いつもの風景だ。
アヌメール……貴方は何故こんなこともできないの
いつもの風景だ。
母が欲しかったのは優良な種子だ。産んだ子は劣等だった。
アヌメールのがらんどうの瞳は母を見上げる。
ごめんなさい、お母様、ごめんなさい、お母様。
言葉は繰り返し口から落ちるだけで、そこに感情はない。
お母様、出来ないことは出来ないんです
そんな言葉は口に出して言えない。そんなことをすれば手が出ることは分かっている。
ふぅ……
背後で頭を振った父の手元には大量の書類。
本当だったら貴方のその半分の仕事をしたい
しかしながらアヌメールにはまだその許しが出ていなかった。どうせ頼んだところで、と思われている。
怒りをぶつけているのも無駄、と思ったのか、母は踵を返して自室へ戻っていった。書類と睨めっこをする父と不出来な息子が残される。
アヌメール
重々しい溜め息とともにこぼれた言葉。
下級貴族といえど……いや、下級貴族だからこそ誇りを持て
怠惰は許さん。
そう言われた気分だ。
父も母も出世欲にまみれている。分かっている。こんな底辺は嫌なのだろう。
自身で出来ないことをこっちに押し付けるな
そう言ってやりたい。
期待なんかするな。平凡は非凡になれない
努力すれば必ず報われるという。そうであればいいとアヌメールも思うのだが、やっているが、最初から持っている者には『勝てない』のだ。そいつは違う。内部に化け物を抱えて、それを剥き出しにしながらも操る才を持っている。
俺はその化け物すらいない
生まれながらに飼っていなければその内部に宿ることはない。
はい
上辺だけの言葉を残して部屋を去ろうとすると。
誰だ
扉の前に立っていたアヌメールが慌てて横に避けると、男が隙間から顔を出した。
失礼いたします
口調は丁寧だが許可が下りる前に扉を開ける行為は、彼が上位の者であることを証明するには十分なことだった。アヌメールも見たことがある。化け物を体内に宿した人種だ。
背筋を伸ばし礼をするアヌメールをしり目に、男はずがずがと部屋に入ってくる。
あ、そのままで結構
立ち上がり礼をしようとした父を制し、彼は言葉を続ける。
例の話なんだけど
分かっておりますよ。我々の剣は錆びておりません
これ以上長居は無用だ、とアヌメールは会話を聞き流しながら、部屋を後にした。
ここの部屋の匂いは落ち着く。古びた紙とインクの香り。
父の書斎だが、アヌメールの入室は禁止されていなかった。それもあまり使わない部屋だ。彼が何時間ここにこもっていても咎めはない。目の前にいれば叱るが、彼がいなければ空気と同じ扱いだった。
都合のいい時に使いたいだけだよな、ほんと
別に読書が特別好きなわけではないが、何となく頭が空っぽになって胸にあるもやもやが消える気がして、叱られた日には籠っていたのが習慣化していた。知識を溜めるのも悪くない。
ほとんど使えないことだけどな
ん?
ぴたりと止まった指先。先には珍しく挿絵が描いてあった。
星喰みの水晶……へぇ
摩訶不思議な代物がこの世に存在するなんて。
それはとある鉱石山地で発見されたらしい。モノ自体はとても大きく自身で発光する、まるで魔法のような水晶。学者が調査してもそれが一体どういう代物か全く解っていなかった。
……もっと調査が必要だと水晶を掘り出そうとしたが失敗、か。勿体ないな。ま、俺には関係ないか
それって星喰みの水晶じゃないか?
星喰みの水晶?
思い出したんだよ。昔、本で読んだ
へぇ。そんなに有名なものなんだね。てか、アヌメールが本読むなんて意外
どういう意味だよそれ
なんとなく、本読むより外で遊んでるイメージ
お前の想像と実際の俺は相当差があると思うぞ。俺はどちらかというとインドア派だ
えー? じゃあ何で旅してるの?
現実逃避です。とは言えない。
言ってなかったか? 文献を広げるためだ
そうだっけ?
そうだ
この話は終わりにしようと口ごもるとイヌメッタはにっかりと笑った。
ま、どんな理由でもアヌメールが外に出てくれたことは嬉しいかなー。あたしは楽しいし
お前は恥ずかしいことを……
いいじゃん。こういうことは素直に言った方がいいよー
本当に、変な奴が聞いたら勘違いするぞ
あっけらかんとした性格は百も承知だ。しかしその感情の根源はやっぱり自由があるのだろう。
平凡な生まれで、普通の生活で、そんなのに憧れるといったら、平民は怒るのだろうか。
裕福は裕福で疲れるんだよな。まぁ貴族の中では底辺だけど
お前は騎士としての誇りを持たなければならない。上に立つ者の部品にならない者は不要だ
遠まわしに言っても使い捨ての駒だ。
はぁ……
どうしたの?
何でもない
そういえばお前いつまでここにいる
……いつまでだろう
高すぎる空にイヌメッタは手を伸ばす。
その横顔がさっきとは対照的に憂いを帯びていて、アヌメールは首を傾げる。空を見上げてもいるのは自由を謳歌する鳥一羽。
周りにいるのは、自分達だと……思っていた。
……危ない!
アヌメール!?
だ……大丈夫だ……
彼女を庇いながらアヌメールは剣を抜いた。
何でここに魔物が!?
くっ……
下がって!
剣で流し受けると、背後からイヌメッタが跳躍して魔物の顔面を蹴り飛ばした。骨の折れる音がしたが、それでも魔物は怯まない蔦のような蛇がイヌメッタを絡めとろうとする。
腕の痛みを庇いながら、イヌメッタとの間に入り、彼女の腕に絡み付こうとした蛇を切り落とす。
ナイス!
イヌメッタは広げた両足とついた片手で地面に着地する。舌を出して唇を舐めると乾燥していた。
早くこいつをどうにかしないと
イヌメッタが目線を向けるとアヌメールと目が合った。肩で息をしている。左腕は真っ赤に染まっている。
…………
…………
たぁぁぁぁぁ!!!
やぁぁぁぁ!
採算なんてなかった。ただなんとなく。
相手の目を見たら、勝てるような気がした。
闇雲だったかもしれない。剣技なんて、流派なんてなかったと思う。
自身の持てる力をキメラに叩き込んだ。
気がつけばキメラは倒れていた。
アヌメール!
イヌメッタは駆けつけるとアヌメールの傷口を心配そうに見つめる。
ごめんね……
俺は何もないから気にしなくていい
何故その言葉がこぼれたのか。多分、キメラは一人では倒せなかった。
きっと彼女がいたから。連携といえたか分からない攻撃だが、それでもあの時の目線は明らかに繋がっていた。
そんな意味で言ったのだが……
何もなくない!
険のあるイヌメッタの声色に思わず身が竦んだ。
アンタはあたしの相棒なんだから!
俺……無意識のうちに内面を……
何もないと思い続けているのは自分だ。
……あたしに魔法が使えれば……
イヌメッタの小さな声は震えていた。
アヌメールは瞳を閉じ、無傷の腕でイヌメッタの頭を撫でた。