大量のしぶきと、残響もなく消えた水音。
声をあげる暇もなく玉慧は大水槽の中へ消えた。

瑞留

(何やってんだ)


単純にそう思い、水槽に駆け寄り膝をつく。
すぐに浮かんでくると思った。が。

瑞留

(……浮かんでこない)


服が重いのだろうか。
水面の揺れは徐々に収まっていく。

瑞留

(泳ぐつもりがないのか?)


水中を覗き見ようとして、俺はうっと小さくうめく。
水面には大量の魚の餌くずがあった。この水槽には小さく切った魚の切り身を餌としてばらまく。当然のように生臭く、俺はバラまくことさえ抵抗があった。

瑞留

くそ……!


さっさと浮いてこい馬鹿野郎、そう水面に念じるも気配はない。
もしかして玉慧は泳げないのだろうか。そう思うとこちらのほうが吐き気がした。
いつも吐く吐くとうるさい、汚泥欠損フリークの玉慧。

誰か助けを呼んでくればいい。
一瞬はそう考え、立ち上がったが。

瑞留

…………


思い出していた。
いつも口論ばかりしている、名前ばかりのパートナー候補。馬鹿正直で幸也のことも椿のことも表面しか見えていない。騙されやすい考えなしの女。

けれど玉慧は、いくら『自分のフリーク』のことを馬鹿にされても『他人のフリーク』を馬鹿にはしなかった。

瑞留

(あの時、も)


薄暗い部屋に浮かんだ、白い猫を抱えた顔。絶望的な表情でこちらを見ていた。いつでも顔にすべてが書いてある。
こんなつもりじゃなかった、と。

短くため息をついて、制服のジャケットを脱ぎ捨てる。大きく息を吸い、止める。
顔を顰めながら水面の餌くずを見ないようにして、飛び込んだ。

ゆらゆらと揺れていた、水面の境界線を越えて。

境界線はいつも曖昧だ。
泡立ち揺らめき、常に動いている。
溶け合わないように見えてお互いに干渉し続けている。
まったく違う考えかただと思う一方で、本質は一つだった。

同じことで争っている。

その意識はあった。
ただあいつはそれに気付いていない。気付かなくていい。
これまでもこれからも、それでいい。
そう、考えていた。

――シーエッグ 医務室――

玉慧

っ!!


突然横で、派手に布団が飛ぶ。
見てみれば玉慧が大きく目を見開いて体を起こしていた。

瑞留

…………

玉慧

え、え


うろたえている。
想像はついていたので、いくつか用意した言葉の中から一つ選ぶ。

瑞留

泳げないくせに水槽に落ちるんじゃねぇよ間抜け

玉慧

ご……ごめん……


そう返されると何も言えない。

瑞留

(別に話す必要もないか)


そう割り切って椅子に座ったまま出入り口に視線を放る。先生はまだ帰ってこない。用事を済ませたら戻ってくると言っていたのに。
そうして黙っていると、何か話そうとしたのか玉慧が細切れに息を吸い込んだのが聞こえた。
こっそりと表情を盗み見れば、これも分かりやすい。状況を把握出来ずにいるのが手に取るように伝わってきた。

玉慧

あの……瑞留が助けてくれたの……?


答えは用意していたが。
結局のところ、気まずい返答になった。

瑞留

目の前で落ちたら助けないわけにはいかないだろ。嫌でも

玉慧

だよね……すみません……

瑞留

…………


しばらく沈黙が続いた。

瑞留

(なんで戻ってこないんだあいつは)


玉慧を自分に任せて席を外した教師に恨みが募る。仲が悪いのは承知しているはずなのに、あの教師はそういうことをする。

水槽に落ちてずぶ濡れになったのでシャワーは浴びたが、何だかまだ汚れているようで居心地が悪い。もう一度シャワーを浴びて着替えたい。
そう思ってるところに、ぱた、ぱたと音が聞こえた。小さな音だった。

玉慧

ごめんなさい……

瑞留

……!?


玉慧の大粒の涙が布団に落ちた音だと知り、ぎょっとする。
こればかりは想像していなかった。

玉慧

助けたくなんてなかったよね、ごめん……
わたし、ちゃんと謝ってもいなかったし

瑞留

……は?

玉慧

は? って。
いや、だから、人形壊しちゃってごめん

瑞留

ああ……

玉慧

ああって。大切な人形なんじゃないの?
怒ってないの?

瑞留

怒ってるに決まってるだろ

玉慧

で、ですよね


そこまで話して、ようやくつかめてきた。

瑞留

……人形を壊したことに腹を立てて、助けたくなかったんじゃねぇよ。
そんなことを理由にできるか

玉慧

え。違うの?

瑞留

水が汚かったからだ

玉慧

……はあぁ? そっち?
その理由のほうがおかしいでしょ

瑞留

はあぁあ? おかしいのはお前だ。
だいたいお前、着替えは先生がやってたけどシャワー浴びてないから臭いんだよ

玉慧

それは確かに……生臭い

瑞留

あーマジで早く部屋に戻りてぇ。
なんでいつまでもこいつに付き合わないといけないんだ……

玉慧

先生は?

瑞留

知らん。戻ってくるって言ってたのに


いつの間にか口論のようになって、いつの間にか玉慧の涙もどこかへ消えていた。
安心した一方で、腹立たしさもあった。

瑞留

人形は弁償しろよ

玉慧

……え?

瑞留

お前の猫が壊したんだろ。
ならお前が弁償しろ

玉慧

わ、わかった。
でも……先生に言わないの?

瑞留

何が

玉慧

猫のこと。だって、ペット禁止でしょここ

瑞留

知るかよ。勝手に俺の部屋に入れんな、以上

玉慧

そうですか……


ホッとしたような表情を見て、妙な気分になる。
気がつけばこちらもホッとしていた。

瑞留

(こいつが気にしてたのは猫だけか)


思った通りではあった。
人形に――『他人のフリーク』に口を出さない玉慧。分かってはいたことだが、改めて思うと少し胸が痛む。

瑞留

(さんざんこいつの『フリーク』に文句をつけてきたから)


玉慧は汚いもので欠けたもので身を固め、美しいものからは目をそらす。
それ自体を信じられないと、俺は何度も否定してきたのだった。

瑞留

(でもこいつは、否定しない……)


世間から見てもどちらのフリークが受け入れられやすいか。そう考えてしまう節は依然としてあった。
清潔で美しくあることは好まれるが、不潔で汚れていることは厭われる。当然だ。ずっとそう思い続けていたし、これからもその考えは消えることはないだろう。
ただ、別の考え方も生まれた。

瑞留

(例えそうでも、アンチラブ・フリークスにとってそれが変えられない生き方なら)

瑞留

(口に出しても相手を傷つけるだけだ)


『男が大量の人形を集める』行動は、世間から見て受け入れがたいだろうという認識はあった。
だから隠していたし、誰に意見もされたくなかった。
それが見とがめられて初めて理解する。

瑞留

(俺のほうが、ガキだ)


自分の身になってみないと悟りもしない自分の幼さにようやく気付いたのだった。

情けないような悔しいような気持ちでいると、まだ惚けたような表情でいた玉慧がぽつりと呟く。

玉慧

まあ、もう話しちゃってもいいんだけどさ

瑞留

……黙っといたほうがいいんじゃねーのかよ

玉慧

や、もう逃げちゃったんだよね。猫

瑞留

は?

玉慧

い、いや……別にわざとじゃなくて、ちょっとした事故っていうか

瑞留

でも飼ってたんだろ

玉慧

飼ってたけど。
バレちゃダメだと思っていつも部屋に閉じ込めてばかりだったし、やっぱり外に出たかったのかもって思ったから……

瑞留

じゃあいいのか、逃げたままで

玉慧

…………


どう答えたらいいのか、悩んでいるようだった。

瑞留

俺のせいで逃げたんだから俺に探すの手伝えって言ってるんじゃねぇの

玉慧

え!? ち、違うよ。
逃がしたのはわたしのせいだし、元々飼っちゃダメだったわけだし。そんな意味で言ったわけじゃ……

瑞留

うぜぇ

玉慧

はぁ!? なんでそうなるのさ! あんたホント口悪いよね!


そのくらいは駆け引きすればいいのに。度が過ぎた善良さにイライラする。

椅子から立ち、上から見下ろすように玉慧に質問する。

瑞留

猫の名前は?

玉慧

え、なんで

瑞留

なんで? 変な名前だな

玉慧

名前なわけないでしょ!
……テトだよ

瑞留

どこで逃げたんだよ

玉慧

商業施設の……公園……

瑞留

…………。
猫を探すの手伝ってやるから、部屋の話は誰にもするなよ

玉慧

……!
そんなの、最初から言うつもりなかったよ!

瑞留

うぜぇえ……

玉慧

だからなんでさ!?


ますますイライラしながら医務室を後にする。
俺と玉慧は本当に分かり合えないなと、そう思った。

――シーエッグ 廊下――

先生

あ、瑞留。お待たせー。玉慧起きた?

瑞留

おっせぇえんだよクソ教師……!


医務室を出てすぐに、待っていた先生が到着する。一体どこまで行っていたのやら。

先生

起きたんだね。じゃあもう帰ってもいいよ~

瑞留

くっ……!!


すぐに察するところが余計に腹立たしいが、とにかくその場を後にする。

自室に戻って。シャワーを浴びて。服を着替えて。すべて洗濯に出そう。
洗濯の日は明日だから、シャツが足りなくなったら新しいものを買って――。

しかしふと、足を止める。

瑞留

(猫を捕まえたら、猫の毛がつくか)


動物は好きじゃなかった。
毛が飛ぶし、清潔とは言えないし、その上匂いもある。しなやかな体躯を美しいと思うことはあったが、写真や動画で十分だった。
そんな自分が猫を捕まえられるのかと言えば、だいぶ不安がある。

瑞留

(猫は噛んだり引っ掻いたりするんだよな……)


ますます不安だ。何か病気になったりはしないのか。
そもそも猫の生態を知らないからどこに逃げたものか見当もつかない。

瑞留

…………


とりあえず、着替えるのは猫を捕まえてからにしようと思い直して立ち止まる。
そして携帯を取り出した。

瑞留

(仕方がない。助けを呼ぶか)


今一番連絡したくない相手だったが、やむを得ない。
そして電話口に出た相手を真っ先に罵倒して、俺は用件を話し出したのだった。

水面の境界線 第二話 『瑞留』 前編

facebook twitter
pagetop