あたし達を載せた船は遥か前方に見える建物を目指してまっすぐに進んだ。静かな湖面に櫂の音だけがわずかに響く。
夕暮れが近いころ、ようやく建物のすぐそばの湖岸にたどり着いたあたし達は、その建物の大きさに度肝を抜かれた。
あたし達を載せた船は遥か前方に見える建物を目指してまっすぐに進んだ。静かな湖面に櫂の音だけがわずかに響く。
夕暮れが近いころ、ようやく建物のすぐそばの湖岸にたどり着いたあたし達は、その建物の大きさに度肝を抜かれた。
敷地の広さでいえば、あたしの実家が十個くらいは余裕で入る。そして見上げればどこまでも高くそびえる、白亜の塔。これが伝令の女神イーリスの神殿で間違いない。
神殿の目の前であたし達をおろすと、ハーピーが操る船は音もなく岸を離れていった。
さあ、乗り込むよ
あたしが神殿の入り口に足を向けると、エリザは無言でうなずいて、あたしの後について来た。
正面玄関の扉はあたし達の身長の五倍以上の高さがあり、荘重なデザインでいかにも重そうだったが、押してみると意外にも大して力をかけずに開けることができた。
それにしてもこの大きな扉、イーリス様はそんなに大きいんだろうか。
神殿内もやはりすべてが巨大で、エントランスホールは朝市が開けるくらいの広さだった。正面には十数人が横に並んで歩ける幅の上り階段がそびえ立ち、二階へと続いていた。
そしてどこまでも平坦に敷き詰められた石の床の上には、あたし達を誘導するように真っ赤な絨毯が、入口から階段の上へと敷かれていた。
この絨毯に沿って進め、ということでしょうか
たぶんそうだね……
行こう
絨毯は階段を登りきった後、一旦左へ折れて少し進んだ後、右へ曲がって華美な装飾の施された扉の向こうへと続いていた。あたしはおそるおそる、真鍮のノブを回してドアを開けた。
ドアを開けるとさながら玉座の間といった感じの荘厳な空間が広がっていた。
だだっ広い空間を、壁一面に埋め込まれた魔力燈の間接照明がやわらかく照らしている。
遥か上空の丸天井の中心からは宝石をちりばめたシャンデリアが吊り下げられ、そして視線の向こう、部屋の突き当りには、純金製らしい巨大な椅子が堂々と鎮座していて――
その椅子に、小柄な女の子が一人、ちょこんと座っていた。
いらっしゃい。
ようこそあたしの神殿へ
ってことは、この子が女神イーリス?
牛の頭を持つメレクの眷族だから、角が生えていたり翼が生えていたり、腕が六本あったり呼吸のたびに口から幾万匹の毒虫が飛び立ったりするかと思ったら、人間となんら変わりない姿をしている。しかも、見た目だけならあたしやエリザと大して変わらない年齢に見える。
偉い神様がこんな可愛らしい美少女でびっくりした?
あたし、元々人間だったのよね~
人間が、神になったんですか?
そう。あたしは元々、メレク信仰が人間にも広まり始めた頃の、ごく初期のメレクの信徒だったの。
そこのお嬢ちゃんみたいな巫術師は、あたしが最初の一人なのよ
女神様はエリザのほうを見て、だからあなたの大先輩ってことになるわね、と悪戯っぽく微笑んだ。
そうすると、グラマーニャの建国よりもさらに昔の人ってことに……
昔の人って、やあねえ人を年寄りみたいに。
初代グラマーニャ王より、八百年ばかりお姉さんなだけよぉ
初代グラマーニャ王より八百歳年上って、それはお姉さんというより、お婆……。
なにか、失礼なこと考えてない?
いえいえ滅相もございません。
ま、とにかく巫術師としていろんな魔法を習得していたら、どんどん能力が増えていって、気がついたら神様になっていたの。
今はメレク神と人間との間の伝令を司っているわ
あの、それでですね。
伝令の女神であるイーリス様から、メレク神にエリザの呪いを解いてもらえるよう、お願いしていただきたいのですが……
早速本題を切り出すあたしを、みなまで言うな、と女神様は制止する。
そのことだったら、メレク様の方から既に連絡があったわよ。
なんでも、呪いをかけたのはここに来てもらうのが目的だから、火傷の方はすぐに解呪するって。ほら、もう治ってるでしょ
言われてあたしは、エリザのほうを見る。確かに、焼け爛れていた頬はすっかり治って、元のすべすべほっぺに戻っている。
それで、問題は魔法の方なんだけど、
ぶっちゃけ……戻す必要、ある?
?
どういうことですか?
魔法を使えるように戻したところで、何をするのかっていう話。
貴方たちは、魔物を倒すことに疑問を持っているでしょう?
確かに。
あたしもエリザも、魔物を倒すことが必ずしも正しいのかどうか自信がなくなってしまっている。そもそもあたし達はもう魔王討伐隊を抜けたのだから、魔物を倒す必然性はないのだ。
メレクの巫術師の使う魔法のほとんどは攻撃魔法だから、魔物を倒さないなら魔法が戻らないままでも問題はないのだ。
エリザちゃんには考えてもらいたいの。
これから何をなすべきか、そのなすべきことに、魔法は必要かどうか。
貴方がしたいことが適切と判断され、それをするのに魔法が必要なら魔力を返す、とメレク神は言っていたわ。
エリザは黙ったまま、考え込んでいた。
魔力を失って、自分はどんな生き方ができるのか、あるいは、魔力が戻ったとして、それをどの様に使ってどんな生き方をすべきなのか、必死に思案しているようだった。
ま、ゆっくり考えなさい。
答えが出るまではうちに泊まっていいからさ
これからの人生に関わる重大な選択にすぐに答えが出るはずもなく、ここに泊まってじっくり考えてもいいというのはありがたかった。
だけど、泊まるなら泊まるで、はっきりさせておきたいことがある。
あの……
ここに泊まる場合、ご飯はご馳走してくれるんでしょうか
空腹はだいぶ前から無視できないくらいになってきている。今にもお腹がきゅうきゅう鳴ってしまいそうだ。エリザはなにも言わないけれど、彼女だって同じに違いない。てゆーかあたしだけお腹が鳴ったら恥ずかしいからエリザも鳴れ。
ご飯ね。ちょっと待ってて。
家来のハーピーを絞め殺して一品つくるから
えぇっ!?
冗談よ。
普通のお料理を用意するから安心して
一個小隊を収容できそうな広いダイニングルームに通されて、すぐに出てきた料理はとても豪華だった。さっきの女神様のブラックジョークのせいで、メインで出されたチキンソテーがハーピーの肉じゃないかとちょっと警戒したけど、恐る恐る食べてみたら鶏の肉の味で安心した。ハーピーなんか食べたことないけど狩人時代にいろんな鳥を食べたから、鶏かそうじゃないかの区別はつく。
いやー、一人じゃない食事は久しぶりだわ。
人間の来客じたいが……二ヶ月ぶりくらいかしら
パンにバターを塗りながら、女神様が言う。
私の知る限りでは、この神殿への人間の訪問者は十年前、解呪を嘆願しに若者がやってきて八年ほどここに滞在して以来のはずです
エリザが答えると、女神様は「あれ? そんな前だったか。てかそれ以前に八年もいたんだあの子」と意外そうに目をぱちくりさせた。
八年もいたんだ、って……
その若者の罪が重かったから八年間神殿の掃除をやらせたんじゃないんですか?
いいえ? メレク様からは適当に四・五日罰を与えた後、あたしの裁量で呪いを解いていいって言われてたんだけどさ
ほら、近いうちにやらなきゃいけないけど今日明日じゃなくてもいい、っていうものって、ついつい後回しにしちゃって、気がつくと随分時間が経っちゃってることってあるじゃん?
ようは、「今日じゃなくていいや」で後回しにしているうちに八年経っちゃったという事らしい。
……似たようなことはあたしも見に覚えがあるけれど、さすがに八年は酷すぎる。
八年も経つ前に、その若者から文句が出なかったんですか?
その子にかけられた呪いというのがね、
何も喋れなくなる呪いだったのよ
つまりその若者は文句を言いたくても言えずに、八年間も棒に振ったと?
……メレク神はイーリス様にも何か罰を与えたほうがいい気がする。お尻百叩きぐらい。
ともあれ、美味しい食事で満足した後は、寝室に通された。
毛足の長い絨毯が敷き詰められた部屋には、クイーンサイズのベッドが二つ置かれていて、焚き火みたいな暖かい色の魔力燈が優しく部屋中を照らしていた。
ベッドに勢いよくダイブしてみると、ふかふかして身体を包むように受け止めてくれる。
わぁ。
ぐっすり眠れそう
エリザはもう一つのベッドにお行儀よく座り、寝る様子はない。
エリザは寝ないの?
……考えなければいけないことがありますから
そうだった。
結局エリザはこの先、どう生きるのだろう。
難しい問題だけど……
あたしもエリザも、前のように魔物を倒すことが正義である、って妄信することはもうできない。
それだけははっきりしてるよね
エリザはこくり、とうなずく。
なら魔物を倒す生き方はもう出来ない。
新しい生き方を探すしかないよ。
あたしに手伝えることがあるなら手伝うからさ
でも……
現実に起こっている人間と魔物のいさかいを見てみぬふりするのも、正義ではない気がします
確かに、こうしている間にも魔物は人間の生命をおびやかしているのだし、人間なのにメレキウス信仰が広がったあの村には、天上教徒の村長が派遣されてきて村人たちと対立している。
あたしもエリザも、魔物に人間が襲われることのないように、グラマーニャ領内まで魔物が流入しないようになればと思って、魔王討伐隊に志願したはずだ。その現状を改善する努力をなにもしないのが正義なんだろうか。
もっと言えば、あたし達がいなくてもヴァルター達はメンバーを補充して魔王討伐隊としての活動を続けるはずで、あたし達が「魔物を殺すのは正義じゃない」と叫んで何もせずに暮らしても、彼らは今日も魔物を殺すし、いずれは魔王を倒すはずだ。
自分が手を穢さなければいい、と言って、現実逃避するのが正義なんだろうか。
深刻な問題なんだけれど、残念ながらあたしの身体は思った以上に疲れていたようで、ベッドに横になりながら考え事をしているうちに、いつしか眠りについてしまった。
翌朝。
目覚めてみると、エリザはもう起きていた。ひょっとして寝ていないんじゃないかと心配になったが、目の下に隈があったりやつれていたりしないから、多分大丈夫だろう。
おはよーエリザ
おはようございます
あたしは小さな鉢植えが飾られた出窓へ歩いていって、窓を開け放った。森の朝の冷たい空気が気持ちよい。
森のどこかで、瓶に息を吹き込んだみたいな低いくぐもった声で鳴いている鳥がいる。
ヤマバトの鳴き声だ
そのヤマバトを威嚇するように、甲高い叫ぶような鳴き声が混ざる。
これはハーピーの声ですね
ほどなくして、ゴゥッ、ゴゥッ、と、短い咆哮が何度か聞こえたと思うと、ヤマバトもハーピーも沈黙してしまった。
これは何の鳴き声でしょうか?
うーん、聞いた事ないな。
強いて言えば、昔おばぁから聞いたクマザルの声真似に似てる
クマザル?
なんですかそれ
本当か嘘か定かでないが、あたしのおばぁが子供の頃は、うちの村の山一つ向こうに、クマザルという獣とも、魔物とも、人間ともつかない、奇妙な生き物が暮らしていたのだという。
熊のように大きくて、見た目はサルそっくりで毛むくじゃら、しかしとても賢く、集団で森を切り開いて村を作って暮らし、手製の槍や弓矢で狩りを行ったという。
あたし達の村とは狩場が重なるという理由で、昔はクマザルとのいさかいも多かったそうだが、おばぁが子供の頃には関係はおおむね良好で、言葉は一切通じなかったが身振りで多少の意思疎通はできた。狩りで採れたものを物々交換しあったりもしたという。
ところが、山向こうに住むクマザルは、だんだんとその数を増やしていったという。そうなるとやはり、狩場が重なることがどうしても問題となってくる。
実際には、クマザルが増えたことによってあたし達の村の獲物が減っている事実はなかったという。しかし、クマザルがこのまま増え続ければ必ず我々の獲物がなくなる、そうなってからでは遅い。そう強硬に主張する一部の村人に押しきられ、遂に「クマザル狩り」が決行された。
近隣の狩人の村々の協力を仰ぎ、大人数でクマザルの村を襲ったのだ。身体の大きなクマザルたちも、多勢に無勢では勝ち目がなく、多くは殺され、生き残ったものも遠く彼方へと逃げ、二度と戻っては来なかったという。
クマザルがいなくなって、あたし達の村の獲物は増えたかと言うと、むしろ逆だったそうだ。クマザルはあたし達が食べない狼をよく取って食べていた。クマザルがいなくなったことで狼が増え、野ウサギや鹿が激減しておばぁ達は大変に苦労したそうだ。
そんな話をエリザに聞かせると、エリザは神妙に、何かを考えていた。
……アニカの村とクマザルが共存できたように、私達と魔物も共存できないものでしょうか
んーどうだろ
ただ、クマザルと本当に平和的に共存できてたのは、そんなに長い期間じゃないみたいだよ
クマザルといさかいがあった頃は、お互いの村を襲ったり襲われたりがあったみたいで、おばぁが子供の頃の大人たちには、クマザルに祖父や祖母を殺された人もいたんだって。クマザル狩りを推進した中心メンバーは、そういう人達だったみたい
ただ、実際に村を襲った襲われたがあった時代と言うのは、そういう人たちが生まれるさらに前で、クマザル狩りの時点ではもうその時代を知る人はほぼいなかったらしい。
どちらにせよ、良好な関係に見えた時代にも、クマザルへの憎しみを持ち続けていた人がいたのは確かだ。
いずれにせよ、何かのヒントになりそうな気がします。
貴重なお話、ありがとうございました。
エリザはちょこんとお辞儀をすると、また思索にふけり始めた。
(続く)