プリント用紙を覗き込んでいた奥谷くんがこちらを見――かけて、すぐに目を逸らした。
私はその反応をちょっとだけ笑い、話を戻す。
女子バスケ部?
プリント用紙を覗き込んでいた奥谷くんがこちらを見――かけて、すぐに目を逸らした。
私はその反応をちょっとだけ笑い、話を戻す。
去年の私は、その気があれば何でもできるって調子に乗ってたんだ。
進学したこの高校に女バスがないのは知ってたけど、だったら作ればいいじゃんって軽く思ってた
立花が言っていた、中二病の症状の一つだ。
やろうと思えば何でもできる、不可能なんてないと思い込んでいた。
でもまあ、そんな簡単じゃないよね。
うちの体育館狭いし、新しく部活動作ったら既存の部活の練習場所減っちゃうし。
顧問になってくれる先生も見つからなかったし、それどころか『男バスケに迷惑かかるからやめろ』って言ってくる先生もいて
その言葉がまるで脅しみたいに聞こえた。
大人は皆間違ってる。そんなことも、あの頃思っていたっけ。
私には中学から一緒のバスケ仲間がいたの。
最初のうちは皆も創部に熱心だったけど、先行き真っ暗、先生には疎まれるじゃ嫌になって当然だよね。
一人減り、二人減りって感じで、気づけば私ともう一人の子だけになってた
一番思い出したくない、忘れたくない記憶がそこだ。
中学時代のチームメイトで、一緒に登下校もするくらい仲のよかったその子が、私に言った。
青春映画みたいなことが現実になるわけないじゃん。
あんた、調子乗ってて痛いよ
……って、その子に言われた
……!
奥谷くんが息を呑むのが聞こえた。
私は創部届を折り畳み、紅茶の缶の中へ戻した。
その子の言葉は正しいけど、さすがに傷ついて心折れたな
何でもできる気がしていた心があっさりと冷えて、私は我に返った。
我に返った途端、自分の思い上がりと、暴走と、失くしたものの大きさに気づいて、泣きたくなるほど落ち込んだ。
その子と仲違いして、私は創部を諦めた。
へこみすぎてもう、それどころじゃなかった
やっぱり、バスケされてたんですね
奥谷くんがそこで口を挟んだ。
私が彼の方を向くと、彼はこちらを見ていなかったけど、代わりに真剣な目を紅茶の缶へ向けていた。
わかる?
はい。キャプテン……立花先輩が、
『名前呼ばれてたら的確に反応できてた』
って言ってたんで
あれは買い被りすぎだけどね。
もうブランクあるし、そこまでじゃないよ
あと、突き指に慣れてるって聞きましたし
そうだ、突き指はバスケ部員ならよくある負傷だ。私にとっては久々の、懐かしいくらいの痛みだった。
それで、うちの部のマネージャーになったんですか
うん。立花が声かけてくれて、誘ってくれたから。
一時期はバスケって単語聞くのも嫌だったけど、やっぱり、好きだったから
立花が私の無様な暴走や元チームメイトとの仲違いについて、どこまで知っているかはわからない。あいつのことだから何もかも知っていそうな気がするし、そうだとしてもいちいち言ってはこないだろう。
私にとっては忘れたい、でもなかなか忘れられない記憶だったから、こうしてぐるぐる巻きにして葬った。去年の話だ。私の若気の至りの集大成がこれだった。
あれから一年が過ぎ、こういうことでもなければ思い出さないくらいには薄れていたけど。
何か、すみません。俺のせいで高橋先輩まで嫌なこと思い出しちゃって
奥谷くんが俯いた。
私は笑って、蓋が開いたままの紅茶の缶を彼へ差し出す。
いいよ、私がしたくて誘ったんだから。
で、奥谷くんは何を埋める?
……これ
ジャージのズボンのポケットから、奥谷くんは皺くちゃの、だけど妙にカラフルな紙切れを取り出した。
サイン帳ってわかります?
卒業前に配るやつ
うん
私は頷いた。実際に配ったこともあった。クラスや部活の仲のいい子に配って、プロフィールやメッセージなどを記入してもらって、思い出として取っておくあれのことだ。
中学卒業する時、あいつから貰ったんです。返すどころか何にも書けませんでしたけど
奥谷くんは苦しそうに顔を歪めて語る。
あいつとは、あの女の子のことだろう。髪が短い一年生の、奥谷くんに謝りたいと言った彼女。
思い出すのもまだ辛いようで、奥谷くんは何度も深呼吸を繰り返してから切り出した。
中学の頃、あいつに告られたんです
私が驚いたのがわかったのか、彼は慌てたように語を継ぐ。
ち、違うんです。告られたのは事実なんですが……嘘、いたずらだったんです
え……
告られて舞い上がってる俺を見て、笑ってやろうって計画だったそうです
何それ。最低の計画だね
思わず吐き捨てた。誰かを馬鹿にする為に嘘をついて騙そうなんて、聞いただけでむかついた。
奥谷くんが弱々しい笑い声を立てる。
俺、中学の頃からちびだったし、あんまり喋る方でもないから、女子からすれば格好のターゲットだったんですよ
だからって……!
いいんです、自分でもわかってます。クラスではずっと弄られキャラだったんで
そんなことが質の悪いいたずらの免罪符になるはずもない。私は憤ったけど、奥谷くんは淡々と続けた。
俺、あいつとも仲いいどころか、全然話したことなかったんです。
それで手紙貰って、放課後に公園に呼び出されて、何も知らないでちょっと困ったななんて思ってました。
いきなり告られても知らない奴とは付き合えないし、いい加減なこともしたくないし、友達からならって言おうなんて考えてて……。
公園で待ってたあいつに、そう言いました
そこで奥谷くんは言葉を区切り、目を伏せた。
そしたら、遊具の陰に隠れてた他の女子達が一斉に飛び出してきて、
奥谷のくせに生意気! 調子乗んな!
……とか、さんざん言われて。
俺も真面目に考えた後だけに、死にそうなくらい恥ずかしかったです
奥谷くんが皺だらけのサイン帳の一ページを、紅茶の缶の中へ差し入れた。
責められて、馬鹿にされて笑われたこと、忘れられないんです。
高校上がったら忘れられるかと思ったら、あいつと同じ学校で、顔合わせる度にあの時のこと謝りたいとか言われて
……そっか
あの子は、どうして奥谷くんに謝りたいんだろう。
ふと疑問が頭をもたげた。
罪の意識に苛まれ、許してもらって楽になりたいのか。
同じ高校になったから、ぎくしゃくしたままじゃいけないと思ったのか。
それとも。
許した方が忘れられるんじゃないか、とも思うんです。
でもやっぱりあいつの顔見ると思い出して、辛くて、身体が震えて……駄目なんです
私は缶の蓋を閉める。
なら、埋めちゃおうか。
奥谷くんの忘れたい記憶も、私の忘れたい記憶と一緒に
はい
頷いた奥谷くんが、私に手を差し出してくる。
テープ巻くの、俺やります。貸してください
私もありがたく粘着テープを彼に渡した。包帯を巻くのが上手い奥谷くんは、缶にテープを巻くのも上手かった。缶の色が見えなくなるくらいきっちりとぐるぐる巻きにすると、さっき私が掘り出した地面の穴に、さながら葬るように横たえる。
シャベルを使って缶にそっと土をかけると、程なくして缶は埋もれ、見えなくなった。
タイムカプセルみたいですね
埋め終わってから奥谷くんが言った。気のせいか、声が明るくなったような気がする。
そうだね。負のタイムカプセル?
いつか掘り出しに来るんですか、高橋先輩
どうだろ……大人になったら、案外掘り起こしてみたくなるかもね
そうですね。大人になったら
私の言葉を噛み締めるように、奥谷くんが繰り返す。
大人になった私がどんなふうに生きているか、今は想像もつかない。
でも私はここに記憶を埋めてから一年、気がつけば滅多に思い出さないほど忘れ始めていた。いつかこの記憶をふと思い出して、そんなこともあったなって笑って振り返る日すらやってくるのかもしれない。
それまでには俺も、乗り越えられるよう頑張ります
奥谷くんも立ち上がり、私の方を見た。
初めてちゃんと目が合った。奥谷くんは一瞬怯んで目を逸らしかけたけど、やがて慎重にこちらへ視線を戻す。それから私を見て、真面目な顔で顎を引いた。
ありがとうございました、高橋先輩
私は、彼なら大丈夫だろうと確信していた。
いつの間にか私と話をしてくれるようになっていた。私の名前も自然に呼んでくれるようになった。奥谷くんならきっと、忘れたい記憶を乗り越えて前に進めるだろう。
うん。じゃあ、帰ろう。
そろそろ日が暮れるよ
松の梢越しに見る空に、微かな星が灯り始めていた。ひぐらしの声も気づけば止み、雑木林には夜の虫の声が響いている。
私達は松の木の根元を離れ、雑木林を抜け出した。そして何事もなかったように家路に着いた。
帰り道の奥谷くんは口数少なだったけど、もう私から目を逸らすことはなかった。
数日後、バスケの練習に出た私を、少し早めに来ていた奥谷くんが待っていた。
あいつがまた謝りに来たから、今度はちゃんと話をしたんです
練習前、まだ静かな体育館を二人でモップがけしながら、彼は私にぽつぽつと語った。
謝られても許せるかどうかわからないけど、なるべく忘れるようにするから、もう謝らないでくれって
言われてみれば、あの女の子はいつしか姿を見せなくなっていた。
練習を覗きに来なくなったということは、奥谷くんのその言葉に納得してくれたんだろう。
私は少しの間、あの子のことを考えた。
奥谷くんに謝ろうとしていた、あんなにも必死に縋りつこうとしていた彼女は、かつてクラスメイトの罪深いいたずらにどんな気持ちで加担したんだろうか。
もしかすると彼女にも忘れたい、思い出したくない記憶があるのかもしれない。
いや、忘れたい記憶を何も持っていない人の方が珍しいに違いない。
それが自分の罪であろうと、誰かの罪であろうと、乗り越えなければいけないのは自分自身だ。
私と奥谷くんはそれを乗り越える為に、ぐるぐる巻きの記憶を地面に埋めた。
あいつと話せたのも、高橋先輩のお蔭です
封印、効果あったみたいだね。よかった
はい。
教えてくださりありがとうございました
その言葉の後、彼は笑った。
高橋先輩は、真っ直ぐな人ですね
えっ
思いがけなく誉められて、私はちょっとうろたえた。そんなふうに人から言われたのは初めてだった。
私が反応に困っていることに、奥谷くんは気づかなかったようだ。モップをかけながら続けた。
俺、先輩がバスケやってるとこ見たいです。
今度一緒にやりませんか?
私はモップを握る自分の右手に目をやる。
あの日、ぐるぐる巻きにされていた中指の包帯はすっかり取れていた。
気持ちは嬉しいけど、今の私じゃシュートも決められるか怪しいよ。
もう一年やってないんだから
じゃあ、俺が教えます。
練習でも走り込みはしてるし、すぐに勘取り戻せるんじゃないですか
あ、それならいいかも。
勘戻るまでへなちょこだろうけど、笑わないで教えてね
笑いませんよ
奥谷くんがそう言った時、体育館の入り口にスポーツバッグを抱えた立花が現れた。あくびをしながら声をかけてくる。
おはよー。高橋も奥谷も今朝は早えなー
おはようございます、キャプテン!
お辞儀と共に返事をした奥谷くんが、モップを握りしめて勢いよく駆け出した。私と話せるようになったと言っても、他の人に見られるのはまだ落ち着かないのかもしれない。こちらには目もくれずモップがけを進めている。
私も同じようにモップがけを再開したら、立花がこちらへ近づいてきて、私の耳元で囁いた。
お前、あいつを手懐けたのか?
普通に喋ってたじゃねえか
って言うか、治ったんじゃないかな
同じく小声で答えると、思いっきりうろんげな顔をされた。
治るにしたって、何の前振りもなくあっさり治るもんじゃなくね?
あっさり治るものもあるんだよ、多分ね
他の症例は知らないけど、奥谷くんのはきっと治る。
いつか痕も残らないくらいにきれいに治ってしまう。
根拠はないけど、私はそう思っている。
ふと見ると、モップがけを再開したはずの奥谷くんがじっとこちらを見つめていた。手を止めて私と立花を見ていて、私と視線が合うと驚いたように両目を見開いた。
……あ
私達が彼のことを話しているって、不安に思っているのかもしれない。
何でもないよと軽く手を振れば、彼はぎくしゃくと会釈を返した後、またいそいそとモップがけに勤しみ始めた。さすがに手を振られるのは恥ずかしかったのか、顔がちょっと赤くなっていた。
……
……なあ、高橋よ
立花が不意に私を呼んだ。
それで私がそちらを向くと、立花は私に対し、まるで呆れたような苦笑いを浮かべてみせた。
この場合は治ったんじゃなくて、別の病気にかかったって言うんじゃねえ?
……え? どういう意味?