海野先輩の言葉に、俺は図書室の窓を閉めながら応じた。
松原くん、帰りにコンビニ付き合ってくれる?
海野先輩の言葉に、俺は図書室の窓を閉めながら応じた。
いいですよ
やった。いつもありがとね
先輩は微笑むと、制服のスカートを翻して受付カウンターの中へ飛び込んだ。貸出管理用のパソコンを閉じようと操作を始めている。
俺はその姿をちらりと盗み見ながら、図書室の全ての窓を閉めた。
古い校舎の三階にある図書室は風通しこそいいものの、窓を閉めるとあっという間にサウナへと変貌を遂げる。教室にさえない冷房が図書室にあるはずもなく、そのせいか夏休み中の利用者はほとんどいない。
我が校の図書室は夏休みの間、土日を除いてほぼ毎日貸出業務を行っている。たとえ利用者がいなくても、図書委員になってしまうと夏休み中は週に一度くらいの頻度で問答無用の登校日がやってくることになるわけだ。
俺と海野先輩も週一で登校しては、ごくたまにやってくるわずかな利用者の為に図書室を開ける。そのお蔭で先輩とは、当番の帰りにコンビニに寄り道するくらいまで親しくなれた。
もっとも、一緒にコンビニに寄るようになった理由は他にもある。
パソコン落としたよ、鍵返して帰ろ
受付カウンター内にいる海野先輩が声をかけてきたので、俺は逃げるように蒸し暑い図書室を出た。海野先輩も後から追いかけてきて、『閉室中』と札がぶら下がった図書室の戸に鍵をかける。
廊下もまた熱気がこもってじっとり暑く、司書室に立ち寄って鍵を返した後、生徒玄関まで歩いていくだけで汗が噴き出てきた。
今日も暑いですね
暑いね。
こういう日は当たりそうな気がしない?
海野先輩の声は歌うように弾んでいる。先輩はいつも明るい人だけど、貸出当番を終えて帰る時が一番はつらつとしている。
明るさともはつらつさとも無縁の俺は、それでも海野先輩といるとつられて笑ってしまうことが多い。今も、少し笑いながら聞き返した。
当たりそうって、その根拠は何なんです?
だってこんな暑い日、誰もチョコなんて買わないでしょ。残り物には福があるんだよ
はあ……
さ、行こっ。松原くん!
俺達がコンビニへ行くのには理由がある。
海野先輩は、もう何年も前からエンゼルを探しているそうだ。
寄り道先のコンビニは学校から歩いて五分くらい、繁華街の入り口にある。
海野先輩の買い物はいつも同じだ。チョコボールのキャラメル味を一箱とペットボトルの麦茶を一本。
さあ開けちゃうよー。松原くんも見ててね
買い物を終えると、先輩はコンビニの前で早速チョコボールを開封する。
銀のエンゼル来い! 金でもいい!
お願い!
願いを込めながら箱を見つめる先輩の瞳は子供みたいにきらきら輝いている。
だけど透明なセロファンの上半分を剥がし、くちばしを模した箱の蓋を開けたところでその表情がしゅんと萎れた。
あれ……また外れ
残念でしたね
俺も自分で買った麦茶を飲みながら、先輩と一緒に箱のくちばしを確かめる。そこにエンゼルの姿はない。
チョコボールの箱には時々、エンゼルがいる。
この話を知らない人間なんてそうそういないだろう。金のエンゼルは一枚で、銀のエンゼルは五枚集めるとそれぞれおもちゃの缶詰が貰える。小さな頃にエンゼルを求めてチョコボールを買った奴は結構いるはずだし、かくいう俺もその一人だった。
だけど海野先輩は高校生になった今でもエンゼルを探している。
おかしいな、今日はいける気がしてたのに
先輩は唇を尖らせてぼやき、横目で俺を見る。
松原くんが一緒なのにご利益もなかったし
すみません、効果がなくて
俺は頭を下げたけど、そもそもご利益なんてあるはずないと思っている。
海野先輩が俺をコンビニまで付き合わせる理由は、前に一度、俺が居合わせた時に銀のエンゼルを引き当てたことがあるからだ。
あれは夏休みに入る少し前のことで、放課後、図書室での当番の帰りにたまたまコンビニに寄ったら、チョコボールを今まさに開封するタイミングの海野先輩と遭遇した。その時引き当てたのが海野先輩にとって四枚目の銀のエンゼルだったというからもう大騒ぎだった。
以来、先輩は図書室の貸出当番の度に俺をコンビニへ誘い、こうしてチョコボールの開封に付き合わせる。
俺からすればそもそも前回がまぐれだったんじゃないかと思う。実際、先輩にそう進言したこともある。
だけど先輩は断固として言い張った。
だって松原くんと出会うまで私、もう三年近くエンゼルを見つけられてなかったんだよ!
こうして見つけられたのだって、絶対、松原くんのお蔭だと思う!
先輩曰く、この手の幸運を掴み取る為には信じる心が大切らしい。
宝くじを当てた人達の体験談にもあるように、ちょっとしたひらめきや胸騒ぎを予兆として信じた人だけが幸運とめぐりあうことができるのだそうだ。そんな海野先輩は初めて銀のエンゼルを見つけてから、かれこれ十年もエンゼル目当てで買い続けているという。十年かけてようやく四枚目。先輩の勘が当てになるのかならないのか、いまいちよくわからない。
大体、子供の頃ならともかく高校生にもなってエンゼルを探す意味だってわからない。
高校生にもなって、おもちゃの缶詰なんて貰ってどうするんですか
そう言うと海野先輩は不思議そうな顔をする。
なんで高校生がおもちゃの缶詰貰っちゃだめなの?
だめじゃないですけど……先輩の歳じゃおもちゃなんか要らないでしょう
わかんないよ。高校生が遊べるおもちゃが入ってるかもしれないじゃない
ありますかね、そんなの。あんまり期待しすぎない方がいいと思いますよ
俺が疑問を口にする度、海野先輩はその理屈が理解できないという顔をする。
でも、松原くんだって見たことないでしょ? おもちゃの缶詰の中身
そりゃあ、ないですよ
あるはずがない。
俺も過去に一度だけ銀のエンゼルを引き当てたことがあったけど、五枚集める根気が続かなかった。
だったらやっぱり、わかんないじゃない。すっごくいいものがいっぱい詰まってるかもしれないし、その中には私達が遊んで楽しいおもちゃだってあるかもしれないよ
そう主張する時の先輩の顔は、こっちが言葉もなくなるくらい真剣だ。
それに、気にならない? エンゼルは確実に存在してるのに、缶詰の中身を知ってるって人はいないんだよ。
存在することはわかってるのに、誰も知らない、見たこともないなんてロマンだよ
実際、俺の周りであの缶詰を当てたという人間の話は聞いたことがない。都市伝説とまではいかないけど、レアな代物には違いない。
今ならネットで調べたら、一人くらい感想上げてる人見つかりそうですけどね
俺が本音を零せば、先輩は重大なマナー違反でも咎めるみたいに睨んできた。
そういうのはいざ当たった時の喜びが減っちゃうから駄目なの!
いざ当たった時にがっかりしない為にもですよ、先輩
夢がないね松原くんは! 可愛げもないし!
夢を持ちすぎて裏切られるのも、悲しくないですか
後ろ向きなのも駄目! もっと希望持っていこうよ、明るく!
先輩こそおもちゃの缶詰に夢を持ちすぎているんじゃないだろうか。
たとえ素晴らしいものが詰まっていようとも、おもちゃはおもちゃだ。こんなにお金を注ぎ込んで、いざ届いたらがっかり、なんてことがないといいけどな。海野先輩の貴重な明るさが失われては困る。
松原くんみたいな夢のない子にこそ、いつか見せてあげたいな。信じる心の大切さを!
きらきらした目で熱く語る海野先輩と共に、俺はコンビニを離れて真昼の道を辿り始める。
焼けつきそうな炎天下を、夏らしい蝉時雨を聞きながら歩く。徒歩通学の俺とは違い、海野先輩は電車通学なので、繁華街の先の駅まではほんの少しの距離しかない。
そのほんの少しの距離を惜しむように、俺はなるべく速度を落として歩く。
海野先輩は歩くのがあまり速くない。チョコボールを食べながら、麦茶を飲みながら歩くからだ。
はい、松原くんもチョコ食べて
あ、いただきます。ありがとうございます
先輩はいつも俺にチョコボールを分けてくれる。ぼやぼやしてると溶けてしまうので急いで食べないといけないからだ。一仕事終えた後に食べる甘い物は美味しいし、女の子と二人で歩く機会なんてまずない俺は、海野先輩との帰り道が密かな楽しみになっていた。
むしろこんな楽しみでもなければ、連日三十五度越えの夏休み中、制服を着て登下校なんてやってられない。涼しいコンビニで一旦治まったはずの汗がぶり返してくる。チョコボールを飲み込んだ後で麦茶のキャップを捻ると、不意に海野先輩が言った。
松原くん、顎に汗が垂れてるよ
言われて俺が手をやるより早く、顎に柔らかいタオルの感触があった。
見ると海野先輩がこちらへ手を伸ばし、俺の顎にハンドタオルを押し当てていた。軽く拭った後、にこっと笑う。
お節介だった?
俺は一瞬呆気に取られ、
……タオル汚れたんじゃないですか?
すみません
我に返るとすぐに詫びた。
でも先輩は全く気にせず、そのタオルをスカートのポケットにしまう。そして造作もなく言う。
お地蔵様とかさ、きれいにしてあげたらご利益があるって言うじゃない
俺、地蔵扱いですか……
ねえねえ、松原地蔵は何をお供えしたらご利益あるの?
供えなくていいですよ、ご利益あるって保証もないですし
やっぱいなり寿司?
それともヤクルトっぽいちっちゃい飲み物?
どうしてもって言うなら、可愛い女の子がいいです
え? どゆこと?
よく昔話にあるじゃないですか。
生贄を捧げて五穀豊穣を願う的な
やだ、このお地蔵様すっごい俗っぽい。
松原くんも男の子なんだね
言われるまでもなく最初からそうなんだけど、それを主張したところで何があるわけでもない。
夢を持ちすぎて裏切られるのも悲しいから、現状で満足しておく主義だ。
先輩と別れて家へ帰ると、しぼんだ浮き輪を抱えた弟が待っていた。
兄ちゃん、うちに空気入れあったっけ?
友達とプール行くんだけど
あったんじゃないか? 物置に確か
俺が答えれば、弟はすぐに家の外の物置へと走っていったようだ。
立てつけの悪い物置の戸が開くのが聞こえたけど、すぐに閉まった。
戻ってきた弟が縋りついてくる。
兄ちゃん物置怖い! 探して!
……わかった
外から帰ってきたばかりなのにまた外へ出るのは億劫だった。でも弟が物置を怖がるのももっともなので、制服のままで外へ出た。
我が家の物置はずっとカオスな状態だった。錆だらけのママチャリ、もう何年もしまわれたままの鯉のぼりや五月人形、日曜大工用の工具なんかがぎっちり詰め込まれている。父さんは仕事が忙しいし、暇になったら俺が片づけようと思っていたけど、何となく気が乗らないままずっと放置してきた。
軋む物置の戸を開けると、埃と黴と錆の混じり合ったような臭いと蒸し器の中みたいに熱せられた空気が染み出してきた。それだけでうんざりしたけど、覚悟を決めて詰め込まれたガラクタを運び出す。
やがて目当ての空気入れを見つけた。
あったぞー、空気入れ
家の中にいる弟に向かって叫んだ後、ふと物置の中に目をやった時だ。工具箱や古びた毛布が山積みになった奥の方、間に挟まれるようにして見覚えのあるものを見つけた。
宝箱の形をした缶だ。大昔に北海道を家族で旅行して、その時に買ってもらった『白い恋人』の缶だった。
俺は熱のこもった物置の中に踏み込み、缶を拾い上げた。
背後で足音がして、
ありがと兄ちゃん! あとでプール行くね!
弟が空気入れを掻っ攫っていった後も、俺は缶を黙って見下ろしていた。
少しの間だけ、古い記憶が頭の中に蘇っていた。
これは俺が小さな頃使っていた、宝物入れだ。
ゲームに出てくる宝箱の形をしているのが気に入って、親にねだって空き缶を貰った。そこにいろんな気に入ったものを詰め込んでいたのを覚えている。俺がまだ海野先輩みたいに夢も希望も持っていた頃の話だ。
少し迷ったけど、思い切って蓋を開けてみた。中身は記憶のあるものとないものがあり、パンについてくるポケモンのシールやラムネに入っているビー玉は集めていた記憶があるものの、どんぐりで作ったコマや漫画雑誌の切り抜きは入れた覚えがない。なくしたと思っていた病気平癒のお守りがあったのには驚いた。今更見つかったところでどうしようもないけど、感傷的な気分にはなった。
そして俺が一番驚いたのが、雑誌の切り抜きの中に紛れていた銀のエンゼルだ。
残ってたのか……
昔、一度だけ引き当てたことがあった。さすがに五枚集める気は起こらなくてすぐに忘れてしまったけど、こんなところにしまっていたのか。ざっと見積もっても五年以上前のものだけど、まだ使えるだろうか。海野先輩にあげたら喜ばれるかもしれない。
これが先輩の手に渡れば、五枚目の銀のエンゼルになる。
外へ出したものを物置の中へなるべくきれいに戻した後、俺は銀のエンゼルだけを持って家の中に入った。そして自分の部屋で一人物思いに耽った。
この銀のエンゼルを渡せば、海野先輩はきっと喜ぶだろう。
でもそうしたら、貸出当番の度に寄り道をして一緒に帰ることはなくなってしまう。海野先輩はご利益を期待して俺を誘ってくれていたのだ。エンゼルが全て揃えば俺を誘う理由も、帰りにコンビニに寄る理由すらない。
だからといってせっかく見つけたエンゼルを捨てたり、またしまい込んだりする気にもなれなかった。そんな卑怯なことをすれば俺は、大袈裟な話ではなく、一生後悔する羽目になるだろう。
夢や希望は持たないつもりでいたのに、どうしてこんな寂しい気持ちになるのか。