杏月さんは頷いて、俺に朗らかな笑みを浮かべた。
杏月さんは頷いて、俺に朗らかな笑みを浮かべた。
まあ、何とかなるわよ。一応中間にも一つ仕込んであるし、何処かでは言うでしょ
仕込むって……まだ、何かしてるんですか?
不意に、杏月さんは遠い目になった。……あれ? どうしてそこで、そんな顔になるんだ。
そうね……最後はともかく、中間の仕込みが上手く行くかどうかは龍之介に掛かってるわね
何なんだ。……ちょっと怖い。まあ、どんな状況下でも今の俺には、チャンスが無いよりは有った方が良いに決まっているので、仕込んでくれた杏月さんに感謝する所ではあるが。
今日一日。それが、俺にとっての最後のチャンスだと考えてもいい。どうあっても、日曜日を迎えてしまえばこんなチャンスを二度発生させる事は難しい。
水希が待っている。……そろそろ戻らなくては。
それじゃ杏月さん、俺、行くから
がんばってねー
気の抜けた声色で手を振り、俺を見送る杏月さん。……今の状況を理解しているんだか、していないんだか。まあどちらにしても、杏月さんにとっては俺が豚になろうがカバになろうが、大した問題ではないか。
ああ。豚って何なんだ。太るくらいならまだ良いが、若しも本当に豚になってしまったら。
ううう……いや、今はせっかく遊びに来ているんだ。楽しい事を考えよう。
穂苅さん、お待たせ。順番は?
まだ十五分くらい待ちそうね
飲み物買ってきたけど……コーヒーとゴリラウォーター、どっちがいい?
ゴリラ!?
水希の目が、一瞬にして輝き始めた。……なんと。ゲテモノドリンクが好きな所は相変わらずなのか。
そうね、じゃあ……ゴリラにするわ
仕方無くゴリラを選択する素振りを見せてはいるが、実は無難なアイスコーヒーなんて選択肢に入っていない事は、見ればすぐに分かった。
やたらとリアルなゴリラのイラストに、見れば喉の渇きも吹っ飛びそうなテイスト。水希はその缶を両手で持って、まじまじと眺める……可愛いな。
唐田君、どうしてこんなものを?
いや、なんとなく。コーヒーとジュース、選べた方が良いかなと思って
まさか杏月さんが勝手に押した、なんて言えない。
……この場合、ゴリラウォーターはジュースに入るの?
さあ……?
中身が何か分からない以上、コメントのしようもない。
○
まず、ジェットコースターってのはあんなに速いものなんだっけ。程良く三半規管を揺さぶられて嘔吐一歩手前まで達した俺は、休憩所を提案。水希と二人、ベンチに座ることとなった。
水希は俺が買ったジュース(の予定)を飲みながら、のほほんと空を見上げている。
中間の仕込みって……何だ。一体何が来るのかも分からない俺は、ただ心臓をバクバク言わせながら待っている他ないが。
なんだよ、俺に関係している仕込みって。
ジェットコースター、強いんだな
そう言うと、水希はふと俺を一瞥して言う。
唐田君は、見た目の割りに弱いのね
ええ……そんなにジェットコースターが得意そうな見た目してるか? そんなことないだろ。
ところで……唐田君、もうお昼は食べた?
え? ……いや、まだだけど……
正直、今日は緊張してしまって昼飯どころではなかった。水希はどうだか知らないが、俺にとっては自分の豚化が掛かっているのだから仕方がない。
水希は肩に下げたトートバッグから弁当箱を取り出し……その瞬間に、俺は全てを察した。
――――ああ。ロリババアよ。
杏月さんが、今の学校、休日は購買が休みだから、作って行ったらって……
水希は当然学校でクラス委員のイベントがあるものだと思ってこっちに来ているから。待ち合わせ場所に遅れて来たのは、杏月さんが水希に弁当を作らせていたからだ。
つまり、こういうことだ。俺が水希の弁当を食べて、水希に感謝の意を示す。すると、水希から『別にあなたの為じゃないから』という台詞が出て来る。
……一応、唐田君の分もあるから
いつになく、可愛らしい態度で弁当の包みを開く水希。俺が好きなのではなく、料理を人に食わせるのが好きなんだ、こいつは。そんな事は長い付き合いで良く分かってる。
料理が下手で好きな人ほど誰かに食べさせたいって欲望、あるよね。
お、おおおおうありがとう
大丈夫なのか。謝辞を述べる前に気を失って倒れたりしないだろうか。いや、だからこその俺に関係している仕込みなのだ。
ちょっと待ってくれ……。こんな恋愛マンガの王道みたいな展開を望んでいた訳じゃないぞ。彼女の手料理ならまだ良いが、スーパードライの手料理を食べて一体何になるって言うんだ。
しかし、そんな事は口が裂けても言えない。
一応、唐田君が知ってる時よりはまともになってる筈だから
いや、それはどうだろうハニー。案外、昔よりも酷くなっている可能性があるぜ。何しろ俺は、カレーに入れる調味料に桜でんぶをチョイスしようとしていた、つい最近のお前を知っているんだからな。
カウントダウンが近付く度に、段々とテンションがおかしくなってくる。
弁当箱を開けた。
!!?
おおおおおおお…………!! 予想以上……七百……八百……いや、まだ上がっている……!?
ほら、ラブコメなんかだとよく、どす黒いモザイクの掛かった弁当なんかが候補に上がったりするじゃないですか。むしろ、あんな見た目だったらもう少し覚悟が出来たかもしれない。
なんか微妙に形の崩れた玉子焼き。足がちょん切れて、上半身と下半身が切断されてしまったタコさんウインナー。何故かご飯の中央じゃなく脇に寄っている梅干し。
期待しちゃうじゃん!!
普通のレベルで不味いと言ったらさ、まあ大して美味しくもないんだけど彼女の手料理だから食べられるみたいな、そんな平和的な程度のものなんだと思っちゃうじゃん!!
……別に、美味しいとか言ってくれなくて良いから
違うんだ水希よ。俺の衝撃は美味しそうとかそういうベクトルじゃなくて、例えば今まさに親父を殺そうとしていたら変なボールの中から尻尾の生えた子供が現れて、スカウターで戦力値を測ったら親父より強かったとか、そういう類のアレなんだよ。
バッドな方の予想外なんだよ。なまじ見た目が普通だから余計にそう思っちゃうんだよ。
穂苅さんさ、味見はする方……?
アジは入ってないわ
……
おい何でそんな返事になるんだよ耳おかしいんじゃないのか。
どうにか、手に持った箸がガタガタと震え出さないように、細心の注意を払った。
ええい、ままよ…………!!
○
空を飛んでいた。
なんだか、たまらなく良い気分だ。思わず全裸で踊り出してしまいそうな。
俺の周囲を妖精が飛んでいる。天空へと昇って行く俺は、さながら焚き火の煙のように際限無く浮き上がっていく。
今の俺に、最早豚など大した脅威ではない。何故なら、飛べるのだから。俺は今、飛べる豚へと変貌しつつあるのだ…………!!
龍之介!! ……龍之介!!
――――はっ!!
龍之介!!
目を開けると、大空が見えた……どうやら俺は、眠ってしまっていたらしい。ベンチの上に寝かされていて、すぐ隣に屈み込んだ水希の顔が。
良かった、目を覚ました……!!
千年祭は!?
だ、大丈夫!? やっぱり頭がおかしくなったんじゃ……
どうやら、王国の千年祭は行われていないらしい。……じゃなくて。
別に膝枕をしてくれる訳でもない水希は、冷たいペットボトルで俺の頬を突付いていたようだ……って、これは俺が買ったゴリラウォーターじゃん。
ど、どうしよ……黄色い救急車を呼べばいいの? ……黄色い救急車って呼べるの?
珍しく、水希が本格的に慌てていた。携帯電話で救急車を呼ぼうとしてくれているようだ。……黄色い。
いや、大丈夫だから
ほ、本当に!? どこか打ってない!? バカになったりとか……
元からバカだから大丈夫だよ
そっか、良かった……
いや、そこは突っ込む所だから。良かった、じゃねえよ。
起き上がると、頭がまだずきずきと痛む。弁当で頭痛って、一体何を入れたんだろうか……健康に良さそうだからとか言って、薬が入ってたら死ねる所だ。
ごめんなさい、私のせいで……イカの砂糖漬けは隠し味に使えると思ったのだけど……
少なくともそれを入れたら、隠しにはならないと思うんだ。
それにしても、水希のこんな顔を見るのは久し振りだな。実に数年ぶり……なんかナチュラルに人の額に左手を当てたりしているし、一体どうしたんだろうか。
まさかこれは、ピンチを共有して仲良くなるとかいうフラグじゃ……!!
何かに気が付いたようで、水希は瞬間的に俺から身を引いた。
……だ、大丈夫ならいいわ
おお、若干脈アリな反応。まさか、水希も真実の所ではツンデレだったり……していたら、俺はこれ程苦労はしていない。見れば、既に水希は弁当を片付けていて、辺りは夕暮れ時を迎えていた。
あれ? 迎えていた。なんて、悠長なことを言っている場合では無かったんじゃあ、無かったっけ。
…………やばい。
今日はもう、終わりにしましょう。
明日も学校だし、それに……
……ごめんなさい、せっかくの貴重な休みを不意にしてしまって
杏月さんの用意した弁当作戦は、見事に悪い方向に転んでしまったが。今日一日の終わりがこんなムードじゃあ、最後に『か、勘(以下略』の台詞など到底出なくなってしまう。それだけは……それだけは、絶対に避けなければならない。
ここからの挽回は難しいぞ、どうする……!! 水希はトートバッグを背負い、出入口の方に向かって歩き出した!!
水希!!
俺はその背中に、言葉を叩き付ける。水希は立ち止まり、俺に振り返った。
俺は楽しかったっ!!
これは、嘘偽り無い本音の言葉だ。まさかもう一度水希と何処かに遊びに出られるなんて思わなかったし、今日は普通に話もできた。すっかり切れてしまった関係を修復するには、充分過ぎるくらいだったと言っていい。
だから、これで終わりにしてはならない……!!
水希は、明らかに動揺している。
本当に久し振りだったんだ、こんな風に人と話すのも、遊びに出るのも……!!
今日一日は、全然無駄なんかじゃない!!
俺は水希に近付き、その左手を取った。……なんだか、告白をしているみたいで妙な気恥ずかしさがある。
…………!!
勢いに任せて、言ってしまうか? ……いや。ムードを作ることは何より大切だ。学校での過ちは、もう繰り返してはならない……!!
観覧車に乗ろう
え?
楽しくて良かったね、めでたしめでたし。俺が求めているのはそういうエンディングなんだ。こんな所で、妙な雰囲気のまま遊園地を出る訳にはいかない。
人に特定の台詞を吐かせるという事は、それ程に難しい事なのだと分かった。
俺は水希と観覧車に乗りたい!! ……駄目か?
夕日の赤に紛れているからなのか、水希の頬が真っ赤に染まった。
なんだろう、この空気。まるでデートのようではないか。いや、元からデートだったのか。端から見たら、誰もがデートだと言うだろう。
最も、水希の心がどこまで動いているのかは疑問が残る所だけど……
…………別に、良い、けど
よっしゃあっ――――!!
思わずガッツポーズをしてしまう俺。その様子を見て、水希が少しだけ微笑んだように見えた。
遊園地の閉園時間は、まだ……だよな。観覧車なんて夕方以降のイベントなんだから、多分もう少しは回っている筈だ。俺は水希の手を握り、観覧車に向かって歩き出した。
……あの、……ちょっと、……手……
このまま、一気に決めなければ。今日はもう、時間がない。流石に夜までは、水希は付き合ってくれないだろう。……これは、俺の豚化が掛かっている戦いなんだ。
そうは思いながらも、少しだけ気持ちが昂ぶっている自分がいた。
こんな風に、水希と気楽に話しているのが、嬉しかったのかもしれない。
なるほどねえ、穂苅さん
だから、水希に向かって近寄ってくる男の存在に、直ぐには気付く事が出来なかった。
夕暮れの遊園地。一体どういう巡り合わせなのか、俺達の目の前に現れた男達。
こいつらは、翔悟を殴ろうとした奴等の……。中央に居るのは、入学式の場で水希に告白をした男。落合とかいうサッカー部の先輩だ。
ニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべながら、俺と水希を見ている。
そういう事だったのか、穂苅さん。まさか、もう付き合っている奴が居たとは……驚きだよ
…………!!
水希の表情が、曇った。