ヴァルターたちと別れてから五日後。
あたしとエリザは暗闇の森の中を進んでいた。今は小さな清流の流れる沢で休憩中だ。
ヴァルターたちと別れてから五日後。
あたしとエリザは暗闇の森の中を進んでいた。今は小さな清流の流れる沢で休憩中だ。
この森はどんな魔物が出るの?
もっとも警戒すべきはハーピーです。ほかにも、小型ですが水龍の一種も出ますね。
この森の首領はハーピーの女王オキュペテーですが、首領との戦闘は避けられるでしょう
うわ。手ごわそうだ。
魔術が使えないエリザを守りながら、一人で戦わなければならないことを考えると、状況はかなり厳しい。
とりあえず、お薬塗ろうか
川の水を汲んで、ヤマゼリの根を煎じる。その間に他に何種類かの薬草を薬研で潰して、それも煎じ汁の中に投入する。人肌に冷ましたら、火傷に効く塗り薬の完成だ。
呪いで爛れた肌は本当の火傷ではないから薬では治らないが、鎮痛成分が入っているので痛みは少しは楽になるだろう。
はーいこっち見てー
動かないでー
エリザの頬の爛れた箇所に、薬を塗りこんであげる。
塗りこむたびに、彼女の柔らかいほっぺがあたしの指に引っ張られてぐにぐに動き、変な顔になるのが楽しくて、ついぐにぐにしすぎてしまう。
ぐにぐにぐにぐにぐにぐに。
ちょっ、
痛いです……
あっ、
こんなところにも!
彼女のローブの襟元からのぞく胸元にも焼け爛れた痕を見つけた。日に日に拡大していると思ったらとうとう顔以外にも飛び火してしまったか。
こうなったら他にも爛れがないか全身くまなくチェックしなくちゃ。
というわけでエリザ、服脱いで
あ、あのっ、
自分で塗れますから!
もし背中にも広がってたら自分で出来ないでしょ。
ほらー恥ずかしがらずにお姉さんに見せなさい……むふふ
そんな風にふざけあっていると、不意に、古いドアの軋むような音が聞こえた。ハーピーの鳴き声だ。
おふざけタイムを切り上げ、あたしは戦闘の準備をする。矢じりに毒を塗った毒矢を十本ほど用意し、普通の矢と区別がつくようにしておく。
投げナイフ等もすぐに取り出せるか確認しておく。
休憩終了!
ハーピーを警戒しつつ、先に進むよ!
樹上のハーピーの気配に全神経を集中しながら、ゆっくりと歩を進める。
しかし、そもそも暗闇の森に足を踏み入れた時点で、彼女らの縄張りに侵入しているのだ。どれほど相手を刺激しないよう気遣って歩いても、彼女達の緊張が強まっていくのがわかる。
遂に一羽のハーピーが、あたしをめがけて急降下してきた。
弓では間に合わない。あたしは投げナイフに手を伸ばす。大丈夫、魔王討伐隊に配属されてからこっち、ハーピーだって何十羽と仕留めてきた。ナイフが彼女に吸い込まれるように刺さる様が容易にイメージできる。
ナイフの刺さった傷口から鮮血があふれ出す様をイメージして……、ふとそのイメージに、オットーの匕首でわき腹を刺された自警団員のイメージが重なった。
!!
嫌なものを思い出してしまい、思わず手が止まる。
ハーピーはこちらの逡巡などお構いなく、鋭い鉤爪であたしを切り裂きにかかる。
きゃあっ!
ヒットアンドアウェイの要領で、ハーピーは素早くその場を離脱し、投げナイフの射程外からこちらを窺っている。このまま手をこまねいていれば、彼女は再び襲撃してくるだろう。
だがどうしても僧院でのあの惨劇が頭から離れない。オットーが自警団員を殺すのと、あたしがハーピーを殺すのと、何の違いがあるだろう。
アニカ
危ない!
脳内の苦悩に我を忘れている隙に、五羽ほどのハーピーが次々にあたしを目がけて急降下を始めた。全員こちらに凶悪な鉤爪を向けている。
やばい。
エリザ、逃げるよ!
エリザを庇いながら、必死で森の中を逃げ回る。
走り疲れて、もう動けないとなった頃、ふいに襲撃が止んだ。
ふう。
逃げ切っ……た?
どうしたのですアニカ。
何か悩み事でもあるのですか
心配そうな表情で、エリザが覗き込んでくる。
うん……
ハーピーたちはこの森に住んでいて、あたし達はそこに勝手に上がりこんだよそ者なわけでしょ。
ハーピーがあたし達を攻撃するのは当然じゃん
それで攻撃されたから殺すんじゃ、村の人を殺したオットー達と何が違うの?
オットーにあの村の人たちを殺す権利がないように、あたしにハーピーを殺す権利なんてないんじゃないだろうか。
……そのことは、考えないようにしていました
今にして思えば、あの村が魔物に親近感を覚えることについて私が危険視したのは、魔物は人間とは根本的に違う、と思い込みたかったからである気がします
人間も魔物も本質的には同じであると気づいてしまえば、魔王討伐隊として何体もの魔物を殺めてきた私の今までの行いはなんだったのか……
その現実から目を背けたかっただけなのです
あたしがついさっき気づいてしまった、自分のしてきたことへの疑念。それをエリザは、あの村の思想に触れたときから感じ始めていたらしい。
グレーテルが提案した司祭を呼んで改宗を促す案に賛成したのも、実際に司祭に来てもらった後、熱心に村長らとの会談を取り付けたのも、あの村の考え方を否定することによって、魔物を殺めてきた自分を肯定したいからだったのだという。
己の罪をごまかそうとした結果、あのような惨劇を生んだ……
その罪の代償がこの頬の火傷なのだとしたら、むしろ軽すぎるぐらいです
エリザはそう言って、爛れた自分の頬をそっと撫でた。
ねえアニカ。戻りましょうか
悩みを抱えながら戦うのはつらいでしょう
え?
でも、それじゃエリザの呪いが解けないよ?
私のためにアニカが苦しむ必要はありません。
もしこの火傷がもっと酷くなって、痛みに耐えられなくなったら、天上教に改宗すれば解呪出来るのでしょう?
そんな、そんなのダメだよ……
今まで一緒に旅をしてきて、エリザのメレク神への信仰の真摯さは分かっている。改宗なんてしてもらいたくない。なんとしても、女神様のもとへ連れて行ってあげたい。
だがあたしはその時ふと周囲を見回し、先ほどまで襲ってきていたハーピーがなぜ襲撃を止めたのかに気づいた。
狩人として生活していた頃、集団で獲物を追い込んで狩るような場合は、あたしも追い込んでいる間は過剰なほど騒ぎ、わざと致命傷にならない傷を与えたりして一生懸命追い立てたものだ。特定の場所に追い込んだら、もう敵を過剰に刺激する必要はない。少し距離を置いてゆったりと構えていられる。なにせ、こちらのタイミングでいつでも止めを刺せるのだ。
今のあたし達はちょうどそんな風に、ハーピーたちの狙い通りの場所に追い込まれたのだ。狩人のあたしが逆に狩られるなんて。
前方には、とても立派なオークの樹が聳え立っている。誇張抜きで教会の尖塔ぐらいの大きさがあるようにみえるその大樹は、動物の触手のようにうねうねとした根を四方八方に張り巡らせ、ごつごつとした幹にはびっしりと若草色の苔が生えている。幹はあたしの身長の二倍くらいの高さで大きく二つに分岐し、ほどなく放射状に幾十本もの枝に分かれていた。その枝一つ一つが、一抱えをゆうに超える太さがある。
ハーピーの女王オキュペテーの住む大樹です
うん、大体想像はつく。
だって見てよ、沢山の枝すべてにびっしりとすずなりになった、大量のハーピー。
仮にあたしのコンディションが万全で、矢も投げナイフも無限にあったとしても、一度に対応できるハーピーは十羽が限界だ。なのにこの樹の上には、どんなに少なく見積もっても百羽以上いる。
あたし達の生殺与奪は、完全に彼女らの思うがまま、という状態だ。
……さてどうしようか。
……女王の住む樹ってことは、この樹のどこかに女王がいるんだよね
エリザは無言でうなずく。
……これは、逆にチャンスかもしれない。
持ち物入れから風の護符(アミュレット)を取り出し、祈りを捧げる。
発動したスキルは、「風霊王の伝信」レベル2。言葉の通じない相手とも会話することが出来る。
さらに偉大なる精霊シルフの霊験により、聞く耳をもたない相手にも交渉をする気を起こさせる効果もある。レベル2だからその効果はあんまり強くないけど。
ハーピーの女王のオキュペテーさん。聞いて。あたし達はあなた達と戦う気も、あなた達の住処を荒らす気もないの。
女神イーリス様に逢って、エリザの呪いを解いてもらいたいだけなの
我々は女神様を守るために存在している。
我が愛娘に刃を向けたお前たちを、すんなり女神様に逢わせると思うか?
思わない。
だからエリザが女神様に逢っている間、あたしが人質としてあなたの元に残るわ
どういうことだ?
話し合いたい人の元へ行くのに、剣を携えて行くわけにはいかないでしょう?
あたしはエリザの剣だから、面会が終わるまであなたが預かっていて
女神様に用があるのはエリザなんだから、エリザさえ先に進めればそれでいい。もしもエリザが女神様になにか粗相をしたならあたしを殺して構わない。呪いを解いてもらえるまでに何年かかるか分からないけど、頬の火傷の痛みに耐えているエリザに比べたら、人質として数年過ごすくらいなんでもない。
それに聞いたことがあるわ。ハーピーは人間の赤ん坊を攫って育て、奴隷にするんでしょう?
働き手が必要なら、人質になっている間あたしが奴隷として働いてもいい
あたしのその提案を聞くと、女王オキュペテーはおかしくてたまらないと言った風な笑い声を漏らした。
お前が奴隷?
ふふふふふふ、ふはーっはっはっは!
心掛けは立派だがお前では役に立たんのだ
役立たず呼ばわりされて、あたしは少しむっとする。
ハーピーが攫ってきて育てた子より。荒野の狩人アニカ様の何が劣ってるっていうのか。
我々が赤ん坊を攫うのはな、
奴隷は奴隷でも、性奴隷にするためだ
……せいどれい、って何だっけ?
数秒考えて、その意味に思い当たり、あたしは赤面する。
知っての通り、我がいとし子らは女性しかおらぬ。
故に子孫を残すために、オスの種が必要なのだ。
よって嬰児を攫って育て上げ、愛娘たちに種付けをしてもらっている
ひょっとして、もしあたしが男だったら、「奴隷として働いてもいい」なんて安請け合いをした時点で、この大量のハーピーと男女のまぐわいをしなきゃいけなくなる可能性もあったんじゃないだろうか。
そりゃ死ねるわ。
何をされるかわからないのに、気安く自分の身柄を交渉の材料などにせぬほうが良いぞ。
見た目の美しさゆえに昔から売買の対象とされてきた我が一族からの忠告だ
ええ身にしみて分かりましたとも。
面白い小娘だな。
こんなに面白い玩具を女神様に紹介しなかったら、孤独な神殿で退屈しておられる女神様に逆に怒られてしまう。
よし、女神様にあわせてやろう
そう言って女王オキュペテーは、ハーピーのうちの一羽に女神様の神殿までの先導を申し付けた。
命じられたハーピーは、目配せであたし達を促すと、ゆっくりと羽を打ち鳴らし飛んでいった。
あたし達の歩く早さにあわせて飛ぶハーピーの後ろにくっついて、薄暗い木々のトンネルを抜けるとそこは静謐な湖だった。森の底が白くなった。いや、青くなったのか? いやいや、波ひとつない水面は眩しいほどに陽光を反射していたから、やはり白くなったで間違っていない。とにかく、鏡のようにその水面に空を映す、美しい湖がそこにはあった。
綺麗な湖だねー
馬鹿みたいにそのまんまな感想を呟きながら見とれていると、別のハーピーがどこかの岩場に隠してあったらしい舟に乗って来た。彼女は羽毛の生えた腕で櫂をたくみに操って、あたし達の目の前に接岸した。
乗れ、と彼女が合図するので、あたしとエリザは船に乗り込んだ。ほどなく船は滑るように動き出し、岸を離れた。
寡黙なハーピーの操る船に、どれくらい揺られていただろうか。太陽はだいぶ西に傾き、朝に軽い食事を取って以来何も食べていなかったあたしは空腹だった。
いつまで船に揺られていればいいんだろう。女神様の神殿についたら何か食べさせてもらえるだろうか。それとも自分で魚でも釣らなきゃダメだろうか。櫂をこぐハーピーの手を見ながら、そんなことを考えていた。
……手羽先食べたい
船頭のハーピーがびくりと身を硬くする。いや大丈夫だから、そりゃあハーピーの手から手羽先を連想したわけではないと言ったら嘘になるけど、だからといって船頭さんを取って喰ったりしないから。
気まずい空気から我々を救うかのようなタイミングで、前方に大きな象牙色の神殿が見えてきた。あれが女神イーリスの神殿に間違いないだろう。
さあ、いよいよ女神様とご対面だ。
(続く)