それで、絵を描けるんですね

あぁ。そのための道具だからな

 幸いなことに――というか、できすぎているのではないかと想うように、俺の周囲にはスケッチをするための道具が、いつの間にか現れていた。
 少女は、それは初めからあったという。だが……本当にそうだろうか?
 疑問には想うが、眼の前の無邪気な少女に、それを言うのもためらう。
 俺が絵を描くことを、本当に嬉しそうに見つめる少女。
 だから、少女を疑いたくなくなっている自分がいるのを、俺は感じていた。

あの……

ん、どうしたお嬢ちゃん

少し、描いているところを見せてもらっても、いいですか?

……ちょっとだけだぞ

 別に見られて気恥ずかしいわけでも、手が止まるわけでもない。
 むしろ、少女の光りが手元をよく照らすようになり、やや描きやすくなるくらいではあるが。

けど、少し見たら、さっきの位置に戻ってくれ

はわわ、やっぱりお邪魔ですか~

 慌てたようにそう言って距離をあける少女に、俺は苦笑した。
 残酷な事実を淡々としゃべるくせに、妙に他人に申し訳ない態度もとる。
 手先を止めずに、俺は彼女に聞く。

自分のこと、描いてもらったことはあるのかい?

ありませんね~、絵を見るのも、初めてですし

 そういえば、絵の話を聞いたこと自体が初めてだったな。なら、描いてもらったことなど、あるはずもないか。

そうか。まぁ、描いてもらったとしても……絵も千差万別だから、お嬢ちゃんが気に入らない可能性もあるし、な

 似せて描いて不興を買うのも、化粧をしてよく見せるのも、こちらのさじ加減ではあるので、難しいところだ。そもそも、書き手の技量や、受け手の嗜好の問題もある。
 だが、描いてみなければ、そんなことはわからないわけだから――と想って、俺は鉛筆を走らせてきたことを、実感として想い出してくる。
 そんなことを考えながら手を動かしていた俺に、少女は意外なことを言った。

いえいえ。そもそもわたし、自分の姿を見たこともないので

……なに?

ですから、もし描いてもらったとしても、気に入らないと言うこともないと想いますよ~。リンは自分の姿、わかりませんので

 少女の言葉は、俺を一瞬絶句させた。
 軽快に動いていた指先も止まってしまい、先へ進めなくなる。
 できたのは、口を開いて、問いかけることだけだった。

え、じゃあ、なにか。お嬢ちゃんは、自分の顔や姿を、ぜんぜん知らないのか。なんで?

なぜ、と言われても難しいですけれど……

 困ったような表情をしながら、少女は言葉を探すように、いったん口を閉ざした。
 俺も同様に、手元の指先が止まっている。――この表情の意味を知るまで、手元を進めるわけにはいかないと想えたから。
 少しして、少女は眼を伏せながら、静かに口を開いた。

リンとスーさんは、ずっとここにいますから

それは、さっき聞いたけれど……

はい。気づいたときから、ずっと――この、闇の中に。だから、自分の顔を見る機会は……なかったのです

 淡々と語る少女の言葉に、俺の背筋と意識が、冷たくなるのを感じる。
 生まれてからずっと、自分の顔を一度も見たことがない。その、事実に。

 この暗闇の深さに恐れを感じながら、同時に、俺の中で想い出や記憶が一気に溢れ出る。
 毎日のように見ている鏡。
 親に飾り付けられて撮られた写真。
 友人や知人と一緒に旅行に行った時に送られてきたデジタル画像。
 学生の時に同じ美術部員に描いてもらった似顔絵。
 ――ちょっと想い返すだけでも、数え切れないくらいの、自分を描き出したものが溢れていた。
 俺が住んでいた時代、社会は、むしろ自画像や個人情報の流出が問題となっていたくらい、自己を考えさせられる社会だったのだ。

 だが、少女は言う。
 この闇の世界には、自分を見るものさえ、ないのだと。

そう、か……。自分が可愛いのにも、気づいてないのか?

か、可愛いですか!? そんなこと言われると……て、照れますね

 恥ずかしそうに片手で顔を隠す少女の仕草は、俺の知る少女の年齢相応の恥じらいがあって、妙な郷愁を起こさせた。
 しかし、可愛いって概念はわかるんだな。難しい子だ。

 そして、その赤面する顔を見ながら、また、古い記憶がよみがえってくる。
 浮かぶ顔は、眼の前の少女と似ても似つかない、鋭い目としっかりとした雰囲気を持つ勝ち気な少女の姿だった。
 ――俺が似顔絵を描こうとしたら、アイツ、顔を赤くしてどっか行っちまったんだよなぁ。可愛いって言ってから、ずっと怒りっぱなしで、失敗したなぁと今でも想ってる。

 そのくすぐったさを想い出しながら、俺の指先はまた進み始めた。正確には、少女の笑顔を見たときから、知らずに手が進み始めていたようだった。

お嬢ちゃん、いい表情だな

は、恥ずかしいセリフは、禁止ですよ~?

……だから、その顔を、描かせてもらうよ

はえ?

 間抜けな声とともに、少女がきょとんとした顔で俺を見る。
 うん、いい。あどけなく、素直で、愛らしい。
 なにより――俺は、教えてやりたい。
 少女が喜ぶ姿が、嬉しかったのも事実なのだ。
 この世界で、俺がしていたことを、誰かに伝えられる。
 それを受け入れてくれる、彼女の微笑みが。

お嬢ちゃん、俺は君を描いているんだ。だから、もう少し待ってくれ

え、リ、リンをですか……!?

 驚きでか、少女の声が高くなる。
 今までのほんわりしたものや、冷たいものとも違う、びっくりしたような響きを持った声だ。

で、でもでも、もったいないですよ! もっと、イラストさんの描きたいものを描くべきですよ!

なら、もったいなくないだろう。俺が書きたいのは、お嬢ちゃんだ

 断定するような口調で、俺は少女は言った。
 嘘は言っていない。
 それに、これは――ちょっとした罪滅ぼしでもあるのだから。

う、それは、そうなら、いいんですけど……

 少女はしぶしぶといった感じで言葉を収める。
 俺はその様子に安心して、絵に戻ろうとすると――少女は、光を持った指先を天井に掲げるようにした、妙なポーズを取り始めている。

そういえば、どんなふうにしていればいいですかね? リン、あんまり難しい表情とかポーズは、難しいかもですが

 真面目な顔で、自由の女神もどきみたいなポーズをとる彼女。
 俺は、静かに少女へ答えた。

笑ってくれよ

え?

さっき、俺に挨拶したみたいに――笑ってくれよ

……

 できるだけ、優しく。
 次第に、心地よい形を作り始める手元の絵を見ながら、俺も優しくそう言った。
 それが、伝わってくれたのか、わからなかったが。

わかりました! リン、あなたへ向けて……微笑みますね!

 少女の答えは、最初にあった時のような、無邪気な明るさを取り戻してくれていた。

肩肘は、張らなくていいからな

 苦笑しながら、俺は手元の鉛筆を、白い紙へと走らせ続ける。
 こんなにも自然に、迷うことなく筆先が進むのは、想い返しても数えるほどしかない。
 内心も、不思議なほど落ち着いてきていた。さきほどまでの荒れ狂うような感情が、嘘のようだった。
 ――そんな時間が、ある程度たった頃。

できたぞ

 俺は手元のスケッチブックを彼女に差し出しながら、そう言った。

あの、見てもいいんですか……?

お嬢ちゃんに見せないで、誰に見せるんだ

 少女は恐る恐る、恥ずかしそうな顔で、俺の手からスケッチブックを受け取った。
 手元のマッチをかざしながら、受け取った方の手で、自分が描かれた絵を見る少女。

う、わぁ……

どう、だろう?

 不安になりながら、少女へ聞く。正直どんな相手に見せるときも、最初の感想が不安でないと言えば、嘘になる。
 自分の描いた絵に自信はあるが、周囲の評価が俺と同じになるわけではない。実際、そんなことはたくさんありすぎて、覚えていられないくらいだ。
 だが、今回は心配しすぎのようだった。
 むしろ……少女が浮かべた表情に、俺自身が驚かされた。

……わたし、こんな顔してるんですね。面白い

面白い、か?

はい、面白いです。こんなに幸せそうだなんて……イラストさん、すごいです

そんなに、謙遜するなよ

 むしろ俺は、少し自分の腕に後悔していたところがあったくらいだ。
 自信を持って描いたものであり、恥ずかしくはないが、少女の持つ雰囲気などを出し切れてはいない――そう、想っていたのに。

ありがとうございます、大切に……覚えておきますね

やるよ、その絵。こんな、鏡も落ちてないような世界だろうから

 そう言うと、少女はなにか言い足そうにして、でもなにも言わずに口を閉じた。

どうした? なにか、気になることでもあるのか?

え……っと、そうですね。もっと、イラストさんの絵が見たいなって、リンは想いまして!

絵を、か……

 呟いて考えていると、少女が俺にスケッチブックを戻してくる。
 少女の絵は、スケッチブックから切り離されず、そのままの姿だった。
 後で、旅立つときに渡してやるか……そう想いながら、絵のモチーフを考える。
 ――だが、なぜかイメージがうまくつかめない。

……なにを描けばいい?

もちろん、イラストさんの描きたいものがいいと想います!

 少女の言葉に、俺もそうは想いながら、うなずけないでいた。

困ったな

はえ?

なにも、想いつかない

えぇぇ!?

 俺の言葉に、本気で取り乱す少女。――なんか面白いな。

もしかして、スーさんの光が足りないですか? もっと浴びせた方がいいですか?

うぉ、まぶし。……いや、想いついてはいるんだ。考えても、いる

 だが、構想が形となるかは、別の問題だ。

はぅ……難しいものなのですねぇ

……そうだ

 ふっと、俺は少女を見ながら、あることに興味がわいた。

お嬢ちゃんは、ずっと旅をしてきたんだろう?

はい。スーさんと一緒に、起きてからずっと歩いてきました

さっきの話から、いろいろな人にも会ったんだろ

会いました!

 瞬間、少女の表情が花咲いたように笑顔になる。
 ――俺みたいに面倒くさいやつもいただろうに。なのに、こんな笑顔を浮かべられるのか。
 その笑顔の意味を知りたくて、俺は、興味を持って問いかけた。

教えてくれないか。今まで、この真っ暗闇の世界で――どんな者と会ってきたのか

はい、喜んで! でも、絵のお話は……

いいんだ。絵のモチーフにも、関係するからな

 俺はそう言って、少女に出会いの話を促す。
 ただ、一つ一つのエピソードは長くなりそうだったので、ざっくりとした概要だけを述べてもらうようにした。

まずは、スーさんと会いました!

マッチ、マッチか……

 さすがにモチーフとするには、淡泊すぎる。
 むしろ、先ほど描き上げたばかりの少女の絵に入っているし。

そうですねぇ……お子さまを失ったお姉さんは、つらかったですね

それは……確かに、辛いな

 絵のモチーフにするとしたら、この世界に合いすぎて、逆に困る。

あ、男の人を探してほしいという女の人もいました。今、一緒に探しています!

一緒に? え、っと……どこにいるんだ?

今はスーさんのなかですけど、わたし、あの人のためにきっと見つけます!

 ――よくわからないが、つまりは結局マッチになるのか。どんだけマッチ好きなんだよ! と内心でだけ突っ込んでおく。

えっと、後は……お髭が生えたお爺さまとか

お髭?

はい。指導する人たちが消えてしまって、力を持て余していました

 どこかの伝統工芸の技術者だろうか。後継者不足はどこも問題となっているから、そのことなのかもしれない。

ん~、吐き出した毒リンゴを持って、復讐を企てている女の子もいましたね

そいつは、物騒だな

 シチュエーションが、まるで白雪姫の変則系みたいだなと感じる。劇団でもやっている子だったのだろうか。しかし……。

角がはえて、ちょっと牙がはえた、悪魔みたいな方とか

それは……悪魔か?

 返答していて、バカみたいな答えをしたのを恥じる。
 だが、少女の語る話に、だんだんと俺は返答が難しくなっていった。

毛がワサワサして、目つきが鋭くて、牙がはえてて、尻尾にも口がある方と会った時は、驚きました~。失礼だったけれど、声を上げて驚いてしまいましたね

よく、喰われなかったな……

 ――語られた姿を想像すると、まるで、人間ではないものが含まれており。

自分は決して錆びない鉄柱だ、なんていう方もおられました。でも、この暗がりだから、錆びているのかどうかよくわからなくて申し訳なかったです

……

そういえば、『どうして私の眼を見てを見て石化しないんだ』、って言われた方もいましたねぇ。そう言われたので、固まったフリをしたら怒られてしまいました

 ――果たして彼女は、この闇の中でどんなモノ達と会ってきたのか。
 正直、彼女の空想ではないかと想われるモノ達も、たくさん混じっていた。
 俺がいた時代には、もういないはずの偉人達。
 俺が住んでいた世界には存在しない、架空の生物達。
 失われた過去に存在したと推測される、超文明の遺産達。
 本や空想の世界には、そういった存在がいくらでもいることを知っている。俺自身がその担い手であった部分もあり、むしろ当事者ですらある。
 だが、それはあくまで――今とつながる、けれど現実ではない、異世界とも呼べる観念のものだ。
 だから、素直に信じるには、俺の価値観が邪魔をする。
 もちろん……この闇の世界を歩く少女の価値観が、俺と一緒のはずがないとも理解はしている。
 ――そうは想っても、やはり、受け入れがたい感触は残ったままだった。
 ただ、エピソードそのものは、とても興味深いものだった。はたしてどこまで本当かはわからないが、聞いていてインスピレーションを刺激されたのは、確かだ。

ふむ……

 確か、なのだが……あまりにも突飛すぎる話に、逆に描くことをためらう。

筆がのるか、というのとは、違う問題なんだな

はわわ、ごめんなさい~

 謝る必要などないのに、彼女は必死に俺に謝ってくる。
 うぅんうぅん……と悩みはじめた姿を見るに、まだ俺の絵のモチーフを考えてくれているのだろうか。
 真剣なその様子を見て、俺は想わず苦笑してしまう。

お嬢ちゃん、面白いなぁ

ほえ? リン、なにも面白いことやってませんよ?

 そうした様子が、俺の頬をゆるませる。
 ただ、一心に俺の話を聞き、答え、考えてくれる。
 ――なのに、俺は。

ありがとうな。どんな状況でも描きたいものがある、っていうのが、本当の本物ってやつなんだろうがね

 少女の頑張りに答えようと指先を走らせてはみるが、先ほどのような高揚感はやってこない。
 残念ながら、この闇の前に、俺はなにかを表現する気力を、塗りつぶされてしまっているのかもしれない。
 ――情けない、とアイツなら言うだろうか。

えと、えと……ごめんなさい!

おいおい、だから……

諦めないで、えいえいおーですよ!

……え?

白い紙と鉛筆があるのは、あなたが望んだから。だから、スーさんがそれを形にできているんです

いや、これは偶然だろう

でも、スーさん、言ってますよ。その白い紙と、描かれた絵の光が、とっても強いんだって

光、が?

 言われて、白い紙を見る。そうして、意識していると――確かに、俺のスケッチブックが微かに光っているように見えてきた。

(錯覚、か?)

 そう想おうとしたが、改めてみた少女の絵は、わずかばかり光っているように見える。
 確かに、少女を描いている時の高揚感は、俺の中の何かが輝いているようにも感じられた。

絵を描いてるときのイラストさん、とっても、輝いてましたから

……言ってくれるね

 少女の無邪気な笑顔に、俺もつられて笑顔を返してしまう。
 ただ俺の笑顔は、ちょっと不適な、皮肉めいたものだったと想うが。

ありがとうな

ほえ? リン、なにもしてないですよ?

いいんだ、そう想っておいてくれ

 少女の言葉は、亡くしてはいけない俺の最後の想いに、火をつけてくれたようだった。
 なら、描き上げようじゃないか。
 俺にとっての――最後の、輝きを。

……それと、すまなかったな

え? え? え? どうして、謝られるんですか

 不思議そうな表情で、少女は俺を見る。当然だろう、とは想う。
 俺が謝ったのは、さきほど彼女に対して考えてしまった、自分の行動に関してだ。
 ――いくら焦っていたとはいえ、彼女の命綱を奪おうだなんて、あまりにも勝手すぎる。自分の心の問題とはいえ、謝らずにはいられなかった。
 俺が、スケッチブックを見つけられて、ほっとしたのと同じだ。彼女にとって、スーさんと呼ぶあの光が、大切なものであるように。
 そして、もう一つ理由があった。俺が焦った、最大の理由。

アイツにも、見捨てられちまう気がするしな

 俺が想い浮かべたその相手は、俺が考えたようなことを、一番嫌いなやつだった。
 違反や不正が大嫌いで、そういった輩には自分から突っ込んでいったアイツの姿を想い出しながら、一人で呟く。

だから、お嬢ちゃんにも、アイツにも、恥ずかしくない気持ちで――絵を、描きたいんだ

 そんな俺を、少女はまだ不思議な顔で見つめていたが、突然はっと気づいたように眼を見開いた。

そうですよ! モチーフ、あるじゃないですか!

え……?

 驚く俺に、少女は、とびっきりの笑顔で言ってくれた。

その、アイツ、さんですよ!

 ――その言葉で俺の脳は、ガツンと殴るような衝撃で揺らされ。
 ――止まっていた指先が、まるで命を吹き込まれたかのように、走り出した。

 少しして。
 俺と少女を照らす空間には、鉛筆が紙を走る音だけが、静かに響いていた。

……不思議なもんだな

 白い紙へと鉛筆を走らせていると、筆先に生気がこもっているのが感じられる。その黒鉛が描き出す絵は、まさしく生に迫るであろう、不思議な迫力に満ちている。
 俺は、確信していた。これほどまでに、自分の描きたいと想う線の運びと、描かれる絵のイメージが、一致したことは今までなかった。
 まさしく、絵と筆先と自分が、一体化している――そう、感じることができる。
 おまけに、さっきの話のように――俺の絵が、光を放っているのだ。鉛筆で描くたび、その一線一線が、まるで意志を持つかのように光を帯び始める。といって、描きづらくなることもない。
 俺の描くイメージは、しっかりと定まっていた。
 ――アイツの顔は、あの日以来、一度も描いていなかった。そう想えば、この時のために、残っていたのかもしれない。

いいねぇ。こんなにもノっているのは、初めてだ

 俺は笑いながら、自分の全てが絵に変わっていくような感触に、興奮していた。

……はい。わたしも、嬉しいです

 だが、言葉と違い、少女の表情はどこか晴れきらないものだった。

大切な方がモデルだから、でしょうか

 少女の様子に、少し俺は寂しくなる。
 わずかな間しか話していないが、わかったことは――この少女に、悩む顔は似合わないということだった。

笑ってくれよ、お嬢ちゃん。でないと、このノリが墜ちちまうとも限らねぇからな

はわわ、すみません!

 そう言って、少女は努めて冷静に、笑顔をふるまうようにしてくれた。
 感覚が、鋭敏になっている。だから、か。

なぁ、お嬢ちゃん

はい、なんでしょうか?

これからも、旅を続けるのかい

もちろんです。わたしとスーさんは、『永遠の光』を見つけるまで、一緒に旅をするって約束してるんです

なら、一つ、頼みがあるんだ

はい、喜んで!

 力いっぱい元気に微笑む少女へ、俺は言った。

届けてほしいんだ、この絵を

この、絵を……

ああ。俺が描いた、最後の絵だって、な

 俺の言葉に、少女はすぐ答えなかった。
 少し迷ったような時間の後、少女は改めて口を開いた。

はい。お届けするのは、どんな方なのでしょうか

 答えた声は、とてもしっかりしたものだった。
 そして少女は、二つの意味で、俺の言葉を否定しなかった。
 だから俺は、少女の問いに答えた。

俺のもっとも大切な妻へ、お願いするよ

わかりました

だが、届けられなくても……気にするなよ

 それは、なぜか言っておかなくてはいけない気がした。

……!

これは、俺が自分のために、そしてアイツのために描いている絵だ。だから、お嬢ちゃんが気に病む必要はねぇ。もし、アイツに出会えたら、でいい

 少し瞳をあげて、少女へウインクを送る。
 強ばっていた少女の顔が、少し柔らかくなるのがわかった。それでも、どこか申し訳なさそうな色は消えていなかったが。
 ――本当に、嘘をつくのが下手なお嬢ちゃんだ。

だから、アイツのところへ連れて行ってほしいんだよ。俺が俺であった証明を、見届けてくれたお嬢ちゃんの手で、な

はい。必ず……ご一緒に

 それが、俺が聞いた少女の最後の言葉だった。

 ――俺が、次に自分の意識を取り戻したのは、筆を置いた時だった。
 ――けれど、そこにはもう、俺の姿はなかった。

 ***

 ばさり、こんこん……と、物の落ちる音が響く。
 闇の中で、地面があるのかも定かでない、この空間。
 男が持っていたスケッチブックと鉛筆は、彼の消滅とともに、地面へと身を横たえた。

……イラスト、さん

 リンは呟きながら、男のスケッチブックをその手で取り上げる。
 見れば、そこには男が最後に描いていた絵が、しっかりと刻まれている。周囲の闇を払うような、美しい光とともに。

『美しい絵だな』

 スケッチブックに向かって照らしてくれているからなのか、私もその絵を見ることができた。眼がどこにあるのか、我がことながら私にもわからないのだが。

はい。本当に……

 リンはうなずきながら、器用にスケッチブックをめくる。
 今、リンの手には、二枚の絵がある。一枚は、我々が見たことのない、彼の妻の絵。もう一枚は、最初に描かれたリンの絵だった。

『リン、どうした?』

な、なんでもないです……ちょっと眼が、変で……

 リンは、自分の描かれた絵を見ながら、涙を流していた。

わたし、こんな顔してたんですね。なんか、面白くて、変ですね

 描かれた一枚のスケッチには、見る者を魅了する笑みを浮かべたリンが、幸せそうに描かれていた。

こちらの絵も、ステキですね……あの方の光が、とってもまぶしい

 リンが言うもう一枚の絵の光は、リンを描いたものよりも、強い光を発していた。
 その光は、しかし、当然とも言えた。男が最後の一欠片になるまで、筆先から光をそそぎ込み続けた、その結果なのだから。
 だからこそ――リンは、顔を曇らせて、言った。

お届けできないのが、本当に残念で……申し訳ないです

『……』

 私は、なにも言うことができなかった。
 絵の光は、自然と私の方へ、吸い寄せられるように集まっている。
 そして、その光が私へと同化する度に……絵の全体像は、次第に薄くなり、形を失っていくのが見てとれた。

 ――生み出された光の形が、残ることはない。いつも最後には、私とリンだけが、この闇に残されるのだ。

……あの人の光が消えないうちに、見つけたい

『そうだな。みなのためにも』

うん。わたし、忘れないよ、この顔を

 リンは、絵の中の自分を見つめながら、祈るように呟く。

これが、リンなんだって……嬉しくなるの、教えてもらったから

 次第に、二枚の絵の光が、さらに弱まっていく。
 私が、自分の光を維持するために、彼の光を吸っているからだ。絵に全てをこめて光となった、彼の意志を取り込むために。

スーさん、わたしは……嘘をついてしまいました

『……すまないな、リン』

いえ、悪いのはわたしです。でも、わたしは……見たかった。自分の顔を。あの方の描く、本当に、大切な人の光を

『リン……』

 もし、私の光が鏡のように、彼女の顔を映す力があれば――こんな顔にさせることもなかったのだろうか。
 だが、それでも……とも考えてしまう。彼女は、彼のために、嘘をつくだろうと。簡単に見破られてしまうだろうが、そのぎこちなさで、彼女は彼の望みを叶えてあげようとするのだろうと。
 ――彼が望んだ生き方を、想い出させるような消え方をさせるのだろうと、私にはわかるのだ。

だから、わたし、忘れません。あの人のことも……あの人に大切な人がいることも。もちろん、この絵のことも

 ぎゅっと、リンはスケッチブックを抱きしめる。すると、私の光と絵の光が混じり、リンの周囲に蛍のような光が舞う。

 ――断片化していく絵の輝きが、私の中でゆっくりと、暖かい光になる。
 少しして、その場に残ったのは、私だけの光となった。
 リンの手元には、彼の描いた絵も、そこから生まれていた光も、なにも残っていなかった。
 リンは、手元を寂しそうに見つめた後、ぎゅっと眼を閉じ――言った。

みんなにも、笑ってほしいから――『永遠の光』を見つけよう、スーさん

 そう言って眼を見開いたリンの顔には、いつもの笑顔が浮かんでいた。

『では、行こう』

 私が光を揺らめかせるのを合図に、リンもまた、闇の世界へと足を踏み出した。
 あてのない旅路は、続く。
 この闇の道がどれだけ続いているのか、私にもリンにもわからない。
 知っている者に、出会ったことすらない。
 だが、彼の描いた笑顔は、私とリンの心にも光を灯してくれた。

わたし――自分の顔を、ちゃんと見れるようになりたいな

『私もだ。私も、自分以外の光に照らされる日を夢見るよ』

 彼のためにも、まだ、輝けるのならば。
 私達は、彼が描き続けた世界の形を探して、歩き続ける。

 ――彼が残してくれた想い出の光は、私達の胸にあるのだから。

ある絵師の届けもの・後編

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