3.7日の世界を選んだもの達

 空を見上げると、そこには漆黒の夜空とそこに浮かび上がる星々が煌めいていた。そして眩いばかりに輝く満月も存在していた。

佐藤君、この世界を案内してあげる

 水瀬は俺に手を差し出した。優しく微笑む彼女を見つめ、胸の奥がじわりと温かくなったように感じられた。彼女なりに気を紛らわせてくれようとしてくれているのだ。

ありがとう…

 いつまでも、悲しんでなどいられないのだ。そうしている間にも、刻々と時を刻んでいってしまう。一日一日を大切に過ごしていかなければならないのだ。

この先を進んでいくと、この世界で一番
人が集まる大広場に出るわ…ほら、
聞こえるでしょ?楽しそうな声がここまで

 仄かな街頭が二人の影を作り上げながら、人通りの少ない路地をゆっくりと歩く。彼女の言葉通り、遠くの方からは賑やかな声が聞こえていた。

本当だ。水瀬はこの世界の事、詳しいんだな
みんな、この世界に来たのは同時だろ?

 彼女は、くすりと唇に笑みを乗せた。

目を覚ますのが、遅かったのよ佐藤君は。
私はあなたよりずっと先に目を冷まして、
この世界を探検していたから

 そうだったのかと、妙な恥ずかしさが全身を駆け巡り、遠くの方を見つめた。

 大広場があるとされている場所の空は、たくさんの光によって地上だけでなく、夜空をも淡く照らしていた。

この世界は7日で壊れてしまうのに、
どうして皆、笑っていられるんだ…?

 ふと、漏らしてしまった言葉。ここまで聞こえてくる賑やかな笑い声や、俺達の側を行き交う人々は皆、笑っていたのだ。それは心の底から楽しいというように、偽りのない笑い声だった。

7日で壊れてしまう世界だからこそ、
笑っていられるんじゃないかな

 この世界を選んだ人達はみな、納得しているのだ。わざわざ7年という長い年月を過ごすのではなく、7日という短い日を過ごすことに。

この世界に来た人たちには、
いろんな思いがあるの。それはきっと
悲しいものばかりだと思う。
だからこそ、この世界で笑ってられるんだよ

悲しい…?

あなたもこの世界を選んだということは、
"長く生きたい”と思えなくなった
からでしょ?

 ぐっと言葉に詰まった。この世界にいる全てのもの達の核心を触れたその一言は、静かに空気を震わせた。

水瀬も…だろ?

そう。私も、あなたと一緒

 彼女は小さく微笑み、静かにそっと目を閉じた。

この世界にきてから、
とっても心が穏やかなの。
こんな気持ちになるのは、初めて

 風が吹き寄せて、周囲の木々が葉を揺らした。ひらひらと色付いた葉が宙に舞い上がる。

ほら、あと少しで大広場だよ。行こう!

 彼女が指した先には、石段の奥にアーチ状の装飾を施した壁面があった。それが大広場へと続く入り口なのだそうだ。賑わう声は一層大きくなり、意識せずとも心を弾ませた。

4.叶える願い

うわ…っ、こんなに人が…!

 アーチを潜ると、そこはまるで別世界のようだった。広場の中央では、生演奏に合わせて男女が踊り交わし、それを肴に酒を楽しむ人々、会話に花を咲かせている人たちなど、まるで盛大なお祭りのようだ。

私がここに初めて来た時からずっと
やってるの。この調子なら、
7日間ずっと騒ぎっぱなしかもしれないね

あ…すごくいい匂いがする

 広場全体に漂う匂い。それは獣の肉を焼いた香ばしい匂いと、甘美だと匂いだけでわかるほどの果実の香り、さらに小麦なのかおそらくパンの匂いが辺り一面に漂っていた。

 なんとも食欲をそそる香りに、思わず腹の音がなる。そういえば、この世界に来てから何も食してはいなかったのだ。

何か食べよう!私もお腹空いちゃった

 俺の空腹を主張した腹の音が、水瀬にも聞こえていたようだ。 華奢な身体を震わせて、彼女はくすくすと笑った。

で、でも、俺…お金持ってない

 懐や衣嚢を弄ったが、財布どころか小銭さえ見つからない。どうしようかと悩んでいると、彼女は慌てて手を振った。

この世界にお金の存在はないの

…え?どういうこと?

この世界には色々な国の人達が集まってるの
通貨は国々よって価値が違うし、それ以前に
7日で終わってしまうこの世界に、
お金の価値なんてないもの

あ、そっか。考えて見ればそうかも…

それに、この世界では言葉の壁も
存在しないの

 彼女は確かめるように、身近に連なっている屋台の主人に声をかけた。

おじさん、これとっても美味しそうね

いらっしゃい!うちのモンは世界一だぜ

 俺は驚いた。見るからに人種の違う彼の言葉がはっきりと聞き取ることができる。驚きを隠せないでいる俺の様子をちらりと横目見た彼女はさらに、彼に問いかけた。

私の分と彼の分、いただける?

あいよ、熱いから気をつけなよ

あ、ありがとうございます

 見たところ、何の肉を使用しているのかはわからないが、炭火で焼かれたそれは串に刺さり、トロリと赤黒いソースが掛けられていた。

お…美味しい!

 口に入れた途端に広がる旨さ。噛むたびに肉汁が溢れ出し、そして肉厚でいて胡椒の辛みも絶妙だ。この酸味のあるソースが一層、旨味を引き立たせている。

だろ?見たところ、兄さんアジア系だな?
この味は兄さんの国では味わえないだろうよ

はい、こんな美味しいもの食べた事ないです
…でも、どうしてお金にならないのに、
こんなことを…

 思わず出てしまった言葉に、あっと口を紡ぐ。初めてあった人になんて無礼なことを、と申し訳なく彼の顔を見れずにいると、予想に反し陽気な笑い声が降ってきた。

決まってるだろ?兄さんみたいに
美味しい、って人を笑顔にするためだ

…え?

この世界に来る前、俺は面白味のない公務員だったよ。小さい頃は料理人になる事が夢
だったが、現実はそんなに甘くねぇ。
面白くもない日々を淡々と過ごす事が、
苦痛でたまらなかったよ

…それでこの7日の世界を?

あぁ。あの世界にいたら、俺がいつか
壊れちまっていたよ。…神さんには感謝して
るんだ。こうして好きな事ができるからな

…色々深く聞いて、すみませんでした

なぁに、この世界にいるやつ皆、
運命共同体なんだ。仲良くしていこうぜ!

 彼に会釈し、再び水瀬と歩き出す。陽気な声が木霊するこの空間がとても居心地がいい。

…ねぇ、佐藤くん。ここにいる人達は、
さっきのおじさんのように元の世界では
生き辛くなった人達がこの世界を選んだの

…?それがどうかしたのか?

 彼女は髪を夜風になびかせ、寂しそうに目を伏せた。俺は意図的に呼吸の速度を落として、水瀬の淡泊な口調に耳を澄ませる。

この世界に来たからといって、
すぐに笑っていられると思う?

 彼女の真意が掴めない。放つ言葉もなく、ただ困惑の色を浮かべていると彼女は小さく首を振った。

佐藤くんを困らせたいわけじゃないの。
…ただ、知って欲しいことがあって

知ってほしいこと…?

 そう尋ねると、彼女は一瞬瞼を伏せた。そして、短く息を吸い込んだあと、ふわりと小首を傾げて微笑んだ。

7日で壊れてしまう世界を選んだもの達
全てに、神様は情けとして、そのもの達の
願いを聞き入れたの

願い…?

きっと、さっきのおじさんの願いは
"料理人”になること。神様はその願いを
聞き入れ、この世界でその夢を叶えて
くださったの

 そして彼女は、俺の目を真っ直ぐに見つめていた。

あなたは神様に、どんな願いをしたの?

俺の願い…?

 全てを、見透かされているような気がした。 しかし、神が願いを叶えるだなんて、彼女から初めて聞いたことだった。

 あやふやなのだ、この世界に来るまでの記憶が。もっとも、自分自身も気付いていなかったことだから、このときは見透かされていることにすら気付かなかったのだが。

水瀬は…どうなんだ?神に何を願った?

 彼女が少し、顔を歪めたような気がした。

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