冴弓

……っ!

 目が覚めると同時に飛び起きて、殴られたような激しい頭痛に思わず喉の奥から呻き声が漏れた。目を開けていられない痛みをどうにかやり過ごそうと、頭を抱える両手に力が籠もる。

弥皐

……おい、大丈夫か?

 頭上から男の声がした。間近にしゃがみ込む気配がして、誰かの手が冴弓の手に添えられる。冴弓(さゆ)の手をすっぽり包むほどに大きく、固い皮膚をした掌だ。

弥皐

急に起きたから頭がびっくりしているんだ。すぐに治まる

 その言葉通り、痛みは訪れたときと同じようにあっという間に引いていった。それから呼吸をたっぷりと三つ数え、冴弓は閉じていた目をそっと開けた。

弥皐

ほら、こっちが見えるか?

 また声がした。それに釣られて顔を上向けると、優しげな笑みを形作った黒瞳と目が合った。

弥皐

さっきは痛い目に合わせてすまなかった。まさか突然振り返るとは思わなかったんだ

 大丈夫か、と、男は冴弓の額を撫でる。冴弓はその顔をただじっと見つめた。
 精悍な顔立ちをした若者だった。冴弓からすれば立派な大人なのだが、笑った顔はどこか子供っぽく屈託がない。質の良さそうな白い衣を纏い、頭頂近くで結い上げた髪は乱れがほとんどない。この場に不釣り合いなほど、彼の姿は整っていた。

弥皐

脅しのつもりだったのに、眉間をまともに打ってしまった。変に痛むところはないか? 目は見えているようだが……どうした?

 冴弓は瞬きも忘れて男の顔を見ていた。初めて見た相手のはずなのに、不思議とどこかで見たような気がしたのだ。それが誰であったのか、冴弓は懸命に思い出そうとするが、なかなか記憶から拾い上げることができない。
 反応のない冴弓に、男の顔から笑みが消える。そして、不安そうに冴弓の目を覗き込んできた。

弥皐

やはりまだどこか良くないか? 力の加減はしていたつもりだが、子供には強すぎたか……

 その手が冴弓の頬に触れそうなって、ようやく冴弓は我を取り戻した。伸ばされた手から逃れようと咄嗟に後ずさる。
 誰の似姿なのかを思い出したのではなかった。思い出したのは、気を失う前の出来事のほうだ。馬を連れ、武装をした不審な男たち。目の前の男も、衣の上から胸当てや籠手を身に付けていることに気付いた。この人は……。

冴弓

(里へ戻らなければ……!)

 冴弓はぱっと身を翻し、一目散に駆け出した。駆け出そうとした。

弥皐

行ってはだめだ

 男の動きは冴弓よりも早かった。冴弓が一歩を踏み出すよりも早く、後ろから腕が伸びて冴弓の胴を捕らえる。たった片腕に止められただけなのに、冴弓はその場から少しも動くことができなかった。
 冴弓の胸に、悪い予感が広がった。それを振り払うように、手足を闇雲にばたつかせて暴れてみるが、捕らえた腕はびくともしない。それでも振り上げた手の先が何度か背後の男の顔や頭を打ったらしく、そのたびに背後から「いてっ」やら「やめろ!」やら、短い呻き声が上がった。

弥皐

おとなしくしていろ。おまえに危害は加えない

 聞こえた男の声は、どこか懇願するような声音だった。
 男は冴弓を捕らえて離さないものの、力ずくで黙らせようとは決してしなかった。宥める言葉を幾通りも口にして、冴弓をその場に必死に繋ぎ留めようとする。
 結局、力比べに負けたのは冴弓のほうだった。暴れ倒すだけの体力はあっという間に尽きて、とうとう地面に尻餅をついた。息が上がり、どっと汗が噴き出す。心の臓が飛び出さんばかりの激しさで脈打っていた。
 これでは、たとえ腕の戒めから逃れても、走ることさえままならない。男もそう断じたのか、彼は冴弓の胴に巻き付けていた腕をようやく離した。そして、自分も冴弓の隣に腰を下ろす。

弥皐

ははは。さすがは野で育った子供だ。威勢がいい。わたしもさすがに疲れた

 冴弓の心を知ってか知らずか、男は朗らかに笑う。疲れた、という言葉とは裏腹に、息は少しも乱れておらず、ちらりと盗み見た横顔には汗の一滴すら浮かんではいなかった。ただ、冴弓が傷つけたのだろう、細いみみず腫れが一条(ひとすじ)、頬に赤く浮き上がっていた。
 なにが愉快なのか、男はひとしきり笑い、それから表情を引き締めて冴弓を見た。

弥皐

そんなに怖い顔をするな。さっきも言ったが、おまえには危害を加えない

 冴弓は、この男の顔をよっぽど傷付けてやりたかった。男は冴弓のそんな抵抗をあっさりと封じるだろうか。もしかしたら、甘んじて受けるかもしれない。だが、冴弓の予想したその両方とも、冴弓の心を晴らすとは思えない。闇雲に抵抗するより、おとなしく逃れる機を窺おうと、冴弓は衝動を飲み込んだ。

弥皐

ここでしばらく待つんだ

 男が言う。
 冴弓は、空がすでに暮れかかっているのが気にかかった。このまま夜が来たらどうしよう。森の夜道なんて歩いたことはないのに。

弥皐

おまえ、名前はなんというんだ?

冴弓

名前……

 なぜ今そんな悠長なことを訊くのか、と冴弓は首を傾げた。

弥皐

名前くらい持っているだろう? それとも、わたしから名乗るべきか

 この人は一体なんなんだ。こんなどうでも良い話をするために冴弓を捕まえたわけではないだろうに。

冴弓

どうして……

 疑問が、自然と口から漏れていた。一言を捻り出してしまえば、胸に湧き上がっていた恐怖も混乱も少し薄らいだ。冴弓は改めて、男の顔を正面から見据えた。
 疑問は幾つもあったから、手当たり次第に一つ拾い上げて口にしてみる。

冴弓

どうして、僕の居場所が分かった?

 男の姿はとても目立つ。そしてその姿は、先ほどの集団にはなかったのだ。となれば彼は、冴弓が気付くよりも先に、冴弓のことに気が付いていて、それで背後から冴弓に近付いたのかもしれない。けれど、冴弓にはどうしてそんなことができたのか、まるで分からなかった。
 冴弓は森のことをよく知っている。上手く隠れる方法だって誰よりもよく心得ているし、さっきだって決して注意を怠ったわけでない。足音を殺して動き、近づきすぎない場所を選んで身を潜めた。風向きだって考えた。それが、まさかよそから来た者に後ろを取られるなんて。
 男はしばし、悩むように虚空へ目をやった。

弥皐

ああ、それなら……そうだな……。なんというか、わたしがおまえのことを探していたから、おまえの居所がなんとなく分かったんだ

 わけのわからない説明をして、それから男は改まった声で言った。

弥皐

おまえは月の王子(みこ)だな。秋鹿(あいか)殿の子の

 冴弓は、その瞬間に息をすることを忘れてしまった。男の真剣な様相に気圧(けお)されたのもあるし、彼が冴弓の父を知っていることになにより驚いた。
 秋鹿というのは、確かに冴弓の父の名だ。

冴弓

月の王子

のほうは冴弓には意味がわからなかったが、彼は冴弓のことも知っているということだろうか。

弥皐

なるほど、みすぼらしい形(なり)だが光輝がある。血筋というのは容易にごまかせないのだな

 冴弓は次第に怖くなった。先ほど、思い出そうとしても思い出せなかった男の似姿が、記憶の底から独りでに起き上がってこようとしている。ただしそれは冴弓の記憶ではない。冴弓の身の裡にある、冴弓ではない何者かの記憶だった。

弥皐

月の王子よ、そなたの名はなんだ?

 冴弓にはそのときもう、目の前の男の顔は見えていなかった。目を見開いているはずなのに、視界に広がるのは別な光景だった。
 強烈な日差しを背に負い、長い髪が金色に縁取られている。逆光になった顔ははっきりとは見ることができない。男の顔に似ているような気がするが、丸みのある輪郭や首の細さは男ではない、女のもののように見える。
 後光によって黒々と塗り潰された女の細い腕が振り上げられた。腕の先、逆手(さかて)に握られているのは、その腕には不釣り合いに大きな、両刃の剣(つるぎ)。
 その切っ先が、まっすぐに冴弓へと振り下ろされた。

冴弓

あああああああああっ!!

 冴弓は叫んだ。殺されてしまう! いや、もう殺されてしまった? 自分の力で均衡を保てなくなった身体が後ろへ傾ぎ、耳にざざんっと水のしぶく音がした。

弥皐

おい! しっかりしろ!

 頭上から男の慌てた声が降ってくる。しかし、冴弓にはそれが意味のある言葉だと分からない。

弥皐

気をしっかり持て! おまえは死んでいない! すべて幻だ!

 後頭部に男の手が差し込まれ、ゆっくりと抱き起こされる。そこで初めて、冴弓は自分が草叢に倒れ込んだのだと気づいた。身体にはなにも刺さった様子はないし、今しがた見た女の姿などどこにもない。見慣れた緑色の森が広がっているだけだった。
 支える腕に揺さぶられて、冴弓はようやく幻から引き戻される。頭がくらくらして、胸から喉元にかけてもやもやとした不快感があった。
 そのとき、膜のかかったようにぼやけた聴覚に、遠くから声が聞こえた。

王子! 先ほどの叫び声は……

 低くせっぱ詰まった声が、二人のもとへ届いた。続いていくつもの足音が迫ってくる。冴弓の頭上から、男が鋭い声で言った。

弥皐

止まれ! 近づくな! 寂(じゃく)っ!

 男の一喝に、近づく足音はすぐさま従いその場に踏み留まった。本当に、すぐにだ。それでも冴弓には手遅れだった。
 近づく足音は匂いを纏っていた。さまざまなものが焦げたような匂いと、鉄錆に似たすさまじい悪臭だ。幻を見て弱り切っていた冴弓には、あまりに強すぎる匂いだった。それを、そうと分からぬまま、まともに吸ってしまったのだからひとたまりもない。
 腹の中すべてが一気にひっくり返されるような妙な感覚がして、次いで頭が真っ白になった。そのあとのことは、もうなに一つ覚えてなどいられなかった。

○   ○   ○

弥皐

ほら、水だ。一度目は口に含めて吐き出せ。それからゆっくりと飲み込むんだ

 口元にあてがわれた筒から冷たい水が口にゆっくり入ってくる。冴弓は言われるまま、一度目で口をすすぎ、二度目をゆっくり飲み込んだ。
 男は、冴弓が水を飲み切ってから、ゆっくりと冴弓の身体を木にもたれさせた。投げ出した手足へと感覚が戻るまで、冴弓はしばらく目を瞑って深呼吸を重ねなければならなかった。

王子、面目もございません……

 別な、野太い男の声が言った。
 王子と呼ばれた男は、憮然とした声で答える。

弥皐

良い。悪い偶然が重なっただけだ。それより、急ぎ森を出るぞ。詳しい話は落ち着いてから聞こう

はっ!

 それから、男が冴弓の肩を軽く叩いた。

弥皐

すこし場所を移す。背負って行くから、また気分が悪くなったら、足でわたしの腿を叩け。いいな?

 言って男は、冴弓の片腕を取り、懐へ入り込んで軽々と冴弓を背負い上げた。

いけません王子! ここはわたしが……

弥皐

駄目だ、寂。おまえはできるだけわたしの風下を行け。……まったく、いったいどうすればそれほどの血を浴びるのだ

これは……、あいすみませぬ……

 寂というのは、この野太い声の男のことかと、冴弓は背負われながらぼんやりと考えて、それからしばらく揺られるうちに、ふぅっと眠ってしまった。


   〇   〇   〇


王子、さすがにお疲れでしょう。静(じょう)、子供を肩代わりして差し上げろ

弥皐

良い、構うな、寂

 寂は熊のような巨体を持つ大男だが、いかんせん肝が小さい。いざ戦場となればいの一番敵を蹴散らす猛者だというのに、常にあってはいつも心配事ばかりをぐちぐちと呟く。

ならばせめて馬にお乗りください

弥皐

馬はすでに荷を背負っているではないか

 男はにべもなく突っぱねる。風下にあたる斜め前を歩きながら、寂は肩を落とし背を丸めた。

弥皐

案ずるな。こんな小さな子供一人、わたしの肩で十分背負っていける

王子……

 王子と呼ばれる男は、その名を弥皐(やたか)という。齢(よわい)は十九。大男の寂と比べれば見劣りこそするが、均整の取れた身体は、武人として恥ずかしくない程度に鍛えられている。白い衣に漆黒色の軽鎧を身に付け、飾り気のない鞘の太刀を帯びている。髪は簪でもって頭頂でまとめていた。

王子、お一つ先にお耳に入れておきたい由がございます

弥皐

なんだ、静。申してみろ

はっ。……もう一人の月の王子ですが、どうやら母と共に数年前に里を出ているようです。圭国(けい)との国境(くにざかい)あたりへ向かったらしいのですが、詳しい行き先は里の者は誰一人知らぬようでした

弥皐

秋鹿殿を除いて、だな

はっ

 静は、寂とは対面となる弥皐の右後ろを付かず離れずの距離で従ってきている。彼も少なからず血を浴びているので、自ら身を引いているのだ。

弥皐

おそらく、その片割れの王子を斎主として遣わしたのだろう。「月の社」は西の果てにあると聞く。陽(ひ)の世になってからは、どこぞに姿を隠しているはずだ

……いかがなさいます?

弥皐

探し出す

 弥皐は間髪を入れず答えた。

弥皐

たとえ幾度と逃げ隠れしようが、見つけ出して我が手の内に置く。必ずだ

御意

御意

 弥皐の腹心たる二人の軍人は、声を揃えて答えた。

おためし版「創月紀 ~ツクヨミ異聞~」1巻より

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