老執事の転移魔法とその後の案内で、魔族たちが住む大陸の中心、魔王の城を見上げたアキトは、その城の異様さに、思わず喉を鳴らした。

アキト

これが……魔王の城……?

立ち止まったアキトを振り返り、老執事がこくりと頷く。

はい。
この城には魔王様と姫様を筆頭に、様々な魔族が住んでいます。
もしあなたが人間だとバレた場合、最悪死ぬことになりますので、言葉や行動には十分注意してください

アキト

うぐっ……。
わ……分かりました……

物騒な忠告に思わず頬を引き攣らせたアキトに、老執事は小さく笑ってから歩を進めた。

まずは私の部屋で作戦を立ててから、すぐにでも行動しましょう……。
こちらです

はい、と返事をしてから、アキトはもう一度だけ城を見上げる。

アキト

待ってろよ……ルリ……

目の前に聳える城のどこかにいるであろうルリイエに向かって、小さくつぶやいたアキトは、すぐさま老執事の後を追いかけた。

ルリイエは、僅かに開けられた小さな窓から、重くのしかかるように空に広がる分厚い雲と、眼下に息づく魔族たちの街を、ぼんやりと眺めていた。
父――魔王による実質的な死刑宣告から四日がたったこの日。自分は魔力を抜き取られ、死ぬことになる。
それ自体は別にどうでもよかった。
父の手によって投獄され、魔力を抜き取るといわれた日から、すでに覚悟はできていたのだ。いまさら取り乱すことも無い。
今、ルリイエが胸を痛めているのは、あの小さな村で過ごした輝かしい日々を思い出してのことだった。
この城から逃げ出す前の暮らしと違って、料理も洗濯も掃除も、身の回りのことは全部自分で――それどころか、一緒に暮らしていたアキトの分も含めて二人分をやらなければならなくて、苦労はあったし、大変でもあった。
それでも、確かに自分の力で日々を過ごしている、そんな充実感があり、とても楽しかった。
だが、そんな思い出も、もうすぐ消えてしまう。

ルリイエ

せめて最後に一目でいいからアキトに会いたかったですが……、そんな願いなんて、叶うはずがありませんね……

胸に去来するそんな思いを、ため息と共に飲み込んだときだった。
上のほうで、扉が開く音がしたかと思うと、程なくしてこつこつと石畳を叩く音が聞こえてきた。
もしかして、父が自分の様子でも見に来たのだろうかと身構えるルリイエの前に現れたのは、メイド服を着た一人の女性魔族だった。
ルリイエの牢の前で立ち止まった彼女は、ゆっくりと膝を着き、牢の下から食事が載せられたトレイを差し入れる。

姫様……。
さ……最後のお食事を……お持ちしました……

ルリイエ

ありがとうございます……

小さくお礼を言って、食事をトレイごと受け取ったルリイエを見て、メイドは堪え切れなくなったのか、はらはらと涙を流した。
それを見て、ルリイエが思わず苦笑する。

ルリイエ

どうしてあなたが泣くのですか?

だって……、姫様は今日……魔王様に……。
わた……私……姫様に何もできな……くて……

う……うわぁぁあぁああぁああん!!

ついに声を上げて泣き始めてしまったメイドの頭を、ルリイエは鉄格子の隙間から手を伸ばして優しく撫でる。

ルリイエ

私のために泣いてくれるなんて……、あなたはとても優しい子ですね……。
ありがとうございます……。
まぁ、魔族としては失格ですけどね♪

最後におどけるように言うルリイエに、メイドはますます声を上げて泣いた。

ひぐっ……、私……ルリイエ様が……うぅ……大好きなのに……!
なのにお別れなんて……うぐぅ……うわぁあぁああん!

ルリイエ

そんなに泣かないでください……。
……そうだ!

泣き止まないメイドの頭を微笑みながら撫で続けていたルリイエが、突然妙案を思いついたように手を打つ。

ルリイエ

あなたに、私が暮らしていた村でのお話をしましょう……

村……ですか?

唐突な提案にぴたりと泣き止んで首をかしげるメイドに、ルリイエは頷く。

ルリイエ

ええ……。
とても小さな村で……、身の回りのことは自分でやらなければならないほど不便だったけど……、とても暖かくて……楽しい、そんな村のお話です……

ふわり、と微笑んでから、ルリイエはゆっくりと話し始めた。

それからどれくらいの時間がたっただろう。
ルリイエが食べた食事の皿が乾き、あれほど泣いてたメイドがすっかり泣き止んで、ルリイエの話す村での出来事に笑うようになってからしばらくしたころ、ちょうど話の区切りにルリイエが息を入れたときだった。
牢獄へと続く扉をあけた音が聞こえたかと思うと、直後、がしゃがしゃと騒がしい音が石造りの牢獄に響き始めた。
何事かと、思わず顔を見合わせるルリイエとメイドの前に、やがて一体の全身鎧が姿を現した。
一見、幽霊系の魔族、「動く鎧――ガイスト・アーマー」のようにも見えるが、鎧の奥に確かに生き物の息遣いを感じるそれは、鉄格子を挟んでルリイエをじっと見つめた。

……………………

もしかして、魔王がルリイエを魔力を抜き出す儀式場に連れて行くための部下かと、メイドが警戒する。
対する鎧の中の何者かも、そこにメイドがいることが想定外だったのか、正面から向き合う。
そうして、鎧とメイドの奇妙なにらみ合いが始まるかに思われた直後だった。

何故お前がそこにいる……?

鎧の後ろから、ひょっこりと老執事が現れた。
突然のことに、一瞬あっけに取られたメイドはすぐさま我に返ると、鎧を指差す。

執事長!
このものは一体……?
もしかして魔王様の……?

鎧を睨みながらぶつけられたメイドの疑問に答えたのは、意外なことにルリイエだった。

ルリイエ

まさか……アキト……なのですか……?

鎧の中の誰かは、一瞬がしゃり、と動揺したように音を鳴らし、ゆっくりと老執事を振り返る。
それに対して無言で老執事が頷くと、鎧は兜をゆっくりと持ち上げ、その中身を外気に晒す。
薄暗い牢獄に設置された蝋燭の、僅かな明かりに照らし出されたその顔は、紛れも無くアキトのものだった。

老執事が自らの部屋にアキトを招きいれ、提案した作戦はごく単純なものだった。
まずは、廊下に飾られている全身鎧を一つ拝借して、正体が分からないようにアキトに着せる。
そして、ルリイエを儀式場に連れて行く役目を請け負った魔族の振りをして彼女が投獄されている牢へと出向き、そのままルリイエを牢から出し、後は抜け道を使ってルリイエと共に城の外に抜け出す、というものだった。
そんなわけで、なれない全身鎧を纏っていたアキトは、老執事に手伝ってもらいながら鎧を脱ぎ去り、静かに微笑む。

アキト

ルリ……迎えに来たよ……

ルリイエ

本当に……アキト……なのですか?

大きく目を見開きながら、ゆっくりと鉄格子越しに伸ばされたルリイエの手を、アキトが取ろうとした瞬間だった。

貴様!
人間か!?

メイドがぱしん、と乱暴にアキトの手を払いのけ、ルリイエの前に立ちはだかってアキトを睨みつけた。

アキト

え……?
……は?

執事が大丈夫だと頷くから、正体を明かしたというのに、睨みつけられてしまったアキトが混乱していると、まるで噛み付かんばかりにアキトを睨みつけていたメイドの肩に、ルリイエがそっと手を置いて微笑んだ。

ルリイエ

この人はアキトです……。
さっきまで私がお話していた村で、私と一緒に暮らしていた人ですよ……。
そして、私を大好きだと言ってくれた人です……

嬉しそうに微笑むルリイエに、一瞬、きょとんと目を丸くしてから、メイドはおずおずと振り返りながらアキトを指差す。

こんな……人間風情の凡庸な男が……ですか?

アキト

凡庸で悪かったな……

憮然とするアキトを、ルリイエが「まぁまぁ」と宥めてから、首をかしげた。

ルリイエ

それで……どうしてアキトがここに?

アキト

……ってそうだった!
事情はルリの執事さんから全部聞いて知ってる。
ともかく時間が惜しいから、今すぐここを出よう!

そういいながら、慌てたように見張りから奪った鍵を取り出し、鍵穴にあてがい始めるアキト。

出る……?
ここから逃げるってことですか?
どうやって……?

中々鍵を開けられず、次第に焦っていくアキトに投げかけられたメイドの疑問を、老執事が代わりに答える。

彼と姫様は、この牢獄をまっすぐ行った先にある抜け道から城の外に出ていただく。
無論、ここは魔王様のお膝元。
脱走はすぐにばれるだろうが、私が追っ手を足止めしている間に城の外に逃げ出すことができれば、早々に見つかることも無いだろう……。
後はできるだけ目立たないように動き回って、人間の大陸にまでいければ姫様は助かる……

老執事の言葉が終わると同時に、軽い音とアキトの「開いた!」という言葉が響く。
そうして、アキトに手を握られて牢から出てきたルリイエが、心配そうな顔を老執事に向けた。

ルリイエ

ですが、これは明らかにお父様……魔王様への反逆行為……。
あなたが関与していると分かった時点で、あなたは……

死罪は免れないでしょうな……

言葉を引き継いだ老執事に、アキトも、メイドすらも大きく目を見開く。
そんな彼らに静かに微笑んでから、老執事は続けた。

私はそれでも構いません。
姫様を長い間お世話してきたこの身、恐れ多くも、姫様を自分の孫のように思うことがありました……。
その孫の命を救うことができる、これほど爺冥利に尽きるものなどありましょうか……?
ですから姫様……、その若者と一緒に、幸せになってください……

ルリイエ

……っ!

そういいながら深く頭を下げる老執事を、ルリイエは強く抱きしめると、胸に顔を埋めながら言う。

ルリイエ

本当に……ありがとうございます……。
私の最後の願いをかなえてくれただけでなく……、ここまで……。
私……アキトと絶対に逃げ延びます……ですから……、あなたも死なないでください……

……イエス・ユア・ハイネス

静かに傅く老執事を、後ろ髪を引かれる気持ちを振り切ったルリイエは、そのままアキトの隣に並び立つ。

ルリイエ

行きましょう

迷いを振り切るように一歩踏み出したルリイエに静かに頷き、着いていこうとしたアキトを、後ろから老執事が呼び止めた。

アキト様……。
姫様を……よろしくお願いします……

アキト

…………はい

しっかりと頷き、深く深く頭を下げたアキトは、すぐさま踵を返してルリイエを追いかけ始めた。

そんな二人の背中を、見えなくなるまで見送った老執事は、その場を振り返って入り口のほうへと視線を向ける。
ルリイエの脱走がバレたのかどうかは分からないが、扉の外がにわかに騒がしく、老執事がいるところまで剣呑な空気が伝わってきた。
老執事は、しばし瞑目した後、ふと隣で震えながら扉のほうを見つめるメイドに目を向けた。

お前は姫様についていかなくてよかったのか?

その問いに、メイドは一瞬だけ自分の後ろ――ルリイエとアキトが立ち去ったほうを振り返り、小さく首を振った。

私がいては、姫様のお邪魔になります。
私だって馬に蹴られたくないですから……

それに、とメイドは続ける。

執事長一人で足止めするには不安がありますから……。
姫様のためにも私がお手伝いします……

メイドの答えに老執事はふっと笑う。

ならばその覚悟、しっかり見届けさせてもらうとしよう……

その言葉と同時に扉が乱暴に開かれ、武装した魔族たちがなだれ込んでくる。
そのまま老執事とメイドの前で立ち止まった彼らを割るように、一人の魔族――どうやら追跡部隊の隊長らしい――が進み出た。

貴様らが魔王様の意向に背き、ルリイエ様を逃がそうとしていたことはすでに分かっている……が、我らが一歩遅かったようだな……

ちらり、と空っぽの牢に目を向けた隊長は小さく舌打ちをしてから、目の前の二人を睨みつけた。

貴様らがここにまだいるということは、ルリイエ様が逃げられてそう時間は経っていないということ。
……お前たち、先に行ってルリイエ様を捕らえろ!!

命じられた魔族たちが列から飛び出し、老執事とメイドの横をすり抜けようとする、瞬間だった。
生々しい音が連続して響き、二人の横を抜けようとした魔族たちが、あるいは進行方向と真逆に吹き飛ばされ、あるいは体を半ばから切断されて絶命する。
一瞬にして部下をやられて、少しの間あっけに取られた隊長はやがて我に返ると、拳を硬く握り締めている老執事と、どこから取り出したのか巨大な戦斧を肩に担ぐメイドを睨みつけた。

貴様ら……魔王様に反逆するつもりか?

その問いに無言で返した二人に、隊長はぎり、と歯をかみ締める。
そうして互いに僅かなにらみ合った後、隊長は部下に命じた。

奴らを殺してでもルリイエ様を追いかけろ!!

直後、命令を受けた魔族たちと執事、そしてメイドが空っぽの牢の前で激突した。

一方、抜け道を通って無事に魔王の城から脱出したアキトとルリイエは、薄暗い城下町の路地裏に身を隠しながら、乱れた息を整えていた。

アキト

……っ……はぁ……はぁ……。
こ……ここまでこればとりあえずは……

最後に大きく息をついたアキトが、ふとルリイエに目を向けると、彼女は心配そうに中心に聳え立つ城を見上げていた。

ルリイエ

二人とも……大丈夫でしょうか……

あの場は逃げることを優先して、アキトと二人城を後にしたが、やはり後ろ髪を引かれるものがあったのだろう、ポツリとつぶやいた。
そんなルリイエを、アキトはそっと抱きしめながら囁いた。

アキト

大丈夫かどうかは分からないけど、二人とも少なくとも俺たちが……ルリが無事に逃げ出して、幸せになることを望んでるんだと思う……。
じゃなきゃ、ただの人間の俺にルリを託したりはしない……。
だから今は、いつか二人が会いに来たときに、胸張って幸せだといえるようにしっかりと逃げよう……

ルリイエ

アキト……。
……そうですね……

小さく頷いたルリイエは、そのままアキトを抱きしめ返す。
そのまま少しの間じっとしていた二人は、やがて手をつなぎ、再び魔王の城から離れるように、城下町を歩き始めた。

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