる?

はい……見るの、初めてです

 校内で新たに部活動を設立する際に必要な届け出が、創部届だ。
 土に塗れた私の手が広げた用紙は、あっという間に黒く汚れた。
 だけど記入が必要な枠内は真っ白なままだった。創部理由、活動内容、部長や部員の氏名、顧問の名前と押印欄――どこにも、何も書かれていない。

これが私の忘れたい記憶

 懐かしいその紙を見下ろしながら、私は感傷に囚われつつ打ち明ける。

一年の頃の話なんだけど。
私、女子バスケ部を作ろうとしてたんだ

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