白銀世界の大地は不確かで、ふとすると踏み外して落ちてしまいそうになる。そうならない為には、雪が溶けている時期に何度か山を登り、地形を覚えている必要がある。

 それが、私の持論だった。案の定、辺り一面真っ白で、起伏も段差も分からない状態になっている。

 雪が積もっているだけで、下は崖だったら。足を踏み外して落ちてしまう可能性もある。雪山は、景観以上に危険な場所だ。

 なのに。

そこ真っ直ぐ行かないでください、左!! 左だってば!!

何っ!? こっちから行った方が速いじゃねえか!!

斜面に見えるけど、ただの壁ですから!! 登れないんですよ!!


 登るスピードは目を見張るものがあるけれど、この人は。

 とにかく最短距離を行こうとしているのはよく分かるけれど、強引過ぎてちょっと付いて行けない。道無き道を歩こうとしている時もあれば、大きな岩を登ろうとしている瞬間もあった。

そう、そっち!! そこ、切り株があるので気をつけてください!!

おっと……おい、ここ出っ張ってるから気を付けろ!!

今、私が切り株だって言ったでしょ!?


 山には登り慣れているのかもしれない。でも、雪山を同じ感覚で登ろうとしている。……恐らく、そんな所なのだろう。

 ……やっぱり、付いて行けない。北部の救助隊は、今回彼等がここに来る事について、どのように考えていたのだろうか。

 この様子じゃ、やっぱり残りの救助隊も、危険な事になっていてもおかしくはない、か。

ところで、先の遭難者はやっぱり、頂上を目指して行ったのか?


 でも、やっぱり体力は一般人とは全然違う。

 私が息を切らしてどうにか付いて行っている状況だというのに、この人は汗一つかいている様子がない。膝まで雪に埋まる状況で、かつ足場の悪い階段を延々と登っているようなものなのに。

 道は悪い。雪が降り続く事なんて、ノルマンスィの街ではよくある事だけれど。こんなに雪が積もった山には、登った事が無かった。

おい、姉ちゃん。大丈夫か

…………大丈夫です。お気になさらず


 考えてみれば、当たり前だったのに。

 オーロラなんて、晴れた日に見るもので。吹雪になってしまったら、基本的にはすぐに山を降りていたのだ。

 この状況では、写真家の人達が帰れなくなってしまった事も頷けるし、救助隊が戻って来ない事もまた、容易に理解できる。



 雪雲が、思ったより分厚い。



 きっと、写真家の人達は吹雪に呑まれて、身動きが取れなくなってしまったのだろう。

 もしも今、生きているとすれば。それはどこかの洞窟か、雪を固めて空洞を作って、そこに避難しているか、どちらかではないか。

 後者は吹雪の中、あっさりと出来るとも思えない。……なら、洞窟では。

 そう、思った時だった。

きゃっ――――――――!!


 視界が、反転した。

 足を踏み外したのだと気付いた時には、私は落下していた。

 身体が宙に浮く一瞬の気持ちの悪さが全身を駆け巡り、頭を下にして辺り一面の銀世界を視界いっぱいに捉えた――――…………

 …………が、その勢いは無理矢理に、何者かによって停止させられた。

 左足首の辺りに抜けるような痛みが走り、私はその左足首を支点にして、ぶらぶらと空中を漂っていた。

おい、大丈夫か!!


 朦朧とする意識をどうにか覚醒させて、私は私の足首を掴んでいる――――彼を見る。ちょうど私が足を踏み外した時に落下した大玉の雪が、銀世界に衝突してその一部となった瞬間。

 私は初めて、胃の奥の方から根こそぎ持って行かれるような恐怖と、寒気を感じていた。

 強引に、再び地上へと引っ張り上げられる。リュックが樹の枝に引っ掻かれたけれど、私はそのまま再び、元歩いていた地上へと帰って来た。

 ゴーハさんは雪を掻き分けると、私が座れるだけのスペースを作ってくれた。

 私は呆然と、その場にへたり込んだ。

惜しかったな。足一歩分、内側だった


 私が踏み外した場所を見て、そう言ったのだろう。

立てるか?


 意識が自分の下に帰って来ると、ようやく、私は自分が足を踏み外す原因となった場所を見やっていた。……樹の枝が盛り上がり、雪を支えるだけの足場を作っていたらしい。

 当然、人の体重を支えるには、遥かに弱い。雪にとっての、ささやかな足場だった。

 登山用の装備は頑丈で、樹の枝も私を傷付けるには至っていない。

足を捻ったか。歩けそうにないな


 私の左足は、転倒した時の衝撃と、ゴーハさんに掴まれ、その足首で体重を支えた事で、言う事を聞かなくなっていた。

 しかし私は、足首の痛みなどよりも、何よりも自分自身に、ショックを受けていた。

…………ごめんなさい


 雪山には、慣れていたのに。……ノルマンスィの山なら、殆ど全ての道を覚えているのに。

 誰よりも、この雪山に詳しいつもりでいた。そこいらの訓練を受けた救助隊よりも、身軽に動ける自信があった。

 だが、だからこそ、そんな自信は、過信でしかない。

 現実には、足手まといを一人、増やしただけじゃないか。

誰にでもあることだ。気にするな


 ゴーハさんはそう言うと、私を背負う。二の腕は大きく、背負われていると言うよりは担がれているような格好だった。



 死ぬところだった。



 私は、助けられたのだ。



 本当に一人で雪山を登るつもりなのかと、心配で心配で仕方がなかった、この人に。

さて、と。結構上まで登って来たから、そろそろ本格的に探さないとな


 それは、たまらなく悔しい。

…………洞窟

おう?


 私の掠れたような小さな言葉にも、注意深く反応する。

もし生きているとしたら、たぶん洞窟の中か何かじゃないかと思って。この辺りで洞窟のある場所なんて限られているから、そこじゃないかって

……場所は分かるか?


 私が頷くと、ゴーハさんは少しだけ驚いたような顔をして――――静かに、頷いた。


 ○


 ゴーハさんの足取りは力強く、途中で足を止める様子は少しも感じられなかった。

 担ぎ上げられて足下を見るようになって、初めて気付いた事があった。

 ゴーハさんは一見無鉄砲に進んでいるように見えて、実は雪の下に足場がある事を確認しながら進んでいた、ということだった。

 ただ、あまりに確認が速過ぎて、無鉄砲に進んでいるだけのように見えていた。

 地形を確信して足を踏み外した私よりも、それは遥かに慎重な方法だった。

そういや姉ちゃん、どうしてアンタは救助隊を無視してでも、自分で行こうと思ったんだ


 私はすっかり、覇気を無くしてしまっていた。

――――写真家の人達が、良い人で。ノルマンスィの山が綺麗な事を、とても良く理解してくれていたから……


 大体、観光客と言えば記念に来る人が殆どで、よく晴れた日に、ツアーなどで来る人ばかりだ。

 でも、私は知っていた。ノルマンスィの『クレスィーヴ』は、今にも吹雪になりそうな程に寒い日で、かつそれでも晴れている日が、最も美しいのだ。

 どうしてそんな日だと綺麗に見えるのか、細かい理由は分からないけれど、この山はそうだった。そんなこと、どこの本にも書いていないし、調べたって見付かりはしない。

 ――――遭難の危機に遭ってまで、写真に収めたかったモノ。

 あの人達は、それを知っていた。だから、こんな雪の降るような日に集合して、山を登ろうと決意したのだ。

 現地の住民でさえ、山をよく知っている人間でしか知らないような事を、彼等は。

そうか。……それじゃあ、頑張らないとな


 ゴーハさんは、そう言って、普通なら笑う所を、特に表情を変えること無く、仏頂面のままでいたけれど。

 少しだけ、その語調は穏やかなものになっているように感じた。

でも、結局怪我なんてして、迷惑を掛けて……ごめんなさい。本当に私、思い上がりでした


 私はその言葉を自分で呟いて、余計に自分自身への信頼を失っていたけれど。

 そして――――…………

あ、あれです!! あれ!!


 気付いて、ゴーハさんの肩を叩く。

 見付けた洞窟は半分以上、雪に埋まってしまっていた。だけど、山の窪みの更に奥に、小さな明かりが見えた。

 洞窟の中から明かりが漏れる事なんて、自然現象ではそうある事じゃない。確信を持った私は、指をさしてゴーハさんに指示を出した。ゴーハさんは私の言っている事が分からなかったのか、難しそうに首を傾げていた。

どれだ?

ほら、一番向こう側の!! ちょっと、雪に穴が空いてるようなの!! 光が漏れてる!!

…………とにかく、あっちに行きゃ良いんだな?


 分からなかったらしい。でも、ゴーハさんは走り出した。

 雪山で走るなんて、とは思ったけれど、見た目と性格の大雑把さとは裏腹に、彼は慎重だった。足下に気を使い、私にも気を遣っていた。

 未だ左足が痛む私にとって、それはとてもありがたい事だった。

姉ちゃん、よく見えるもんだな。辺り一面、雪しかねえのに

暖かい日には、よく集まっていたから。……雪が無い時は、目立つんです


 ゴーハさんは悪戯っ子のような笑顔を浮かべて、ただ一点を見据えていた。

もし本当に迷惑だと思っていたら、殴ってでも街に置いて来たさ

え――――…………

あれか


 空洞の見える場所まで走ると、ゴーハさんは雪を掴んだ。その向こう側に向かって、声を張り上げる。

おーい!! 誰か、中に居るのか!?


 すると中から、人の声が聞こえてきた。

ゴーハ!?

ゴーハだ!!

なんだ、お前等かよ……遭難者はいるか!?

ああ、ここにいる!!

早く、ここから出してやってくれ!!

ちっ……悪いが、ここに座っていてくれるか?


 どうやら写真家の人達と一緒に、ゴーハさんの仲間達も居たようだ。ゴーハさんは舌打ちをしたけれど怒ってはいない様子で、通気口になっている穴に手を突っ込んで、雪の上部をうまく固めた。

 唯一の穴が崩れないようにしてから、洞窟から出られるようにと、穴の下側の雪を掘り出した。

 奥からも、人が動き始める。

 ゴーハさんは遅れて来た。少なくとも、ノルマンスィに着いてから仲間と連絡は取れていない。にも関わらず、内から外から、まるでどこを掘れば邪魔にならないか初めから分かっているかのように、見事なチームワークだった。

 私はただそれを、眺めていた。

 辺り一面の銀世界に空いていた小さな穴は、やがて広がり、大きな穴へとなっていく。

 でも、私の不安は消えなかった。……隠れるならここしかないとは思ったけれど、この洞窟には入らない事が多かった。

 雪の溶けている時ならともかく、今は……問題があったはずだ。

…………岩か。雪に流されて転がって来たか?

いや、初めからあったらしい。入るのは良いが、出るのが大変なんだ。俺達は出られそうだが、遭難者は厳しくて……


 出入口の雪を掘っていくと、やがて大きな岩が道を阻んでいる事が分かった。救助隊の人達は中から入って、この岩を動かそうとしたのだろうか。

 随分と大きい、人の手で動かす事は難しそうな岩。

 だから、入らなかったのだ。雪が無い時に少し苦労して、入ろうとした事があった。内側は滑る岩で、登っている途中に戻れないと分かり、無理はしなかった。

分かった。どいてろ


 ゴーハさんはそれだけを呟くと、私の用意した厚手の手袋を外した。

 何をする気なのだろう……と思っていたら、ゴーハさんは岩の右側に位置し、両手で岩を押すつもりのようだった。

 流れて来るような岩だとは思えない。……最初から、ここにあった岩だ。

 雪にも埋まっているし、とてもではないけれど、動くモノだとは思えない――――…………

…………うそ


 無言だった。ゴーハさんは無言のまま、大人一人分は楽に超える岩を、難なく……いや、勿論結構な力を加えているんだろうけれど……動かしていく。

 …………人間業じゃない。私は、唖然としてしまった。

 岩を動かした事で山の地肌が見え、やがてそれは、空洞へと続く広い出入口に変わった。

よっしゃ!!
流石、グループいちの馬鹿力!!

うるせえ


 内部から、歓声が上がった。……あっという間の、出来事だった。

 洞窟の中身が見えると、そこには沢山の人達がいた。ゴーハさんと同じ、救助隊の服を着た人達。私の旅館に泊まりに来た、写真家の人達。

 写真家の人達は、皆一様に青い顔をしていた。どうやら、体調があまり良くないらしい……それで、救助に手間取っていたのもあったのだろう。

遅かったじゃないか、ゴーハ……大変だったんだぞ、こっちは

悪いな、別の仕事が中々終わらなかったもんで

そちらの娘さんは? ……彼女も、遭難者?


 視線を向けられて、胸が痛くなった。写真家の人達は、私を発見して嬉しそうな顔をしているけれど。堪らず、俯いてしまう。

 人の話も聞かずに助けに出た挙句、怪我をして担がれて来たのでは。宿に居た方が、まだ幾らかマシというものだ――……

ああ。ノルマンスィの山に詳しいっぽかったから、道を聞いてたんだよ


 私は、顔を上げた。

なんだって!? お前はまた、勝手に民間人を巻き込んで……ごめんなさい、こいつちょっと偏屈な奴で。常識に合わせられないっていうか……


 ゴーハさんの仲間達は、苦笑して私に謝ってくる。

 そんな。無理を言って救助に参加したのは、私の方なのに。

おいっ!? ゴーハてめえ、このコ怪我してるじゃねえか!!

ああ? ……あーすまん、担いで来たからどっかでぶつけたかも

ざけんなこの野郎!! 救助隊が民間人を傷付けたら始末書じゃ済まねえかもしれねえんだぞ!?


 都合の悪いことは聞こえていないのか、それとも仕事に熱心なだけなのか。ゴーハさんは、洞窟の中を見回した。

一、二、三、四、五、六……二人掛かりなら、岩あっても外に出られただろ。六人の人間救助するのに、何で一週間も掛かってんだ

吹雪が強くなって、道が無くなったんだよ。地図見ても分からねえし……

ほら、俺の作戦が正解じゃねえか

悪かったよ!! でも、マジで第三者を傷付けるのだけはやめてくれ!!


 でも、どうしてだろう。

 皆、ゴーハさんを待っていたように思えた。彼を見た時の安心し切ったような顔と、その後の活き活きとした表情を見る。まるで、吹雪に遭って身動きが取れなくなった人とは思えないくらいに。



 ああ、そうか。



 彼等は、信頼しているんだ。時間は守らないし、言う事やる事滅茶苦茶だけど、この人が仕事はきっちりとやる人だということを。

 人を、助ける人なんだということを。

ソフィアちゃん……!! ありがとう、まさかこんな所まで助けに来てくれるなんて……!!

あ、いや、私は…………見付かって、良かったです


 すっとぼけた顔で、こんなに信頼されているなんて。結局、私は彼の仕事の為に、わざと泳がされただけか。

 でも、きっと仲間達が動けない状態にあることは、気付いていた。だから私が同行することに、途中から反対をしなくなったんだ。

 何かのトラブルに遭う事も想定内で、救助を続行していた。

 ずるい。

 漠然と、そんな事を考えてしまった。

…………あれが、『クレスィーヴ』か

え?


 ゴーハさんに言われて、私も視線を向ける。外は未だに吹雪だったけれど、遠く西の空に、晴れ間が見え始めていて。

 そこから見える『クレスィーヴ』に、目を奪われた。

 緑色や紫色の帯状の光が、雪雲の途切れた夜空に煌めいていた。……でも、いつもと違う。ゆったりと動き、虹のように様々な色に光るそれは、まるで幻想世界に訪れてしまったかのようで。

 こんなオーロラ、見たことない。

……ソフィアちゃん

おじさん


 宿で話した写真家のおじさんが、クレスィーヴを見て、驚いていた。

 ……そうか。吹雪いてはいるけれど、空気は澄んでいる。やがて雪は止み、この辺り一帯はオーロラで満ちるのだろう。

 吹雪いた分の、とびきり綺麗な、オーロラで。

綺麗ですね……

……そうだね。どうにかして写真に収めようと思ったけれど……これは、写真にできるものじゃあ無かったのかもしれない


 写真家のおじさんは残念そうに言っていたけれど、表情は裏腹に、満面の笑みで満ちていた。

 もしかしたらそれは、遭難を切り抜けた写真家の人達と、それを救助した私達に対する、クレスィーヴの祝福だったのかもしれない。


 ○


 結局、私の道案内と、ゴーハさんのスピードのお陰で、無事に全員が救助され、救助隊も戻って来る結果になった。

 私は民間人として唯一救助に参加した人間として、街の人達からは勇敢だと言われたけれど。救助隊の人達からしてみれば、またゴーハさんがやらかしたとの事で、処罰は免れられないらしい。

 でもまあ、そこは私が自発的に救助に参加したのだという事を分かって貰えれば、どうにかなるのではないだろうか。

 …………そして。

せめて自分の名前くらい、書けるようになって行ってください!! 宿取る時、いつもどうしてたんですか!?

いや、今までは俺が一人でチェックインって、あんまり無かったからさ……


 写真家の人達は、凝りもせずに後日、雪が止んでから再び登って、無事に写真を撮る事が出来たらしい。

 確かに、帰り際に見えたクレスィーヴは、おそらく私が今までに見た中で一番、綺麗なものだった。

覚えるまで、この宿から出しませんから

何だと!? 次の仕事に行かなきゃいけねえんだよ!!

駄目です。うちは直筆しか受け付けないんで


 突き放すようにそう言った私に、ゴーハさんは困ったように頭を掻いて、顰め面をしながら溜め息をついた。

 私はその様子を見て、思わず微笑んでしまった。

 どうにもこうにも、こうして、嵐のような写真家救助は終わった。


 その後、私が初めてノルマンスィの街を出て、旅行と称して南部地方のゴーハさんに会いに行くことを決めるのは、また別の話である。

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