新春からふた月ばかりが経ち、野に降り積もった白雪が融け、川が流れを取り戻す季節になった。勢いを取り戻しつつある太陽の光を浴び、雪解け水で豊かになった川の水面が輝く。この日、陽(ひ)の社より、斎宮の任を終えた煌姫(てるひめ)が都へと帰還した。
 冴弓(さゆ)は、煌姫の王(おおきみ)への挨拶の場に臨席することになり、上座のそばに弥皐(やたか)と並んで臨んだ。ほかには、叔父の貴瑳(きさ)と叔母の立花姫もその場にいる。
 準備に少々手間取っているらしい煌姫を待つあいだ、弥皐は冴弓に語りかけてきた。

弥皐

先ほど少し顔を見てきたが、十年前からすっかり大人になって見違えてしまった。冴弓、煌の見目のことならばとりあえず安心していいぞ

 胡坐をかいて寛いだ様子で弥皐は言い、直後、「ただし」と声音を一段落とした。手で弄んでいた檜扇を口元へ翳し、冴弓の耳元へ顔を寄せる。

弥皐

煌は十九でおまえより年上だ。しかもあの様子では……おまえにはなかなか手強い相手かもしれんな

 くくく、と冴弓の耳元で喉を鳴らして笑う。冴弓は不安げに弥皐を見返したが、彼はおかしそうに笑うばかりで、なにも語ろうとはしない。どういうことかと問い質そうとしたところで、先んじて煌姫の到着を告げる先触れがやってきた。話はここまでとすかさず姿勢を正した弥皐に倣って、冴弓も前へ向き直る。最後に横目でちらりと兄の横顔を窺うと、同じくこちらを横目に見ていた弥皐と思いがけず目があった。どうやら冴弓の態度が面白くて仕方ないらしく、口の端が釣り上がっている。
 そのとき冴弓の耳に蘇ったのは、以前、鞆が弥皐と彼の妹を評して言っていた言葉だった。傲岸不遜で人を食った奴。
「煌姫さまが参られました」
 部屋の外から声が上がる。冴弓はそっと息を呑み、入り口を注視した。
 そこに現れたのは、光り輝くがごとく美しい姫だった。
 まるでこの世のものとは思えない。絵にかいたようなはっきりした目鼻立ちは艶やかでもあり愛らしくもある。結い上げた髪は黒い絹糸の風合いを帯びる。立ち姿は匂い立つ花のようで、纏う鮮やかな着物でさえ霞むような神秘的な雰囲気を醸し出していた。
 衣擦れの音とともにしずしずと入室した煌姫は、王の前に膝を付き、簡潔に挨拶を述べた。それから順に、居並ぶ者たちを見回す。

煌姫

お久しゅうございます、父上、叔父上、叔母上。兄上、それから……

 煌姫が冴弓のほうへ向きなおる。完璧な均整を持った美貌が淡く綻んで、人懐っこそうな笑みを形づくる。

煌姫

お初お目にかかります、冴弓さま。煌と申します。どうぞよろしくお願い致します

冴弓

こ、こちらこそ……

 冴弓はどうにか平静を保とうとしたが、緊張を抑えきれず声が変にうわずってしまった。それに気づいたか気づかなかったか、煌姫は愛らしい笑みのままわずかに首を傾げて見せ、それからすぐに身体を正面へと戻してしまった。
 美しい姫だ。さながら、天女が人に化身したかのように光を振りまいて、周囲を圧倒する。ここに集う者たちは皆、彼女の身内だというのに、そのなかでさえ彼女はどこまでも浮き立つほどの存在だった。
 煌姫は、王や立花姫の矢継ぎ早な質問攻めに答えつつ、時折彼女のほうからも質問を差し挟んで楽しげに会話をしていた。そして話は弥皐のもとへ至る。

煌姫

兄上のご活躍は斎宮の奥にまで届いておりましたわ。微力ながら、いつも兄上のご武運をお祈りしておりました

弥皐

それは嬉しいな。今ここにいられるのも、おまえのお陰というわけだ。どうか次の戦いの折にも、おまえの力を貸してくれ

煌姫

はい、必ず。

煌姫

……でも、また戦に出てしまわれるのですね。お次はいつ出立なさるんですか?

弥皐

煌の顔も見られたし、あと三日のうちには発つつもりだ

煌姫

まあ!

 煌姫は媚びるように弥皐を上目遣いに見た。

煌姫

せっかく久しぶりにお会いできましたのに、またすぐ離れ離れになってしまうなんて……煌は寂しゅうございます……

 煌姫は憐れっぽい声に加え、甘えるような上目遣い弥皐を見る。弥皐は「煌は相変わらず寂しがり屋だな」と笑った。

弥皐

だが、おまえには冴弓がいる。武術の腕ならわたしの勝ちだが、歴史や文学なら冴弓はわたしよりよっぽど話ができる。きっとおまえとも話が合うだろう

 話を冴弓のほうへ振り向けられた瞬間、煌姫が唇を尖らせたのが見えた。しかし煌姫はすぐさま檜扇で口元を覆い、冴弓のほうを見てにこりと笑った。

煌姫

それは楽しみですわ。またゆっくりとお話をお聞かせいただけますか、冴弓さま

冴弓

勿論です

 今度はしっかりと言えた、と冴弓は思ったが、煌姫はまたもや首を傾げる仕種をして、これ以上話題を続けようとはしなかった。どうやら彼女は、興味のない話題には首を傾げて愛想笑いをする癖があるらしい。それに気付いた冴弓は、急に居たたまれない気分になった。政略的な結婚だとは理解しているが、こうも相手にされないのは身にこたえる。
 その後、煌姫の長旅の疲れを気遣った立花姫の言葉によってこの場をお開きになった。

   〇   〇   〇

 この三日後、宣言通り、弥皐は遠征のために都を発つこととなった。煌姫を迎える宴と、弥皐を送り出す宴が立て続けに催され、二人の兄妹の再会の時は足早に駆け去っていった。
 弥皐を送り出せば、次に待つのは冴弓と煌姫の婚約の儀である。といっても、同じ一つの王家の王子と王女の婚約ということで、あまり仰々しく行う必要はないだろうということになり、予定をわずかに早めて十日後に行うことが定められた。
 ところが、ここにきて煌姫がこれに難色を示した。婚約の儀の日取りを遅めてほしいという内容の文が、立花姫と冴弓のもとにそれぞれ届いたのだ。
 冴弓はそんな煌姫を説得するため、幾度か彼女を訪れた。しかし、煌姫は冴弓を決して拒みはしないものの、冴弓が幾度説いても、最終的にはいつも話を煙に巻いて中途半端に終わらせてしまう。
 一方、大内(おおうち)中では、煌姫を「わがまま姫」と呼ぶ声が密やかに広まり、彼女の噂は「天女のように美しい姫」から、「美人だが厄介極まりないわがまま姫」と語られるようになっていた。

 その日は、冴弓の訪れる時間にたまたま煌姫が不在にしており、出直そうか迷ったところを「間もなく戻られますから」と女官たちに引き止められた。
 冴弓はふと思って、煌姫の女官たちが自らのご主人をどう思っているかを訊ねてみた。「わがまま姫」と名のとおる煌姫をもっとも知る人たちだ。彼女たちなら、なにか冴弓の助けとなる情報を持っているかもしれない。
 すると、女官たちはしばしお互いの顔を黙って見交わし、やがて一人が口を開く。

女官

「わがまま姫」のお噂は、殿方や、姫さまを知らぬ者たちが撒いているものですわ。姫さまは殿方には厳しくていらっしゃいますから。でも、当然ですわよね。既にご結婚を控えられた姫さまが、冴弓さま以外の殿方に靡くはずがございませんもの

冴弓

わたしも靡かれているとは思えないですが……

 遠慮がちに言った冴弓の言葉に、女官たちは再び無言で互いを見交わし、誰からともなくくすくすと笑った。

女官

だってそれは冴弓さまが……

 なにかを言おうとした女官の声に、遠くから「煌姫さまのお戻りです」と呼ばわる別な声が被さった。女官たちは一斉に談笑をやめて、冴弓の傍を離れて入り口の近くに並んで座り直す。直後、煌姫が部屋の入り口に立った。

女官

おかえりなさいませ、煌姫さま

 女官たちが声と動作を揃えて深々と礼をする。煌姫は、部屋の真ん中にぽつんと取り残された冴弓を見て、微笑んだ。

煌姫

ご無礼を致しました。お待たせしてしまいましたわね。

冴弓

いいえ、わたしも無理に押しかけていますから……。忙しないようでしたら出直しましょう

煌姫

まあ! せっかくおいでいただいたのですから、ゆるりとされてくださいませ。またいつものとおり、お話を致しましょう

 いつものとおり、という言葉に皮肉が込められているのは明白だった。天女のような笑みも、冴弓にとって今や意地悪な企みを裏に秘めているようにしか見えない。今日はどんな一手で始めましょうか?とその目が問いかけている。
 煌姫が冴弓の隣に座った。彼女はいつも対面を選ばす、触れ合うほど近くに座って、顔を寄せて話そうとする。冴弓はそれが苦手でいつも身を引いてしまうのだ。
 煌姫の美しさは太陽のように眩しい。それは、みだりに近付くことを許さない孤高の輝きのようで、その輝きに魅せられることは、思慕よりも畏敬に近い。それがきっと、彼女の美しさの正体だ。
 冴弓は、引き下がろうとする本能を押し留めつつ、彼女へ向かって始まりの一声を告げた。

冴弓

あなたの「煌々(きらら)」という愛称は、兄上が初めに呼ばれた名だそうですね

 煌姫は一瞬虚を突かれたようにきょとんとして、それから、くすりと口元だけを綻ばせた。

煌姫

ええ、愛らしい響きがするからと。わたしは今も煌々と呼ばれるほうが好きですわ

煌姫

……煌、なんてありきたりな名前ですのよ。過去にいったい何人の姫がそう呼ばれてきたか……。ありがちな名前というのは、型に嵌められているようで窮屈です

冴弓

窮屈、ですか?

煌姫

はい。当たり前の女として、当たり前に生きよ、と自分の名に言われているような気がして……

 そう語る煌姫の表情は、今までになく真剣だった。しかしそれもすぐに、愛らしい微笑に覆われてしまう。彼女の笑顔は、本心を隠す仮面だ。
 冴弓は彼女へ問うてみた。

冴弓

煌々は、どのように生きたいのですか?

 煌姫は寸分も表情を変えずに即答した。

煌姫

良い妻になり、良い母になることです

 予め答えを用意していたのは明白で、冴弓はそれを煌姫の本心だとは思わなかった。重ねて問いかける。

冴弓

もし、妻や母となる以外になれるものがあるとしたら、あなたはそれをを望みますか?

 その問いに、煌姫は口元を曖昧に歪ませせた。

煌姫

さあ……。昔はあれこれ考えていたように思いますが……この十年で忘れてしまいましたわ。だって、女の身で己の生き方を考えるなんて、はしたないことなのでしょう?

 冴弓はそのとき、捉えどころのなかった彼女の姿に、ようやく輪郭を見たような気がした。煌姫のことを「頭が良すぎた」と評した鞆や、「弟であれば……」とと語った弥皐の言葉が脳裏をよぎる。

冴弓

そう考える者が多いというだけのことでしょう。わたしはそうは思いませんよ

 煌姫の顔から微笑が消え、心底驚いたような目が冴弓を見た。慰めるように、励ますように冴弓は言う。

冴弓

今もまだ、煌々がこう生きたいと望む心があるのなら、どうか諦めずにいてください

煌姫

冴弓さま……

冴弓

わたしも身近に一人、そんな女性を知っています。女でも身を立てられると証明するために、とても健気に、ひたむきに努力をしている方です

 煌姫と紫野は、見目はまったく異なるが、本質では似ているのかもしれない。冴弓の目に不意に二人の姿が重なって見える。
 しかし、冴弓の言葉を受けた煌姫は、一瞬のうちに表情が冷ややかに凍り付いた。冴弓へ寄せていた身体を離し、ふいと外の景色へ目を移してしまう。何気なく空のさま子を窺った煌姫が、思い出したように言った。

煌姫

そういえば、明日の夜は満月でしたわね。ねえ、冴弓さま。わたし、月下におられる月の王子さまを拝見してみたいわ。明日の宵に、またいらしてくださらないかしら?

冴弓

月見の宴ですか。それは風流でよろしいですね

煌姫

いいえ、宴は致しませんわ。月を愛でるのに、皆で酒を飲んで騒ぐなど無粋ですもの。それにわたしは月ではなく、冴弓さまを見たいのです

 わかってくださいますか、と煌姫は念を押すように付け足した。そう語る彼女の表情は、常にあるような悪戯っぽさは微塵もなく、冴弓の内心を推し図ろうとするかのように、細くすがめられていた。

おためし版「創月紀 ~ツクヨミ異聞~」3巻より

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