心臓が、凍るような想いだった。

…………帰って、来ない……?


 私の住む北部地方の小さな街『ノルマンスィ』には、合計八つの背の高い山がある。

 その山頂は有名な観光スポットで、雪が降る寒い夜にだけ見られる、『クレスィーヴ』と呼ばれる現象が起こる……つまり、これはオーロラの事なのだけど……他の場所で見られるものよりも、圧倒的に綺麗なオーロラだと言われている為、そのような名前が付いていた。

 ノルマンスィの山は一年のうち殆どが雪雲に覆われていて、空気が澄むのはよく晴れた、本当に寒い日だけ。だから、皆寒い夜のよく晴れた日に観光に訪れる。


 クレスィーヴは到達した者にしか真の美しさは分からないと言われていて、数多くの写真家がどうにか写真に収めようと奮闘したけれど、何しろ夜空一面に現れるため、たかが何とかセンチメートルの小さな紙では、あの壮大な美しさは分からない、というのが大衆の意見だった。

 だが、これをどうにか記録に収めようという事で、他所の街から数名の写真家が奮起して巨大な写真機を持ち、大きな写真を撮りに行こう、と言い出したのが事の始まりだった。

救助隊が出たのが、もう七日も前の話なんでしょう!? ……それで、まだ帰って来ないの!?


 お父さんはどうにもならない苦い顔をして、私の言葉にただ頷くばかりだった。

 そもそも、写真家が戻って来ないという話になったのは、既に十四日も前の話なのだ。

 行って戻って来るのに最低で四日は掛かると考えたとしても、二週間も滞在できる食料を持っているのかと言えば、答はノーだろう。

 救助隊が出て七日も経つのに戻って来ないという事は、つまり彼等が発見出来ずにいるのか、それとも救助隊でさえも何かのトラブルに遭ってしまったが為に戻って来られないのか、どちらかしか考えられない。

 ノルマンスィの雪山で遭難する事は、他の山で遭難する事とは訳が違う。マイナス十度を楽に下回る極限の地域では、一日二日の予定違いが大事故に発展する事もある。

でも、救助隊の連中も一人、足りなかったみたいで。今日明日中には、到着すると聞いているんだが……

今日明日中って!! どういう事なの!?

いや、私にも分からないんだが……何でも、遅れているとかで……


 唖然としてしまった。

 救助隊のチームが欠けるなんて事態に、なる事があるんだろうか。普通、チームで動くんじゃ……私には、よく分からなかったけれど。

 救助隊が出てからもう七日も経っている。ということは、その人は今すぐに到着したとしても、七日は遅れてここに到着しているという事になる。

 七日も雪山で放置されれば、人は……そんな事って、あるんだろうか。雪山を舐めているとしか思えない。

どうしよう、私達も探しに行った方が良いんじゃ……


 救助隊がどの程度、雪山に慣れているのかは分からないけれど、少なくとも写真家は雪山に関して慣れているとは言えない雰囲気だった。

 ……それを考えると、私達住民はある程度、雪山に精通している部分がある。危険度という意味では、ただの人間が探しに出るよりも、少しは安全かもしれない。

 私はそのように考えたけれど、お父さんは黙って首を横に振った。

……吹雪が強いよ。こんな日は、我々だって山には行かない……
なあ、ソフィア。我々は山に登る事は出来るかもしれないが、救助に関しては素人だ。人ひとり背負って降りる事が難しいなら、迂闊に出るべきではない


 …………まあ、それはそうかもしれないけれど。

 このノルマンスィまで遥々歩いて来た写真家の人達は、旅慣れしていると語っていた……大柄な男の人達だ。私や、もう今年で六十になる父が山に行った所で、二人掛かりで一人背負えるかどうかという状況では、助けようも無いかもしれない。

でも、私達はノルマンスィの山の事については、誰よりも知っているでしょ? 背負えなくても、道案内くらい……

いや、色々な可能性を考えなければならないという事だよ。
確かにおまえは何度もクレスィーヴを見に行っているかもしれないが、過信は良くない


 それきり、私は黙るしか無くなってしまった。


 ○


 ノルマンスィの雪山で遭難者が出た事を、世間ではニュースとして取り扱うだろう。そうなった時、私達の街にも良くない事があるのではないか。例えば、客が来ないとか。

 だからではないけれど、せっかく『クレスィーヴ』を写真に撮ろうと頑張っている人達が山に登っているのだ。本当は私だって、彼等を手伝いたかった。

今日はまた一段と腐ってるねえ、ソフィアちゃん

いいえー。……マスターには分からない事ですよ


 外は吹雪だ。……でも、山の天気は変わりやすい。ここが雪だったとしても、山の上でも雪が降っているかどうかは、登ってみなければ分からない。

 私だって、ノルマンスィの山に登っている最中に、吹雪いて来た経験くらいはある。……ある程度の覚悟が無ければ、山には登れないのだから。

 お父さんはもう少し、私の事を信用してくれても良いのに。

例の遭難者、まだ救助されないんだって?

もー、そうなんですよ!! だから私、助けに行こうかと思って、友達も連れて……

はっはっは、頼もしいねえ。……でも、そういうのは救助隊の人に任せておけば良いんじゃないかな


 パブのマスターまで、今日はそんな事を言う。……私は顰め面になるに任せて、ただ酒をあおった。

大丈夫だよ。今となってはノルマンスィだって有名な街だし、山も登る人が多い。観光地になってから、遭難救助隊が救助出来なかったケースって、これまで無かっただろ?

それは、私達住民の道案内があったからで……! お父さんが山道を公開していなかったら、辿り着けなかった可能性もあるわけで!

でも、山道は公開された。なら、大丈夫だって


 多少、私も酔っているのかもしれない。

救助隊って言ったって、南部地方からの救助隊じゃないですか!! 雪に慣れてると思えないんですよ!!


 私がそう言うと、マスターは私のラム酒のジョッキを新しいものに入れ替えてから、言った。

なんだ、なんだ。いつもは救助隊の仕事に口出したりしないのに、今回は随分とお熱じゃないか


 私は思わず、目を背けてしまった。

何か、焦るような理由でもあるのかい?

……泊まりに来たんです、お父さんの旅館に


 写真家の人たちがここに来る手前、お父さんの運営している旅館に宿泊しに来た。その時、私は少し、その人達と話をした。

 とても、良い人達だった。ただの観光に来ている人達とは違った――……夢を持っていて、その為に来ているというのがよく分かった。

『あのオーロラを写真に収めるなら、普通のカメラじゃダメだ。もっと大きなものでないと』

『クレスィーヴ』の美しさについて、沢山話してくれました。……少し、嬉しかったから


 マスターは溜息をついたような笑い方をして、私に柔和な微笑みを浮かべた。

……まあ確かに、一週間何の連絡も来ないというのは、少し気になる所ではあるな


 ほら。やっぱり、誰だってそう思う。

 いつもは、北部地方から救助隊が来るのだ。彼等は雪山の経験が沢山あるから、そりゃあ探す場所も分かっていて救助もスムーズだし、被害者への負担も少ない。

 でも、今回だけはいつもの救助隊が別案件で来られなくなってしまったから、遠方から遥々別チームが来ることになってしまった。

 それが更に、私の不安を加速させる。

やっぱり、信用なりません!! 山の子でもない人間に、山岳救助だなんて!! 私達は一応、民間ではありますけど訓練を受けているんですから!!

まあまあ、ソフィアちゃん……


 その時、入口の方から大きな音がした。

 衝撃に身を竦める。マスターも食器を拭いている体勢のままで固まり、店内に居た数名の客人も出入口の方向を見ていた。

 人…………?

――――すまねえが


 それだけ呟いて、ずかずかと男は店内を歩いた。

 身長は二メートルを超えるだろうか……? かなり大きい。厚手の手袋と雪対策のブーツを履いていて、大柄だった。

 見た事がない人だ。だが、怒っている様子ではなかった。単に、がさつなだけなのだろうか。私の体格からは巨人にも見えてしまうようなその男は、カウンター越しにマスターに向かうと、言った。

この街の宿について、教えて欲しいんだが。空きはあるか

あー、えっと、それなら……


 マスターが言い淀んでいる。私はカウンターのテーブルを人差し指で叩いて、男の顔をこちらに向かせた。

うち、空いてますけど

おお、それなら良かった。いつ到着するか分からないもんで、電話も入れられんでな


 そのとき、ぴくり、と私の眉が反応した。

……もしかして、あなたが南部地方の救助隊の……


 男は少し驚いたような顔をして、私に言う。

おお、知ってたのか


 何も気にしていない。何も気にしない、無神経な表情。

 申し訳ないという感情が、欠片も感じられない。

……いや、やっぱり今のナシ。忘れて

はあ? ……いや、ちょっと待てよ。他に宿はあるのか?

この近くでは、うちだけですけど?

じゃあ泊めてくれよ。部屋空いてるって言ってたじゃねえか

いや、今埋まったんで。鼠一匹泊められないんで

ソフィアちゃん……


 マスターが苦笑しているが、酔っている私には関係ない。街中探せば宿なんて、一軒や二軒くらいは見つかるだろう。泊めて貰えるかどうかは知らないけど。こんな時間だし。

 男は呆けた顔をして、私を見ていた。

俺は屋根裏じゃなくてもいいぞ

そういう意味で鼠って言ったんじゃないわよ!!


 ○


 …………結局、うちの宿に泊まる事になってしまった。

 男はその名をゴーハと言うらしい。ファミリーネームは分からなかったけれど、そんな事はこの際どうでも良かった。結局、夜も遅いので明日の朝から出発という話になり、マスターの後押しもあってうちで泊める事に。

 だが、これが驚くべきヒューマンスキルの無さだった。

何!? 自分の名前も書けないの!?

良いじゃねえか、金は払ってんだから!!

そういう問題じゃないでしょ!? 連絡先が書けないとか、この辺りじゃ聞いた事無いわよ!!


 服の替え所か、寝間着も持っていない。愛想が悪い、質問の内容をうまく表現できない、勝手に風呂を使う、食事はこぼし放題、おまけに字が読めない書けない。

 南部地方の人間とは、こうもずさんなものなのだろうか。私が知っている限りじゃ、『ソルンツェバウロ』という街なんかは随分昔から有名な観光地だったと聞いているけれど。それなら、文字の読み書きは当然、幾つかの言葉を話せないとうまくやっていけないんじゃないのだろうか。

 どうも、彼等救助隊には当てはまらないらしい。

 今は出発直前なのに、支払いの際に連絡先カードに自分の名前が書けないときている。面倒な……

 お父さんはゴーハさんの迫力にすっかり引き気味だ。最早、どうでもいいから早く出て行ってくれと顔に書いてある。

ありがとうな。それじゃ、行って来る

…………ところであなた、場所も聞かずにどこに行くつもりなの?

山に登れば良いんだろ? 流石に俺もそこまで馬鹿じゃねえよ

ノルマンスィには、山が八つあるのよ

何、そうなのか? そんなにあったら、普通街は山に囲まれてるんじゃ……そういや囲まれてたな、来る時

ねえ、お父さん!!

う、うーん…………


 不安だ。

 不安すぎる。

 あまりに軽装で食料も持たない駄目っぷりだったので、ひとまず最低限の登山装備はさせたものの。

この服、ゴワゴワしてんな……


 こんな事を言っている始末である。

 この男は、何だろうか。少年の心のままで大人になってしまったのだろうか。それとも、私を前にして、わざわざ雪山を小馬鹿にしているのだろうか。

 …………やっぱり、信用できない。

まあ、方角を教えてくれりゃあ、なんとかしらみ潰しに探してみるよ

いや、良いです。私も行きますから、あなたは私に付いて来てください

何言ってんだ、危ねえだろうが

それはどう考えてもあなたよ!!


 いつの間にか、すっかり喧嘩腰になっていた。

おいソフィア、一応彼も救助隊…………


 睨むようにお父さんを見ると、苦笑して私に手を振っていた。私がお父さんに迫力勝ちをした瞬間でもあった。

pagetop