夏は次第に暑さ厳しいものになっていく。日中の火照った身体を冷やすのは、宵の涼風だ。
 儀式を終え、新たな宮へ移った冴弓は、その場所に不慣れゆえの居心地の悪さを感じつつも、胸のうちは凪いだように静かだった。
 冴弓は、人払いをした自室でしばらく考えごとをして過ごし、夜も深まる頃になってから、東宮へと使者を遣った。それから女官を呼んで簡単に身支度を手伝わせると、一人、目的の場所へ向かって廊下を渡った。
 冴弓が歩いて辿り着いた先は、正殿の南に広がる玉砂利の庭。特別な儀礼の場である正殿は、大内の中でももっとも大きな御殿で、その庭にあたるこの場所もまた広大だ。
 庭の、正殿にほど近い場所には、桜の木と橘の木が一本ずつ、従順に控えている。その桜の木の枝の下に、冴弓は留まった。瑞々しい色をした葉桜の向こうに、煌々と照る月が見える。
 夜風に揺れる枝葉の音を聴きながら目を閉じていると、ほどなく玉砂利を踏む人の足音が聞こえた。
 冴弓は目を開き、畏まってその人物を迎える。

冴弓

兄上

 呼びかけるその声に、これまでにない緊張が混じることは隠しようがなかった。
 弥皐(やたか)は、東宮の中でのくだけた装いではなく、冴弓と同じように略式の礼装をしていた。

弥皐

おまえから月見の誘いなど珍しいな

冴弓

遅くにお呼び立てして、申し訳ございません

弥皐

構わぬ。せっかくの良い月だ

 冴弓と弥皐は、少しの距離を置いて向かい合った。

弥皐

……満月の晩は、いつもおまえに出会ったときのことを思い出す

冴弓

……わたしも、今宵はそのことを考えておりました

 弥皐は桜の枝影の下に入り、冴弓の横で、零れ入る月光を見上げた。冴弓もそれに倣う。

冴弓

兄上……、恥ずかしいことに、わたしは今まで死ぬということについて考えたことがありませんでした。……ですから、兄上があの日、わたしのためにどれだけのものを葬ったのかさえ、わたしは今まで知らなかったのです

 冴弓はあの日、弥皐によってすべてを奪われている。その意味を、冴弓はこの年まで知らずに過ごしたのだ。ただ、弥皐だけを恃みにして。

弥皐

それがどうかしたのか?

 弥皐の声は冷ややかだ。

弥皐

あのときも言った。わたしはおまえのためなら、どれほどの血が流れるとも惜しまぬ

冴弓

だから、彼を殺しましたか

 冴弓は心からの突き上げる激情を以って弥皐を見た。弥皐はしばらくそれに気づかぬふりをして月を眺めていたが、やがて冴弓の視線に自分の視線を絡める。
 冴弓は視線を逸らさないように必死だった。弥皐の表情は氷のように冷ややかで、この心に燃える火などでは到底及ばぬ、その圧倒的な冷徹さに負けてしまいそうだった。

弥皐

冴弓、わたしは物覚えの悪い弟を持った覚えはない

 喉がきゅっと締め上げられるようだ。それほど、弥皐の放つ気配は尋常ではなかった。自分は、本当は弥皐のことをなにも理解していなかったのだと改めて痛感する。冴弓に振り向けられるあの優しさの裏で、彼は戦をしていた。そして、多くの人々をその手にかけていた。

冴弓

兄上のお考えは存じております

弥皐

ならば、今さらわたしから言って聞かせることもないな

 弥皐にとって、王家とその他の人々はそもそもが別な生き物なのだ。王家は神に連なり世を治める絶対者で、その下にいる民草は神のために犠牲になるものたち。弥皐のその考えは、残酷なほど徹底している。
 弥皐はきっと、眉ひとつ動かさずに命令を下したことだろう。そこにどれほどの犠牲があろうと、彼は憂えたりしない。成果が上がればそれで良い。

弥皐

冴弓、おまえはいずれ人の上に立ち、それらを使ってこの国を動かしていかねばならない。おまえが見るべきは過去に起こった人一人の死でなく、未来にこの国がより良くあるになにを手にして、なにを捨てるかだ

 そこまで言うと、弥皐は葉桜の木陰から、月の光差す空の下へ歩み出た。真昼のように明るい月が照らすその背中を、冴弓はその場から動かぬままじっと見つめた。
 弥皐は振り返り、語る。

弥皐

中つ島は広く、そこに住む民草もその文化もさまざまだ。だがそれでは、いつまで経ってもこの中つ島に秩序は成り立たぬ。武力で領土は覆(くつがえ)っても、民草の信心までは覆すことはできぬからだ

 以前、歴史の講義で信教の話を聞いた。
 この晦国(かいのくに)には国の神がいて、「天神(あめのかみ)」と呼ぶ。晦国の王は天神の末裔で、地を統べるために遣わされた神が晦国の礎を築いたとされている。
 異国には異国の神があり、国の成り立ちもさまざまだ。今、晦国と中つ島を二分している圭国は、この地の深くに古くより住まう「根神(ねのかみ)」を奉じている。天神が一柱の神を大本としているのに対し、根神は何百という神々の総称で、圭国内はそれらの神で溢れかえって混沌としているというのだ。

弥皐

必要なのは、すべての民草を統べる、強大な指導者の存在だ。そしてそれは人ではなく、神として人の裡に住まうものだ

 そして弥皐は、あくまでも静かな声音で、けれど決然と宣たまった。

弥皐

わたしは神になる

 それははっきりとした宣誓だった。その声は、冴弓のもとにしか聞こえていないはずなのに、まるで世界中に呼ばわったようにも聞こえた。

弥皐

この中つ島をあまねく手中にし、すべてのものがわたしと、わたしに連なる王たちのもとに統べられる。そんな国をここに築く。そのために、わたしはおまえを探し求めたのだ。我が兄弟、月の王子よ

 そんなことができるのだろうか。冴弓にはよくわからなかった。
 神になるなど。自分が自分以外のなにかになって、それによって人心を操ろうというなど、冴弓にはまるで及びもつかない。弥皐と冴弓では、見えている世の中の広さがまるで違っている。しかし、わからないながらも、弥皐の語ること、語る声音の確かさには、心を強く惹かれるものがあった。それは、弥皐をずっと慕っていたからではない。今この瞬間に、彼の新たな面に触れて芽生えた、それまでの親愛の情とは一線を隔す、もっと熱くて激しい衝動だ。
 弥皐の声は、冴弓の耳になお強く届く。弥皐は言った。

弥皐

いつかの問いをもう一度問おう、冴弓。――わたしと再び、この国を治めてはみぬか

 かつて、五年前の自分が答えることのできなかった問いかけだった。あの頃、この問いになんの迷いもなく答えていたのなら、今の自分はどうなっていただろうかと、無意味なことを考えてしまう。
 そう、無意味だ。結局なにも変わりはしないはずだから。
 弥皐のやったことは、憎いに違いはないだった。彼によって冴弓が奪われたものは大きく、冴弓の胸には今なお埋まらない穴が開いている。それでも、そのために弥皐との絆を断つことは、自分にはできない。
 冴弓は、袂の影に隠した両手をぎゅっと握りしめて、腹の底に力を込めた。そうやって、身体の内側に乱れている数々の思い出と悔恨を鎮め込む。
 力のないただの弱い弟であることは、もうやめる。弥皐が求める「月の王子」は、そんなものではない。

冴弓

望むところです、陽(ひ)の王子よ。わたしもまた、あなたのもとであなたの光を受けるものとなりましょう。あなたの威光の及ばぬところがないように、あなたの光を届けるものとして。そして……

 冴弓は、みずからも月光のそそぐ場所へ出た。真円の月を一度見上げ、弥皐に向き合う。

冴弓

月の本分とは、断罪です。すべての罪は白日のもとに晒され、月夜のもとで罰されるが世の習い。なれば、あなたがあなたの道を違えるときは、このわたしがあなたを裁く者となりましょう

 わざと挑戦的に言う。もはや自分は王子だ。王太子とは一線を引かれるとはいえ、同じ王子となった以上、ただ単に従順な弟でいたくはなかった。
 そして、弥皐はそのときになってようやく、口元にかすかながら笑みを浮かべる。

弥皐

おまえも言うようになったな。……良かろう。わたしが万が一、我が道を失う時があるのなら、その裁きをおまえに委ねよう

 弥皐は頷いた。ようやくその場に漂っていた緊張した空気が緩む。
 冴弓は、どこかに人の姿がありはしないかと、ちらりと庭や渡り廊を見渡し、誰の姿もないことを確かめて訊ねた。

冴弓

しかし、いかようにして神になどなられるおつもりですか?

 弥皐も自分から言ったばかりだ。民草の信心を覆すのは、決して容易なことではない。
 心配する冴弓に対して、弥皐はまるで澱みがなかった。

弥皐

一つには、国造りの理念に沿って神を作り上げていくことだ。これは、密かに神祇官を筆頭に取り組ませている。我らの祖たる天神の信仰に、代々の王が成した偉大な功績を拾い上げて肉付けし、国を統治するのに必要な道理を、神の教えとして体系にする

 あとはもう一つ……、と、弥皐はどこか期待を込めたような目で、冴弓の目を覗き込んだ。

弥皐

これはいずれおまえにまかせたいと思っている。……史書を創る

冴弓

史書……

弥皐

そうだ。この中つ島すべてを我ら晦国が領する正当性を示すため、それに至る歴史を我らが編み出す

冴弓

歴史を、編み出す……

弥皐

そうだ。今、我らの手元にある歴史というものは、ばらばらに散らばった珠玉のようなものだ。その一つひとつは素晴らしいが、まとめて連ねなければ使いものにはならない。おまえの役目は、やがて治まる中つ島全土からそれらを集め、神代から続く一つの歴史の流れを作り上げることだ。そこにやがては神祇官の仕事を合わせてゆけば、天神が地方の神々を統べる過程を、はっきりと記すことができよう

 そしてその統治を成し遂げる天神こそ、目の前にいる弥皐ということだ。一体、彼以外の誰がこんな大それたことを考え、実行するだろうか。

冴弓

はい、兄上

 冴弓は、自分が特別な場所へ来たことを、胸の高鳴りと共に改めて感じた。

おためし版「創月紀 ~ツクヨミ異聞~」2巻より

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