今日は、圭子の帰りも早く、浩輔はごきげんだった。
それでも夕飯を一緒にできなかったので、圭子は浩輔が宿題をする傍らで、作りおきのピラフと遼が作った野菜スープを食べる。

肩を並べて座る彼らは、まるで兄弟のように映る。
浩輔も遼を慕って、色々と世話を焼いてくれる兄のような存在に、心を許していた。
それは、圭子も同じ。
出会い方こそ良いものではなかったが、一緒にいれば、遼の優しさが身にしみる。

宿題中はテレビをつけないのが決まりごとなので、部屋の中はしんとして、鉛筆が紙の上を走る音が聞こえるだけ。
静かな時間に、やっとほっとできる。

やっぱり、算数は嫌いだな

ぽそりと呟かれた言葉に、遼が笑う。

そうだね、できないのは嫌だよね。
わからないところはない?

今は大丈夫。
遼兄ちゃんに教えられたやり方で、できる。

鉛筆を握りこみ、ラストスパートをかけ始める。
鉛筆で図形の線をなぞってみたり、小数点の計算で指折り数えたりと忙しい。

そんな彼を眺める遼に、圭子はスプーンを口に運びながら声をかけた。

遼くん、訊いてもいい?

改まった言い方に、遼は眉を持ち上げて顔を上げる。
あまりいい話ではないことを悟ったのかもしれない。
だが、ここで引き下がるわけにもいかず、努めて明るい声で圭子は話し出す。

おうちのこと、話して欲しいの。
もちろん、遼くんのことを知りたいから。
私は、とやかく口を出したりはしないよ。

そう、ですね。

浮かない顔をして、隣の浩輔を見る。
宿題に追われている姿勢を見せてはいるが、聞こえていないはずはない。
この場では少し酷だったかと、圭子は日を改めようかと持ちかけたが、遼はゆっくり首を横に振った。

浩輔を見ていると落ち着くのか、遼は小さな救世主から目を逸らさない。大きな手で、彼の頭を撫でる。

遼自身も、このまま何も説明せずに深津家に居座るわけにもいかない。仮にも、一人息子を預かる身なのだ。身分証明はできているとしても、人としてできたものではない。

しばらく迷い、浩輔の頭を撫でつつ心を決める。
野菜スープを美味しいと飲んでくれる圭子に、遼は自分のことを少しだけ話し始めた。

家に、帰りたくないんです。

ご両親が、あまり……って言ってたわね。

あ、はい。
そうです。

肯定して、浩輔に配慮してくれたことに頭を下げる。

まあ、ちょっと折り合いが悪くて。
帰らないことが当たり前なんです。

親御さんは心配しないの?
昨日だって、電話もしてなかったじゃない?

それは大丈夫です。
こっちがしなくても、向こうから連絡くるんで。

「そう……」と顎に指を当てる圭子。

家族のことを、これほどまでに嫌そうに話す子を見るのは、初めてだった。圭子はもちろん、今の家族も、彼女を育ててくれた家族も大好きだ。
学生のときは迷惑をかけたこともあったし、一丁前に反発して家出をしたこともあった。

だが、遼が体験していることとは程遠い。
何が違うのかまでは明確には言えないが。

暗く思い空気を感じ取ったのか、浩輔がノートから顔を上げて二人を交互に見やった。
不安げな表情で、胸元をギュッと握り締める。

ケンカ、してるの?

下から見上げる瞳は潤み、鏡のように遼を反射する。
そこに映る彼の顔は、浩輔に見せてはいけないようなもののような気がして、すぐに取り繕った。

ううん、ケンカじゃないよ。
俺のことを、浩輔のお母さんに知ってもらおうとしてるだけ。

嘘ではない。
圭子も同調すると、浩輔もほんのり笑顔に戻る。

鉛筆をノートの上に投げ出して、浩輔は両手を腰に当てて胸を反らす。何が始まるのかと遼が隣で見守る中、小さな体寄り添った。
暖かい体が触れ合う。
これが子ども体温というやつかと、冷静になってしまう。

他人の熱を感じながら、胸が鳴るのを聞く。

それなら平気だよ、お母さん!
遼兄ちゃんは、僕と一緒に遊んでくれるし、勉強も教えてくれる。
今日なんて、カンナお姉ちゃんと友達になったんだから!

無邪気な言葉が、次々と遼の胸を穿つ。

僕、遼お兄ちゃんが大好き!

今度こそ、ダメだった。
遼の視界が歪む。
クリアだった世界は一転しゆらゆらと影が揺れた。

瞼が熱くなっていくのを感じた遼は、圭子に断ってトイレに駆け込んだ。
その後ろ姿を、彼女は目を細めて見送る。
浩輔はといえば、急に慌しくトイレに行ってしまった遼を見て、我慢しなくてもいいのにねと、圭子に告げた。

的外れな可愛らしい意見に、笑わずにはいられない。

家族みたいなものなのにね

言えば、浩輔は目を輝かせて同意した。

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