昨日は逃げるように深津家をあとにした遼。
澄んだ浩輔の瞳と、圭子の質問の嵐に耐えられる自信がなかった。だからといって、そのまま家に帰るはずもなく、しばらくコーヒーショップに腰を落ち着けていた。

今朝も母親に小言を言われる前に家を抜け出し、学校へと向かった。
よく眠れなかったせいか、一時間目の授業は身が入らず、次の体育も眠さに負けそうだ。

ボーっとする頭を振り、遼は着替えを済ませて体育館へ向かう。
女子たちも一緒に体育館での授業らしく、みんな向かう方向は同じ。遼も波に乗って移動する。

暖かな日差しが窓から差し込み、ついつい大あくび。抜き去っていく女子たちが、小さく笑って「こけるなよ」と声をかけてきた。
遼は頬を染め、口元を隠してあくびを続ける。

やあやあ、眠そうだね!

背中を叩かれ振り返ると、カンナが片手を挙げて挨拶をする。
遼はそれに返し、何を言うでもなく体育館への道のりを行く。

大丈夫?
具合悪いとかじゃないんだよね?

だいじょうぶだよ

心配そうに表情を曇らせたカンナに、遼はあくびを堪える。くしゃりと頭を掻いて、体育館を示す。

今日は、女子は何やるの?

私たちはバスケだよ。
男子はバレーだっけ。私もそっちがいいなー

はいはい。
ほら、用意はじまってるぞ。

あ!大変だ!

「それじゃあね!」と、カンナは振り返りもせず、一足先に体育館に入っていった。

授業が始まる前に、それぞれの種目の準備をしておかなければならない。休み時間はなしに等しい。
遼は体育館に踏み入り、バレーの用意を始めているクラス仲間の間を通り過ぎ、準備室に向かう。

網を張るためのポールが壁に並ぶ。
男子が次々に網とボールを運び出す中、遼は眠い目を擦りつつポールに手をかけた。

冷たく重い感触が手に伝わる。背後で女子の軍団が、ボールの入ったカゴを持ち出すのが見えた。
遼は、ゆっくりとポールを持ち上げて、注意を払って鉤爪型の引っ掛けから持ち上げる。

長いポールを縮められればいいのだが、そこまで体育の文明は変化しないらしい。仕方がないので、動かしずらいポールをこうやっておろしているわけだが。

あくびを噛み殺し、力が抜けそうになったところで、ドンと背中に何かがぶつかった。

「きゃあっ!」と高い悲鳴が上がり、遼の体がぐらつく。持っていた重いポールが手から滑り落ちていく。
眠気など一気になりを潜め、心臓が大きく飛び跳ねた。

ポールの落ちていく先には、カンナの姿。

大きく見開いた目と目が、交差する。

大きな音のあとに、声にならない叫び声が劈いた。

さあっと血の気が引いていく。
視界の中では多くの人間が動いているのに、耳には何一つとして情報が入ってこない。
遼は、ただ突っ立ってカンナが苦しむ顔を見下ろしていた。

「おい!遼、聞いてんのかよ!」

肩を揺さぶられ、ハッとした。呆然と立ち尽くす遼の隣に、クラスメイトの一人が真っ青な顔をして遼を覗き込んでいる。

え、あ、俺……

「いいから!早く保健室行って先生呼んで来い!今、女子が体育のほうの先生呼んでくるから。お前もボーっとしてる場合じゃないだろ!?」

しゃんとしろ!と背中を叩かれ、遼はその場を脱兎のごとく駆け出した。

胸が痛い。
カンナの表情が頭から離れない。
あの声が、耳で残響する。

あの事故を誘導したのは、元はといえばぶつかった女子だ。自分は何も悪くはないのだと自己暗示してみる。

……でも、やったのは俺だ

熱くなる目頭を乱暴に拭い、遼は全力で廊下を走る。
誰かとぶつかるなどと、今は考えている場合ではない。

逸る気持ちに追いつけない足がもつれる。くらりと視界が歪み、呼吸が難しくなる。

せんせい……せんせいっ!

保健室の扉が見えた。
壁にかかっている在室表示版が、『在室中』となっていることを確認する間もなく、遼は荒い呼吸のまま保健室に飛び込んだ。

先生!はやく!はやく来て下さいっ!

勢いのついた足は止まることを知らず、遼は派手に床に転がった。

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