おじさまとローヒールのパンプス



――『とりあえず1ヶ月くらいうちで暮らすか?』

そんな言葉で始まった同居生活は、まもなくそのタイムリミットを迎えようとしている。

…もっとここで暮らしちゃ駄目かなあ

最近そんなことばかり考える理由は以前とはちょっと違っていて。

確かに学校を転校したくないとか、お父さんが帰ったとき連絡がつきやすいとか、そんな理由もあるんだけど。

もっと竜胆さんと暮らしたいな…

何よりもそればかり望むようになっていた。

ちょっとチャラくて、私の前では隠してるけど本当はお酒と女の人が好きな竜胆さん。

けど、とっても優しくて面倒見が良くって時々まじめで……

もっとずっと一緒に居たい…

タイムリミットが迫れば迫るほど、私は彼と離れることを恐れるようになってきていた。




そんなある夜の食卓。

竜胆

嬢ちゃんの作るコロッケはうまいなー

いつもみたいに調子良く私の料理を褒めてくれていた竜胆さんだったけど。

ふと、カレンダーに目をやると少しだけ表情を引きしめて

竜胆

そういや葉山先生が失踪してからもうすぐ1ヶ月が経つなあ

と言い出した。

そ、そうですね

私はここを出る話をされるんじゃないかとドキドキしながら、顔を俯かせて急いで食事を進ませる。

竜胆

先生のことだからマイペースにやってるんだろうけど、さすがにちょっと心配にもなってくるな

そうですね

竜胆

どっかの土地に住み着いて元気にしてくれてりゃいいけど

ええ

竜胆

でもそうだとして、嬢ちゃんはこの先――

ご、ごちそうさまでした!

竜胆さんの言葉を遮って、私は勢いよく席を立ち上がる。

そして話の続きをされないように、自分の食器を片すと急いでダイニングを出て部屋へと戻って行った。




私、なにやってるんだろ…


椅子に座り勉強机に頬杖をつくと、改めて自分が馬鹿みたいだと思った。

どんなに話題を避けようと、迫ってくる時間は避けようもないのに。

けど、明確な期限がある訳ではないのだから、悪あがきをすれば数日ぐらい…数週間くらい延びたりしないかな、なんて。

いっそ竜胆さんからここにずっと居ていいぞ、なんて言われないかな

そんなことばかりグルグル考えていた私は、突然あることを思い出して椅子から立ち上がった。

いけない、体操着明日も使うんだった。
急いで洗濯しなくっちゃ

学校のカバンから体操着を取り出すと、私は慌てて洗面所へと向かった。


竜胆さんちに乾燥機があって良かった。
私の家にはそんな便利なものなかったもんね

乾燥機のある環境に感謝しながら洗面所のドアを開けたときだった。

同時に、ふたつの扉をひらく音が重なる。

竜胆

洗濯に来た私と、お風呂に入っていた竜胆さんが、同時に洗面所に入ってきた瞬間だった。

~~~!!!

すぐに顔を背けたとはいえ、湯気でくもっていたとはいえ。

……み、見てしまった。竜胆さんの裸。


初めて見るお父さん以外の男の人の裸に私は盛大なショックを受け、声も出ないままその場を走り去る。

竜胆

あーゴメンゴメン。
…って、見られたのは俺か

バタバタと廊下を走る私の後ろから、そんな呑気な声が聞こえた。




り、竜胆さんはなんであんな平然としていられるワケ!?

部屋に閉じ篭り、真っ赤な顔を手で覆いながら小声で嘆かずにはいられない。

私ばっかりこんなに赤くなって焦って、なんだか不公平な気がする。

瞼に焼きついてしまった裸をいっしょうけんめい頭を振って払いながら、私は理不尽な気持ちに拗ねた表情を浮かべる。

竜胆さんが恥ずかしく思わないのは、私が子供だから…?
それとも…女の人に裸を見られるのなんか慣れっこだから?

……なんだか嫌なことを考えてしまった。

どちらに転んでも面白くない答え。そんなつまらないことを考えてしまったら、私の胸はモヤモヤした変な気持ちになってしまって。

なのに、さっき見た彼の裸をちょっとでも思い出すと心臓は痛いほどバクバクと高鳴ってしまって。


この夜、私は手に負えないふたつの気持ちのせいでちっとも眠ることができなかった。




翌日。

学校から帰った私はご飯作りと掃除を済ませたあと、リビングで洗濯物をたたんでいた。


昨日の胸のもやもやとドキドキはまだ消えていなくて。

それは、竜胆さんのシャツをたたもうと手にとったとき、いっそう強くなってしまった。

・・・・・・

…竜胆さんは39歳っていってた。

お父さんとほぼ同い年で、私とはそれこそ親子ほどの歳の差がある。

だからこそ、すごく頼れるし安心もするんだけど。

…お父さんと全然違う

私は竜胆さんのシャツをそっと抱きしめながら顔を押し付けてみた。同じ洗剤を使ってるはずなのに私の洗濯物と香りが違うのはなんでだろう。

裸を見てしまったときの気持ちも、抱きしめて慰められたときの気持ちも、シャツの匂いも、お父さんとは全然違う。

どうしてこんなに気持ちが苦しくなったり、穏やかになったり、泣きたくなったりするんだろう。

そんなことを想いながらシャツを抱きしめていると、なぜだか幸せな気持ちになってしまって。

私はしばらく彼のシャツに顔をうずめながら、甘い気持ちにたゆたっていた。


すると。

竜胆

……何やってるんだ?
嬢ちゃん?

ひゃあっ!!

なんと、いつの間にか帰ってきていた竜胆さんが私の背後から声を掛けて来た。

り、竜胆さん!
いつからそこに居たんですか!?

竜胆

いつからって…今帰ってきたとこだけど。
ちゃんとただいまって言ったぞ

すっかり夢心地な気分に浸っていた私は、彼の帰宅に全く気づいていなかった。

どうしよう、変なところ見られちゃった。

あ、あの、これはちがうんです!その…

慌ててシャツを離し、隠すように他の洗濯物にまぎれさせる。

そんな私の怪しい行動を見て、竜胆さんは少し不思議そうな顔をした。

竜胆

そんなに俺のシャツが欲しいなら何枚でもやるぞ?

べ、別にそういうわけじゃ…

竜胆

まあ、そんなもんより
もっといいものが今日はあるけどな

え?

竜胆さんはニッと笑って手に持っていた箱を掲げ、私に手渡す。

なんだろう?と思いながら開くと、中からは可愛らしいチェリーピンクのローヒールパンプスが出てきた。

わぁ、かわいい…!

竜胆

いいだろ。今日、出先で偶然見つけてな。
お嬢ちゃんに似合うと思って買って来たんだ

その言葉に驚いて、私は手元のパンプスと竜胆さんを何度も交互に見やる。

これ…私にプレゼントですか?

竜胆

もちろん

そう言って笑った彼の笑顔を見て、胸がキュウッと痛いほどしめつけられた。

なんだろう、この気持ち…


私は優しい竜胆さんがすごく好きだと思う。

けれど、お父さんやお母さんに抱く“好き”とは全然違う。甘えたくなるところは似てるけど、なんだか違う。

仲良しの友達の“好き”とも、ちょっと似てて全然違う。ずっといっしょに居たい気持ちは似てるけど、もっとなんだか苦しくなる。


きっとこれは新しい“好き”だ。

そう思ったら、私は嬉しくなって笑顔が溢れるのが抑えられなくて。そして、この気持ちを伝えたいという想いもいっしょに溢れ出した。

竜胆さん、大好き


私の言葉を聞いた竜胆さんは一瞬とても驚いた顔をした。

けれど、すぐに穏やかな笑みを浮かべると

竜胆

嬢ちゃんはいい子だなあ

と言って、大きな手で頭を優しく撫でてくれた。

――それはすごくうれしくて、

だから私は
彼に自分気持ちがちゃんと伝わったんだと
思っていた。

けれど。




竜胆

明日、市役所に行こう

竜胆さんは翌日の朝食の席で突然そんなことを言い出した。

え?

竜胆

嬢ちゃんを養護施設で預かってもらう
手続きをしなくちゃな


――願いは、叶わなかった。

竜胆

この分じゃ葉山先生もいつ帰ってくるか分からないし、嬢ちゃんもこれから進路相談とかあるのに保護者がいない状態じゃ困るからな

…はい…

分かっていたことなのに、最初から決まっていたことなのに、私はなんだかすごくショックで俯いた顔が上げられない。

竜胆

大丈夫だ、学校が変わらないように
なるべく近いとこ探してもらうから。
だから嬢ちゃんは心配すんな

竜胆さんはコーヒーをひとくち飲んでから、いつもと変わらない様子で言った。

私は視線を落として竜胆さんを見ないまま小さく頷くと、急に喉を通らなくなってしまったパンを無理矢理水で流し込んだ。





手続きはスムーズに進んで、私は今度の週末から地元の児童福祉施設で暮らすことになった。正式な受け入れ先が決まるまで一時的にそこで過ごすことになるらしい。

あっというまだなあ…


テキパキと進んでしまった自分の住居問題になんだか思考が追いつかなくて、私は部屋で荷物を片付けながらボンヤリとしてしまった。

竜胆さんが保護者になってくれちゃ駄目なのかな…


未だにそんな未練たらしいことを考えてしまう。

けれど、まだ独身の竜胆さんにそんな親代わりになってもらうのはさすがに悪いし、なんだか違う気もして考え直した。

…違うな。
竜胆さんとは一緒にいたいけど
親になって欲しいワケじゃないし


少ない荷物をカバンにひとつひとつ入れていると、持ち出したものよりいつの間にか彼に買ってもらった物の方が多くなっていたことに気づく。

竜胆さんは家事手伝いのバイト代だからって言ってたけれど、私の拙い家事では全然見合わなかったと思う。

結局彼は最初から私に全てプレゼントするつもりだったんだろうと思うと、胸がギュウっと切なくなって涙が滲んできた。

やっぱり竜胆さんともっと居たい。だって、こんなに大好きなんだもん

けど、それが彼の迷惑になることも、自分のためにならないことも、世の中のルール的に駄目なことも分かっている。

…ちゃんと、さよならを言う心の準備をしなくっちゃ

私は涙をゴシゴシと拭うと荷造りの続きを始め、それから。

・・・・・・・

まだ降ろしていないチェリーピンクのパンプスを手にすると、立ち上がってリビングに居る竜胆さんの元へと向かった。



竜胆

ん、どうした嬢ちゃん?

リビングの入口に立つ私を見つけて、竜胆さんはソファーに座ったまま声を掛ける。

私はパンプスを抱きしめて、泣きたくなる気持ちをこらえながら笑顔を作ると明るい声で言った。

竜胆さん。今度の日曜日、福祉施設に行く前に、いっしょにお出かけして下さい

せっかく買ってもらった靴、まだ履いてないから。だから、最後にいっしょにお出かけして下さい


私の言葉に竜胆さんは少し驚いた顔をしたあと、穏やかに微笑んでゆっくりと頷いてくれた。






――6月の日曜日。さよならの朝。

竜胆さんに買ってもらったワンピースとカーディガン、それにチェリーピンクのパンプス。

それらを身に付けて私は竜胆さんとドライブに出かけた。

竜胆

うん、その靴やっぱりよく似合うな。カワイイ、カワイイ

ちょっとチャラい気もするけれど、でも褒められたことが嬉しくって、私は顔が勝手にニヤけてしまいそうになるのを一生懸命こらえる。


竜胆さんは車で色んなとこへ連れてってくれて、きれいな景色の道路を走ったり、美味しいアイスのお店に行ったり、小さな遊園地へ連れて行ってくれたりした。


ふたりでいる時間はとっても楽しくて、時計の針はあっという間に過ぎていく。

時間…止まらないかな

段々と傾いていく太陽を助手席の窓から眺めて、私は何度もそんな風に願った。

けれど、馬鹿げた祈りは届くはずもなく、空はついに夕焼けのオレンジに染まってしまった。



竜胆さんが最後に連れて来てくれたのは静かな海岸で、ふたりで波打ち際をゆっくりと散歩した。


砂浜を歩くには難しいので、私はパンプスを脱いで大切に両手で抱きしめて歩く。

隣を歩く竜胆さんが

竜胆

転ぶなよ

なんて優しく笑いかけるから、私は迫ってくるさよならが悲しくて、どんどん胸が苦しくなってしまう。

竜胆さん

足を止めて呼びかけると、彼も足を止めてこちらを振り返った。

今まで本当にありがとうございました

さよならの覚悟をしてお礼を告げた私に、竜胆さんは少し切なげに目を細めた。

1ヶ月前、お父さんも家もなくなっちゃって人生で最悪な日だと思ってたけど、今では竜胆さんと出会えたから良かったと思ってる

家が燃えちゃったのに良かったは変かな、と反省したけど、まあいいやと思って言葉を続ける。

この1ヶ月すごく優しくしてもらえて嬉しかった。いっしょにご飯食べてお喋りして、お土産もらったり、勉強教えてもらったり、時々いっしょに買い物行ったり…全部すごく楽しかった

そして私は、とびっきりの笑顔を作って彼に向ける。

大好きです、竜胆さん。大好き。
だから

――けれど、抑え切れない気持ちはついに瞳からあふれて。

……だから…
私のこと忘れないで……

私は背の高い竜胆さんの腕にしがみつくと、一生懸命つま先立ちをして彼の頬にキスをした。



――もう会えないかもしれない。

このままお父さんが戻ってこなければ私は遠く離れた養護施設で暮らして、竜胆さんとは赤の他人になってしまうのだから。

だから、せめて。

希のこと…忘れないでください


覚えていて。あなたに初恋をした女の子のことを。

竜胆さんはしばらく私を見て黙っていたけれど、やがてふっと口元を綻ばせるとそっと頭を撫でてきた。

竜胆

…まったく、しょうがない嬢ちゃんだな

そして、涙に濡れた私の頬ごと大きな両手で優しく包む。

竜胆

18歳になって高校を卒業して、それでもその気持ちがまだ変わってなかったら、またウチに来な

……え?

竜胆

そのときは“同居”じゃない。“同棲”だ

瞳をまっすぐ見つめて言われた言葉に、驚きでキョトンとしてしまう。

そんな私を見て竜胆さんは照れて困ったように笑った。

竜胆

俺はロリコンじゃねえんだけどな。
けど、こんな可愛い子に迫られて大人しくしていられるほど枯れてもいねえんだよ

竜胆

だから、待っててやるよ。希がもう少し大人の階段のぼるまでな

そして竜胆さんは、驚いて目をしばたかせている私の頬に、チュッと軽いキスを落とした。

竜胆

この恋の続きを教えてやるのは、そのときだ

・・・・・!!


きっと、私の頬は夕暮れの海に負けないぐらい真っ赤だったかもしれない。

竜胆さんは可笑しそうに肩を竦めて笑うと、ポンポンと私の頭を撫でてから

竜胆

さ、行くか

と言って、歩き出した。





砂浜に足跡を残しながら、私は竜胆さんの隣を歩く。

まだずっと先だけど、きっとこの胸のときめきは変わらない


ふと見上げた横顔はチャラくて軽そうなのに誠実な大人の表情をしていて、私は幸せにときめく胸に、ギュッとチェリーピンクのパンプスを抱きしめた。



きっと、次に並んで歩くときは、ハイヒールのパンプスを履いてるだろう自分を想像して。






第3話・おじさまとローヒールのパンプス

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