昔は俺も、夢や希望を信じていた。
母さんの為に病気平癒のお守りを買って、毎晩神様に祈るくらいには信じていた。きっと大丈夫、母さんは家に戻ってきて、また家族四人で普通の暮らしができるようになるって信じていた。
でもその祈りはどこにも届かなかった。
神様なんていなかったからだ。
信じて裏切られるよりは、信じない方がいい。
俺はそう思っている。
昔は俺も、夢や希望を信じていた。
母さんの為に病気平癒のお守りを買って、毎晩神様に祈るくらいには信じていた。きっと大丈夫、母さんは家に戻ってきて、また家族四人で普通の暮らしができるようになるって信じていた。
でもその祈りはどこにも届かなかった。
神様なんていなかったからだ。
信じて裏切られるよりは、信じない方がいい。
俺はそう思っている。
次に海野先輩に会ったのは、もちろん貸出当番日のことだ。
図書室の貸出当番は相変わらず利用者がまばらで、訪ねてきたのは三人ほどだった。することもほとんどなく暇だったので、俺はまだ迷いを引きずったまま考え込んでいた。
お蔭で先輩に気遣われる始末だった。
松原くん、今日はことさら元気ないね。大丈夫?
平気です
俺は首を振ったけど、先輩はそれを鵜呑みにせず心配そうに俺を見ていた。
今日もコンビニ付き合ってもらおうと思ったんだけど、松原くんが具合悪いなら今度にしよっかな
いつの間にか貸出の時間が終わっていた。
図書室のドアの札を引っくり返して『閉室中』にし、残った利用者がいないことを確かめた。あとは窓を閉め、受付のパソコンを落とし、そして戸締りをした後で司書室に鍵を返せば当番は終わりだ。
先輩がコンビニへ行く前に渡してしまわなくてはならない。
わずかに残っていたらしい夢や希望は捨てて、俺はシャツの胸ポケットから生徒手帳を取り出す。その中に挟んでおいた銀のエンゼルを手に、海野先輩がいる受付カウンターの中に入る。
先輩はパソコンを操作していたけど、俺が窓も締めずにこちらへやってきたことを不思議に思ったんだろう。顔を上げて尋ねてきた。
どしたの、松原くん
これ、貰ってくれませんか
先輩の傍らに立って銀のエンゼルを差し出すと、先輩は目を丸くして俺の手のひらを見てから、同じ表情のまま俺を見上げた。
銀のエンゼル! 松原くんが当てたの!?
子供の頃に当てたやつです。この間、たまたま家で見つけました
俺はなるべく内心を悟られないよう、平坦な口調で答えた。
まだ使えると思うんですけど、俺が持っててもしょうがないですから。ずっと探していた先輩にこそ貰って欲しいんです
いいの!?
海野先輩は声を上げ、骨董品の鑑定士のような手つきで俺の手から銀のエンゼルを拾い上げた。
俺は手を引っ込め、海野先輩がエンゼルに見入る様子を眺めていた。
先輩ははじめ食い入るようにエンゼルをためつすがめつしていたけど、やがてその目が輝き始め、頬には興奮のせいか赤みが差してきた。五枚目の銀のエンゼルを持つ手はぷるぷると震えだし、次に顔を上げた時、弾けるような笑みを見ることができた。
ありがとう松原くんっ! これで五枚揃ったよ、缶詰貰える! ひゃっほーっ!
先輩は歓声を上げ、その場でぴょんぴょん飛び跳ねた。その度に先輩の髪もふわふわ揺れて、見ているだけで切ない気分になる。
それから先輩は自分の制服のポケットから二つ折りの財布を取り出し、中から以前手に入れていた四枚の銀のエンゼルを出してみせる。見事に五枚揃ったエンゼルを手のひらの上に乗せ、俺に向かってとろけそうな笑みを浮かべた。
缶詰届いたら松原くんにも見せたげるね!
その気持ちは嬉しいけど、缶詰だってすぐには届かないだろう。図書委員の任期は前期が終わる九月末までだ。それまでに間に合うだろうか。
俺が黙っていたせいか、そこで海野先輩は目を瞬かせた。
松原くん、浮かない顔してるね。やっぱ具合悪い?
そんなことないです
じゃあ、私が缶詰見てがっかりすると思ってる? 高校生が遊べるようなおもちゃは入ってないって
それも思わなくもないけど、そんなことすら今はどうでもよかった。
海野先輩が缶詰を貰って予想以上の中身に喜ぼうと、あるいは落胆しようと、俺がその結末を見届けることはないのだろう。
そして先輩がどちらの結末を迎えようとも、ひとまず銀のエンゼルを揃えるという目的だけは達成されたのだ。
当番日の帰りに寄り道をすることもなくなる。
何が入ってても、先輩にとってはそれがロマンでしょう?
俺が尋ねると先輩は深く頷き、逆に聞き返してきた。
松原くんはそうじゃないの?
残念ながら、そうではないですね
正直に答える。
そこで会話を打ち切って窓を閉めに行こうとしたけど、海野先輩はそれを制するようにじっと俺を見ていた。
……
いつも明るい先輩の目は今日もきらきらしていて、もうこんなふうに見つめられることもないだろうと思ったら、もう一言告げたくなった。
俺にとってのロマンは、先輩と一緒にコンビニへ寄って、そのまま一緒に帰ることなんで
一言では収まらなかった。
もう少し言葉を選ぼうと思ったのに、選びきれなかった。
それがなくなってしまうのが、寂しいです
思いっきり素直に言ってしまった。
当然、海野先輩はさっき俺が銀のエンゼルを差し出した時以上に目を丸くした。そのまま凍りついたように俺を凝視して、薄く開いた唇からは何の言葉も出てこない。
さすがに俺も後悔して、急いで先の言葉を否定した。
何でもないです。困らせてすみません、今のは忘れてください
え!? い、いやいや、困ったとかじゃ全然、そういうんじゃないけど……
そう言いながらも先輩は明らかに困惑していた。何を言おうか必死に考えているようだったし、今更のように視線を宙に彷徨わせている。夢や希望を捨てると決意しておきながら未練がましいことをしてしまって、俺は気まずく思ったし、更に悔やんでいた。
だけどその時、開けっ放しだった窓から温い風が吹き込んできた。
あっ
風通しのいい図書室を強めの風が吹き抜けると、先輩の手のひらの上にあった五枚のエンゼルもふわっと舞い上がった。
それは瞬く間に俺達のいる窓際から受付カウンターを飛び越え、図書室に置かれたテーブルの向こう、あるいは本棚の陰に吸い込まれるように消えていった。
エンゼルが!
海野先輩が悲鳴を上げ、エンゼルを追いかけようとした。
ただ運悪く、狭いカウンター内には俺もいた。どけようとしたけど間に合わず、よろけた俺の足に飛び出そうとした先輩がつまづいた。
同様に、先輩に足払いを食らう格好となった俺も床に倒された。
先に倒れた先輩を潰さないよう手をつくのが精一杯で、後のことは何も構っていられなかった。仰向けに倒れた先輩は頭をしたたかに打ったようだ。ぎゅっとつむった目に涙が滲んでいた。
いたたたた……何これ、もう最悪
大丈夫ですか、先輩!
手首の痛みを堪えつつ、俺は先輩の顔を覗き込んで声をかけた。
海野先輩は恐る恐る瞼を開き、
ううん、もう駄目。頭すっごい打ったし……
と言いかけたところで俺と目が合い、言葉を止めた。
床に手をつく俺の影の中、海野先輩の顔がぎょっと引きつる。
涙が浮かんだ目で俺をこわごわ見上げて、唇を震わせながら先輩が叫んだ。
えええええ!?
な、なな、どういうことっ!?
どうって……先輩はさっき、風に飛ばされたエンゼルを追いかけようとして――
ま、待って! 駄目だよこんな、いくらなんでもいきなりすぎるよ!
え? 何がですか?
だだ、だって私達まだ高校生だし早すぎるしそもそも手も繋いだことないし!
……はあ?
君も男の子だしこういうのに興味あるのはわかるけど、ちゃんと段階踏んでからじゃないとっ!
ええと……先輩?
聞き返しながらふと見下ろせば、俺は先輩を床に組み敷く格好になっていることに気づく。
俺が床に手をついているせいで先輩は逃げられず、きらきらと美しく目を潤ませ、恥ずかしさに真っ赤になった顔で俺を見上げている。俺はその顔に見とれそうになったけど、先輩の髪が図書室の床に広がっているのに気づいて、慌てて起き上がった。
あっ、すみません。決して変なことをしようという下心はなくてですね、さっき先輩が転んだ時に俺も一緒に転んでしまったんです。本当です
そ、そうなの?
きょとんとする先輩をとりあえず抱き起こし、誤解のないようすぐ手を離した。
上体を起こした先輩はしばらく俺を見つめていたけど、俺の言葉に嘘がないことを表情から読み取ったのだろう。小刻みに震えだしたかと思うと、両手で顔を覆ってうずくまる。
うわああああああごめんごめん本当ごめん!
そうだよね松原くんはそんな人じゃないよねでも何かそういう雰囲気かと思って私どきどきしちゃって! 早まっちゃってごめん!
あ、いえ、こちらこそ誤解を与えてすみません
俺が謝り返しても、海野先輩はしばらく顔を上げなかった。手で覆いきれない耳まで真っ赤になっていた。
だけどそのうち、はっと気づいて俯いたままよろよろと立ち上がる。
……忘れてた。エンゼル、探さないと
風に飛ばされた五枚の銀のエンゼルのことを思い出したらしい。覚束ない足取りでテーブルが並ぶ一帯まで歩いていくと、床に這いつくばってエンゼルを探し始めた。
俺はその背中を見つめながら、落ち着かない気持ちになっていた。
あんな誤解をされてしまったことは気まずかったものの、別に嫌な気分ではなかった。
嫌じゃないと言ったらおかしいかもしれない。でも無防備な格好で床に倒れた先輩を見下ろした時、どきっとしたのも事実だ。俺の影に覆われた床の上の先輩は、きらきらした目で俺を見ていた。あんな目で見てもらえることなんてもうないと思っていたから、このままずっと見ていたいくらい、きれいだと思った。
夢や希望は捨てようと思ったばかりなのに、捨てきれないのはなぜだろう。
叶わなずに裏切られることの辛さだって知っているのに、気持ちが上手く切り替えられない。
松原くん……
か細い声に名前を呼ばれ、俺は我に返る。
図書室のテーブルの下に座り、こちらに背を向けた先輩が、ぼそぼそと続けた。
寂しいって言うならさ、これからも一緒に寄り道しようよ
俺が見守る中、先輩は振り向きこそしなかったけど、確かに聞こえる声で言う。
缶詰だってどうせなら松原くんと一緒に見たいし、エンゼル揃ったのは松原くんのお蔭だからお礼もしたいし、別に用がなくても、松原くんから誘ってくれたっていいんだよ
言うだけ言うと先輩はまた床の上に這いつくばった。
海野先輩はまだエンゼルを探している。
一方、俺は自分のエンゼルを見つけてしまった。
夢や希望を否定しようとしていた俺に、信じる心を教えてくれた本物のエンゼルだ。だから俺も自分の今の気持ちくらいは信じて、立ち上がろうと思う。
一緒に探しますよ、先輩
俺は先輩に声をかけ、ゆっくりと立ち上がる。
それ全部見つかったら、五枚揃ったお祝いをしたいので、付き合ってください
そう続けると海野先輩はようやく振り返り、
うん
恥ずかしそうにしながらも、天使みたいに微笑んだ。