おじさまとレディの匂い
おじさまとレディの匂い
お父さんが失踪して、家が燃えてしまった翌朝。
竜胆さんは私の作った朝食を食べながら言った。
とりあえず1ヶ月ぐらい
うちで暮らすか?
え?
葉山先生もしかしたら
すぐに帰ってくる可能性もあるしな
だったらどっかの養護施設より
うちの方が連絡がつきやすいだろ。
それにここからなら嬢ちゃんの家も
学校もそう遠くないからな
い、いいんですか…?
それは私にとって
願ったり叶ったりの話だった。
でも、竜胆さんには迷惑じゃないのかなあ
と思ったけれど。
葉山先生には恩があるからな
昔、葉山先生がブレイクした時の担当が
俺だったんだ。
色々学ばせてもらったよ
へー…
まあそんな訳で
ちょっとした恩返しだから、
嬢ちゃんは遠慮なくここで暮らしていいからな
どうやらそんな理由で
私はしばらく竜胆さんのマンションに
置いてもらえることになった。
この日は1日忙しかった。
学校に事情を説明したり、燃えてしまった学用品の再購入をしたり。
学校が終わってから、警察とか保険とかのよく分からない手続きは竜胆さんが一緒にやってくれた。
頼れる大人が居てくれて良かったと、心から思う。
ありがとうございます、助かりました
まあ、ああいうのは大人の出番だからな
警察署から帰る車の中で竜胆さんはそう言うと、ハンドルをマンションとは反対方向に切った。
不思議そうな顔をした私に気付くと彼はなんだか楽しそうに笑って言った。
少し買い物に行こう、嬢ちゃんの着替えとかな
年頃の女の子が、俺のTシャツとパンツばっかじゃ可哀想だからなあ
ぱ、パンツは自分のを履いてます!
竜胆さんて見た目と違って頼れる優しい人だと思ってたのに。
やっぱりこの人、ちょっとチャラいかも。
彼の悪ふざけに思わず不機嫌な顔をしてしまったけど、竜胆さんはそんなこと全然気にせず楽しそうに笑ってた。
とりあえずの着替え。
下着にTシャツやジーンズなんかの部屋着と靴、それから。
外に遊びに行ったりだってするだろ
そう言って竜胆さんは可愛いワンピースとカーディガンまで籠に入れた。しかも。
でも、貯金そんなにないし、
お金節約しないと…
いいよ、嬢ちゃんが出さなくても。
葉山先生の原稿料で出世払いってことにしとくから
まるで当然のように買い物を全て支払ってくれた。
駄目です、住まわせてもらってるだけでも
ご迷惑なのに…
こんなにお世話になれません
あまりにも心苦しくて訴えると、竜胆さんは困ったように頭をかきながら歩いた。
そんじゃー、今日みたいに
嬢ちゃんがこれからは朝飯作ってくれるか?
あとヒマなときに掃除でもしてくれりゃ
バイト代ってことでいいだろ?
少し考えたけれど、それならと私は頷く。
元々バイトはするつもりだったんだし、お給料を日用品代と家賃代わりに宛てられるなら本望だ。
そうして買い物を終えた私たちは、ショッピングモールのファミレスで晩ごはんを食べてからマンションに帰った。
翌日から、私の新生活が始まった。
朝はふたり分のご飯を作りいっしょに食べてから学校へ行く。
夜は竜胆さんは遅くなることが多いので、食事はバラバラだ。
ひとりで何か作って食べることもあれば、友達とファストフードで済ませてしまうこともある。
たまに彼の帰宅が早いといっしょに食卓を囲めることがあって、そんな夜のご飯が1番美味しいと私は感じていた。
部屋はあまり使っていなかった書斎を整理してくれて、そこを自由に使わせてもらった。
家事の手伝いは朝食とヒマなときに掃除をと言われたけれど、それだけじゃやはり申し訳ないので、私は毎日掃除もし洗濯もするようになった。
竜胆さんは優しくて、よく仕事帰りに本やケーキなんかのお土産を買ってきてくれたり、休日には勉強を見てくれることなんかもある。
きっとみなしご状態の私を哀れんで励ましてくれてるのだろうけれど、それでも彼の気遣いは、すっかり寂しくなってしまっていた私の心に染みて嬉しかった。
そんな感じで2週間が過ぎ、この暮らしにも慣れてきた頃。
とある金曜日の深夜。
酔っ払って赤い顔をした竜胆さんがタクシーで帰ってきた。
ただいま~嬢ちゃん
おかえりなさい。
大丈夫ですか?お水呑みますか?
グラスに水を汲んで、ソファーにぐんにゃりともたれ掛かってる彼に渡しに行くと、ふと鼻先を甘ったるい匂いがかすめた。
…香水くさい
ああ、久しぶりにキャバ嬢ちゃんと呑んで来たからなあ
ヘラヘラとそう言った竜胆さんの言葉に、私は少しだけ眉をひそめてしまう。
そんな顔すんなって。
キレイなおねーちゃんと酒を呑むのも、
男の仕事ですから
かなり酔っているのだろう、竜胆さんはいつにもまして饒舌で言葉が軽い。
それに、嬢ちゃんが居る間はうちに女連れ込めないしなあ。
たまにゃ外でフェロモン発散してこないと
・・・!!
私はクルリと背を向けるとまっすぐ部屋に向かっていき、カバンに自分の少ない荷物を詰めこんだ。
そしてリビングのドアを開け、離れた場所からソファーの竜胆さんに向かって頭を下げる。
私、出て行きます。今までお世話になりました。
ご迷惑かけてすみませんでした
は?…はあ?
驚きをあらわにした顔で竜胆さんはソファーから飛び降り、慌ててこちらへやってきた。
なんだ、どうしたんだよ急に
私がいると女の人を家に呼べないんでしょう?
今まで邪魔してごめんなさい。さようなら
いやいや、
ちょっと待てって!
私の腕を掴む竜胆さんからは甘ったるい香水の香りが漂ってきて、まともに顔が見られない。見たくない。
どうして今まで気づかなかったんだろう。
たとえ結婚してなくったって、竜胆さんには恋人がいるのかもしれない。
ううん、チャラそうな彼のことだ。“そういう関係”の女の人さえいるのかもしれない。
私は彼のそんなプライベートを邪魔していたんだ
そう考えた途端、嫌悪感とよく分からない悲しい気持ちが胸をいっぱいにした。
なんだかもうここにいたくない。
他の女の人の匂いをさせてる竜胆さんなんか、だいっきらい。
勝手だとは分かっているけど、そんな感情があふれて止められなかった。
嬢ちゃん!
顔を背け続ける私に、竜胆さんが腕を掴んだまま必死に呼び掛ける。
悪かった。そういうつもりじゃないんだ。
ちょっと酔ってて、つまんないジョークのつもりだった
17歳の女の子に言うことじゃなかったって反省してる。
だから機嫌直してくれ
めいっぱいのふくれっ面をして竜胆さんから背け続けていた目に、涙が滲んできた。
…私、馬鹿みたい。
お世話になってる分際で、彼のプライベートに怒ったりして。そんな権利ないの分かってるのに。
ごめん、希ちゃん
真剣な声色の謝罪を聞いて、ついに瞳から涙が零れてしまった。
…本当に悪かった。
希ちゃんがここに居ることを迷惑だなんて
思ったことはないから。
だから、これからも何も遠慮せず
ここにいてくれ
・・・・・・・
拗ねて泣いてる自分がとても子供みたいだと思った。
小さい頃、仕事が忙しいお父さんにかまってもらえなくて寂しくていじけてた気持ちと少し似ている。
私はきっと、寂しいのかもしれない。
唯一頼れる大人の竜胆さんに邪険にされた気がして、いじけたのかもしれない。
…竜胆さん
ん?
明日からもっと美味しい朝食作ります。
お掃除も必ず毎日します。
アイロン掛けも頑張ります
だから、ここに居させてください…
他に行くところも、頼れる人も居ない。
だから私は竜胆さんにもっとかまって欲しいと思う。他の女の人なんかよりも。
グスグスと鼻をすすり上げながら言うと、掴まれていた手をパッと離され、かわりにギュウうっと抱きしめられた。
…お嬢ちゃんは馬鹿だな
すみません…
子供が遠慮すんなって言っただろ?
何も気を使わなくていい。気にしなくていい。
安心してここに居な
はい…
抱きしめられると、イヤな香水の匂いが鼻に強く伝わる。けれど、それ以上に大人に抱きしめてもらえる安心感は心地良くて、私はそのまま抱きしめられ続けた。
…いつか…私も香水の似合う女の人になって
竜胆さんとお酒が呑めるようになるのかな
そんなことをボンヤリと考えながら。
それから竜胆さんが酔っ払って帰ってくる日はなくなった。
もしかして私のせいかな、とちょっと気になってしまい、ある日早く帰ってきていっしょに晩ごはんを囲んだ食卓で聞いてみた。
竜胆さん、最近お酒呑んできませんね
ああ、最近どうも肝臓のちょーしが悪くってなあ。
部下がみんな「ガンですか?」って心配してるよ
え!大丈夫なんですか?
へーきへーき、ってかガンじゃねーし。
嬢ちゃんの作ったメシ食ってりゃ
治っちまうよ
そうですか、なら良かった…
安心した私を見て竜胆さんは可笑しそうに目を細めて笑ってた。
あー嬢ちゃんの作る味噌汁はうまいなー
そんな笑顔を見て、私は彼のためにもっと美味しいご飯を作ってあげようと心に決めた。
――同居生活3週間とちょっと。
まだお父さんは帰ってこない。
お父さんがいつ帰ってくるかなんて見当もつかない。
けれど出来ればそれまでここに居たいと思うのは、叶わない願いだろうか。
つづく