濃紫色に染まった部屋の床に、一つの影が倒れている。

 ふわりと広がった栗色の柔らかい髪が、影がまだ少女であることを告げていた。

今回も、駄目だったか

 動く気配すらない、少女の影を一瞥し、深い溜め息をつくのは、髪に少しだけ白髪の混じる、それでもまだ精悍そうな男。

 男はそのまま、傍らに置かれた、少女が飲んでまだ半分残っているワイングラスを手に取り、残っていた紫色の酒を飲み干した。

……

 多量の金貨と引き換えに男の許へとやって来た没落貴族の娘に、何の感情も湧かない。これは、呪いなのだ。その呪いを知っていて、それでも金に目が眩んだ少女の両親は可哀想な少女を男に売った。それだけの、話だ。

 それでも、……男を知らずに死んだ少女に、慈悲を掛けるくらいは良いだろう。

 男は少女の身体を抱き上げると、紫に染まった少女の唇に、自分の唇を重ねた。

お帰りなさいませ、旦那様

 聞き慣れた執事の声に、我に返る。

ああ、ただいま、ヘンリー

 それでも快活に、ヴィクターは執事ににこりと笑いかけた。

留守の間、変わったことは無かったか

いいえ

 都会から帰った後の、いつも通りのやりとり。そして何時もの如く、執事ヘンリーが顔を曇らせていることが、見なくても分かった。

今回も、また……

 らしくなく語尾を濁したヘンリーに、殊更快活に笑う。

ああ、失敗だ

 それ以上何も言わず、ヴィクターはヘンリーに帽子とコートを渡した。

……ああ、そうそう

 そしてそのまま玄関ホールを大股で横断しようとしたヴィクターに、ヘンリーの声が響く。

トレヴァー様が、昨日いらっしゃいましたが

 執事の口から出て来た言葉に、くるりと、振り向く。しかしあくまで平静な執事の顔に、ヴィクターは再び執事に背を向けた。

 ヘンリーの調子から察するに、おそらくあいつは玄関に足を踏み入れること無く追い出されたのだろう。

いい気味だ

 ヴィクターは執事に見えない所で、そっと静かに笑った。

 『試練』を受け、乗り越えることができれば、いつでも養子に迎えてやる。零細貴族であった母の、同じくらいの零細貴族に嫁いだ妹の息子であるトレヴァーにはいつもそう言っているのだが、臆病なあいつは『試練』を受けるとすら言わない。ただひたすら、ヴィクターの財産を狙って、この屋敷周辺に現れるだけの、意気地無し。

 しかしながら。

何時になったら、この呪いから解放されるのでしょうかね。私達一族は

 玄関の向かい、二階へ続く豪勢な階段の踊り場の一番目立つ場所に飾られた、初老の男性の肖像画に、そう、心の中で尋ねる。

 肖像画に描かれた人物は、一族を起こした初代ヴィクター。それから代々、家を継ぐ長子はヴィクターを名乗っている。

 初代ヴィクターが、森林地帯であったこの地を開拓したとき、森に住む妖精から呪いを受けた。屋敷の地下に湧く、紫色の酒『アメシスト』。

 その酒は一族にとっては薬となるが、一族以外の者にとっては、毒。この紫色の酒を飲める者のみが、一族として認められるという、呪い。

 『アメシスト』を飲むことが、『試練』。その試練を乗り越えずに長子の養子となり、または長子と結婚した者は、その日のうちに紫色の液体を吐いて死んでしまう。

 ヴィクターの場合、『試練』を乗り越えた女のみが、ヴィクターの花嫁となりうる。……その女性は未だ、ヴィクターの前に現れてはいないが。

私の気力が続くうちに、『試練』を乗り越えることができる女人が現れるだろうか?

 壁にかかった鏡に映る、白髪の分布に溜め息をつく。

 『呪い』のことは、国中の貴族が知っている。だが、ヴィクターの一族が持つ莫大な財産は魅力的に映るらしく、貧乏な没落貴族からの娘の紹介は、引きも切らない。

 だが、それでも。

 『試練』を乗り越えることができる女人は、未だ現れてはいない。これからも、現れる確率は低いだろう。

 時々、この一族に生まれて来たことを、呪ってしまう。『呪い』という、ヴィクター自身にはどうしようもない理由があるとはいえ、『試練』を課すことで少女達の命を奪っているという罪の意識と、誰も『試練』を突破してくれない寂寥感が、ヴィクターを掴んで放さない。

 ヴィクターの父も、ヴィクターと同じ様に考えていた時期があったようだ。一族の歴史の中で初めて、父はこの土地を出、この国の首都に壮大な屋敷を構えた。

 だが、首都に構えた屋敷の地下からも『アメシスト』が湧き出したことで、父は『試練』から逃げることを諦めた。そう、父はヴィクターに話した。

それでも、貴方は伴侶を得た

 居間の壁に掛かる父の、自分に良く似た肖像画に、鋭く呟く。

 父の肖像画の横には、ふっくらとした笑みを浮かべている母の肖像画がある。薄い紫色の服を着た母は、本当に幸せそうに見える。実際、優しい父と不自由ない生活を送っていた母は、幸せだったのだろう。……子供が、自分一人だったとしても。

 父は、幸せだった。そして、母も。しかし、自分は?

 家に入れず、身体だけの関係であれば、女に『呪い』は振り掛からない。それで良いではないか。そう、思ったことも何度かある。

 だが。

……ヴィクター

 そのことを考えた途端に、ヴィクターの脳裏に浮かぶのは、一人の浅黒い肌の少女のこと。

……!

 ヴィクターも少女もまだ未熟であった時に、ヴィクターは本能のままに少女を組み敷いたことがある。そのときの少女の、茂みに咲いたライラックの花を映した紫色の涙が、どうしても忘れられない。

 だから、でも無いが、行きずりの女と関係を持つことを、ヴィクターはいつも躊躇っていた。

お茶をお持ちしました

 執事の声で、我に返る。

……

 振り返ると、銀器を持った執事の後ろに隠れるように、菓子の入った盆を持った少女の姿が、見えた。

久しぶりだね、マリー

……

 執事の後から盆をテーブルにそっと置く少女に、そう声を掛ける。少女マリーはヴィクターを見て、はにかんだような笑みを浮かべた。

 マリーは、十五年前に屋敷の玄関に捨てられていた少女。泣きもせず、ただ瞳を見開くばかりの赤ん坊を見つけたのは、ヴィクターだった。その赤ん坊を村人に預けず、屋敷で働く下男夫婦に預けたのは、赤ん坊があの浅黒い肌の少女に似ているような気がしたから。そして、下男夫婦が亡くなった後も、マリーはこの屋敷のメイドとしてくるくるとよく働いている。

 ヴィクターは時々、気が向けばマリーに字を教え、またヴァイオリンやピアノの弾き方も教えている。文字はともかく、楽器については、ヘンリーから「貴族の娘を育てているのではないのですよ」と要らぬ注意を受けるが、マリーは何でも一生懸命こなすので、つい好意を持って教えてしまう。口が利けないことを除けば、マリーは立派な『貴族の娘』で通るだろう。

 ヴィクターの気持ちを知っているのだろう、お茶を淹れたヘンリーはすぐに、一言も発することなく一礼して部屋を出て行った。テーブルにお菓子の盆を置いたマリーも、一礼してヴィクターに背を向ける。

マリー

 そのマリーを、ヴィクターは呼び止めた。

お土産があるんだよ、マリー

 部屋の隅に置かれた旅行鞄から、首都で買い求めた本の包みを取り出す。

 その包みを、ヴィクターはマリーに渡した。

開けてご覧

……

 おずおずと、マリーが包みを破る。

 包みから出てきたのは、美しい革表紙の重い本。

……

中を見てご覧

 抱き締めるように本を持ったままのマリーに、もう一度、声を掛ける。

……

 いとおしそうに本を開くマリーの瞳が、大きく見開かれたのを、ヴィクターは見逃さなかった。これが楽しみで、マリーに本を買って来たのだ。

 本の内容は、最近編集された童話集。色刷りの挿絵が美しい、少し高価な絵本。

綺麗だろう?

……

 ヴィクターの言葉に、マリーが頷く。

音楽の授業も、最近やってなかったから、明日からまたやろうか

……

 喜ぶマリーの顔に、ヴィクターの心も少しだけ軽くなった。

 このまま結婚できず、一族が絶えるなら、それはそれで構わない。困るのは、ヘンリーとマリーだけだ。

引退するなら、マリーに良い婿を見つけてからだな

 口の利けないマリーを邪険に扱わない、誠実な男を探さねば。本を見てニコニコと笑うマリーを見ながら、ヴィクターはそう、心に決めた。

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