第11話 自壊


遠鳴市遠鳴警察署。

 霧湧村で逮捕された泥棒は、隣街の遠鳴警察署で取り調べを受けていた。村にある駐在所には、犯人を留置する施設が無い。もちろん取調室などもないからだ。そこで、検事へ送致するような犯罪を犯した者は、遠鳴市の警察署が一手に引き受けている。この泥棒もその一人だった。
 担当刑事が取り調べで話を聞こうとするが、肝心なところになると日本語が判らない振りをする。まことにタチの悪い泥棒だった。そこで、大きな街から通訳を呼んでくることになっているのだが、到着するまで時間がかかる。
 そこで雑談で泥棒の気心を掴もうとしていた。ところが泥棒は気もそぞろで、落ち着きが無く目線も泳いでいた。何やら様子がおかしいのに、気が付いた刑事は尋ねてみた。
「どうした? 随分と落ち着かないな?」
 泥棒は黙っている。しかし、時々後ろを振り返ったりしている。何かに怯えているようだった。
「…… なあ、さっきから俺の後ろを通っているのは誰なんだ?」
 泥棒はとんちんかんな事を言い出した。基本的に取調室には刑事と被疑者の泥棒しかいない。無関係な人物が入り込むことなど有り得ない。
「…………」
 刑事は薬物中毒を疑って泥棒を改めて見つめた。汗を掻いている風も無い、呼吸が乱れている訳でも無い、視線が落ち着かないのは、逮捕拘束した奴にありがちな事なので良しとする。薬物中毒を疑ったがそうでは無いようだ。
「お前の後ろにあるのは窓だ。 防弾の奴だから誰も通れやしないよ」
 取調室を誰かが通り抜けるなど有り得ない。入り口のドアは刑事の後ろに一つあるだけだし、窓は嵌め殺しの曇りガラスだ。覗き込むことすら出来ない。
「で? どうしてお前は警ら中の警官に自首したんだ?」
 しかし、泥棒は再び黙り込んでしまった。自首して置いてダンマリを決め込むのは、この手の泥棒に良くある手口だ。自分が時間を稼いでる間に、盗品を持った仲間を逃がすのだ。こうすると証拠不十分となり、立件を諦めさせて釈放させる。それを狙うやり方だ。”今回も時間が掛かりそうだな……”と刑事はため息を付いた。


 その警察署の留置場では、若い警官とベテランの警官と、二人体制で留置場に居る被疑者を見張っていた。別に取り調べとかをする訳では無く、被疑者が送検されて拘置所に行くまでの間、見張っているのが仕事だ。
 刑事たちの厳しい取り調べを終えたキムは留置場に戻って来ていた。留置場にはテレビやラジオなどは無い。備え付けの本を読むか、ふて寝するか、天井を睨みつけるぐらいしかやる事が無い。静かな環境で自省を促す目的もあるのだ。
 ところが静かな留置場にキムの怒鳴り声が響いた。
「おい、おいっ! この黒いのをなんとかしろっ!」
 キムは留置所の中に何かがやって来ていると騒ぎ始めた。
「入って来た。 黒い霧が入って来たっ! くそっ! 出て行けってんだ、コノヤロー!!」
 キムは腕を振り回し、服を振り回して留置場の中の壁やら床やらを叩きまくっている。
「こらっ、静かにしなさいっ!」
 余りの騒がしさに留置場の担当警察官が怒鳴った。他の留置房に入っている連中も”何だ?”という怪訝な顔で様子を伺うようにしている。


「おいっ! これが見えないのか! こっちに来るんじゃねぇっ!」
 怒鳴られても構わずに、毛布をふりまわしている。そして、警官に何も無い床を指差して泥棒は怒鳴った。
「…… 何もいないじゃないか?」
 留置房の中を覗き込んだ警官は怪訝な顔をして、一人で騒いでいるキムを見ていた。
「ああ、足に噛り付いて来た!」
 そういって今度は自分の足を殴ったり叩いたりしていた。警察官にはキムが一人でも跳ねまわって居る様にしか見えない。
「駄目だ。 駄目だっ! 身体の中に入って来るっ」
 次に自分の足を雑巾のように絞る真似をし始めたのだ。
「うひぃっ 這い回ってるっ! 這い回ってるっ! ひぃっ」
 そして、身体の中に入ってきたと騒ぎだした。自分の腕を身体に回してアチコチ触り始めた。
「…… 薬物中毒じゃないですか?」
 若い方の警官がそっと相方の警官に呟いた。何も無いのに何か居ると騒ぐ、覚せい剤の中毒患者に診られる典型的な幻覚症状だ。
「担当医を呼ぶか……」
 警察官二人が顔を見合わせていると、今度は急にキムは静かになってしまった。静かに留置場の床の上に座って居る。留置房の壁を虚ろな目で見ているだけだ。
「もう大丈夫なのか? 次に暴れたら拘束して医療勾留にするぞ?」
 留置場では薬物を手に入れられない中毒者が、禁断症状を起こして暴れだす事が多い。そういう時には、手を交差させるように固定してしまう拘束服を着せて、四方が壁になっている特別留置場に拘留させる。こうしないと他の留置されている者に危害を加えることがあるためだ。そして何よりも禁断症状を起こした者は騒々しいのだ。大人しくなるまで入れておく以外に対処の方法が無いのもある。
「……」
 警官が注意をしてもキムは何も言わずに座って居た。警官は気味が悪いと思いながらも、静かになったのならそれでいいかと、日常業務に戻って行った。


 留置場では夕方になると夕飯が出て来る。警官たちが配膳をしていると、キムが身体が痒いと言い出した。
「足が痒い……」
 ボリボリと腕を掻く音立てながら、格子越しに警官に薬をくれるよう頼み込んでいた。
「夕飯を食べた後に塗り薬をやるから、それまでちょっとの間ぐらい我慢してろ」
 取り調べにあたる刑事たちと違って、留置場の見張り当番の警察官は親切だ。面倒見もとても良い。それでも、あれこれと注文の多いキムに、辟易していた警官はぶっきらぼうに答えたのだった。
「腕が痒い……」
 さっきは足だったじゃないかと言われると、痒いところが移動してるみたいだと言い出した。
「身体の中を虫が這いまわっているみたいなんだ…… なあ、なんとかしてくれよ……」
 キムは気弱になりつつあった。ボリボリと身体を掻いているらしい音が、絶え間なく聞こえていた。


「なあ、顔…… 顔が痒い…… 痒いんだ……」
 警官がキムの顔を見ると真っ赤になっているのが判る。
「う゛あ゛あ゛あ゛ぁぁ……っ!?」
 キムは身体を掻く音と共に呻き声を上げ始めた。他の留置房からも”何とかしてやんなよ”と声が出始める。
「夕食の食い物にアレルゲン物質があったのかも知れないですね……」
 留置場の当番警官の一人はそう言った。ひょっとしたらアレルギー性の痒みの可能性があるなと思ったのだ。
「今、担当医を呼ぶから静かにするように」
 古参の当番警官が扉の外から声をかけた。医者を呼ぶ事にしたのだ。
 ほうっておいて虐待したなどと言われると、人権屋の弁護士に付け込まれてしまう。すると奴らはせっかく捕まえた犯人を釈放させてしまうのだ。当然、自分が始末書を書かされるはめになる。始末書はめんどくさいし、昇格試験の成績に響いてしまうのが嫌だった。
「う゛あ゛あ゛あ゛ぁぁ……っ!!」
 キムは返事の代わりにうめき声で答えた。留置場の中からは相変わらず、”ボリッボリッ”と身体を掻いているらしい音が聞こえていた。
 留置場の中で被疑者が自傷行為に走るのはよくある事だ。反省のあまりに自傷行為に走るのでは無い。そんな愁傷な奴は最初から犯罪など起こさない。
 裁判を少しでも有利に運ぶ為にするのだ。裁判と言うのは裁判官がどう思うかで判断するのであり、世間がどう思うかでは無い。裁判官の同情を得て、情状酌量で刑の軽減を狙う為に自傷行為に走る。何度も警察に世話をかける人間は、そういう事には知恵が回るのものだ。
 当番警官はコイツもその一人なのだろうと考え、怪我でもされたら嫌なので電話で夜間担当の医者に来てくれるように頼んだ。


 当番警官と言っても騒いでいるキムだけが担当では無い。他の房に収容されている被疑者たちの面倒も見ないといけない。忙しさに忙殺されいると、キムが妙に静かになっている事に気が付いた。
”あれっ? 本当に静かになったな?”
「おい、もうすぐ医者来るからな」
 不思議に思った警官は中にいるキムに声をかけた。しかし、自分の言う事を聞いて貰えなかったキムは、毛布を被ってふて寝をしている。
「……」
 キムからの返事が無い。さっきまであれだけアチコチが痒いと騒いでいたのにだ。
「……大丈夫か? もうちょっとの辛抱だぞ??」
「……」
 やはり、返事が無い。警官が覗き込む角度を変えようかとした時に、キムが被っている毛布の横から、なにやら赤い物が流れ出ている事に気が付いた。
「おい! 大丈夫か!!」
 慌てた警官は留置場の扉の施錠を外して、中に入りキムが被っている毛布をめくり上げた。


「……っ!」
 そこには骨が見えるまでに掻き毟られたキムの顔があった。顔面の皮がずるりと剥け落ちてしまっている。キムが静かになったのは、余りの痒さに、顔や手足を掻き過ぎて皮膚が剥がれてしまい、そこからの失血が酷くて失神してしまっていたのだ。毛布から流れていたのは血液だった。泥棒は両手を開いたままで仰向けになっていた。その両手をみると指先には肉は無く骨が見えていた。キムは全身を麻痺したようにピクピクしたままで、呻き声一つあげずにいる。
「た、大変だっ!」
 警官なので腐乱死体に接する機会が多いとは言え、先程まで動いていた生身の人間が、肉が削げるほどに掻き毟られた身体は見た事が無いものだ。警官は嘔吐したいのを我慢しながら急いで救急車を手配した。だが、駆け付けた救急隊員の懸命の努力も虚しく、キムは死亡してしまった。流れ出た血液の量が多すぎて失血死したとの事だった。


 霧湧村の駐在所に勤める田中宏和が、そこまで話し終えると目の前にあった温くなった麦茶を啜った。
「中々、壮絶な死にざまだな……」
 村長の日村は泥棒の顛末を聞き終えると田中に言った。
「はい、先日に見つかったリーの死体状況と似ており、捜査本部では皮膚性の疾患を疑っております」
 今みたいな詳しい話は、警察から外部に漏れる事は無いのだが、余りにも奇妙な事が続けて起こったので、疫病を心配した警官が村長に話しをしに来たのだった。
「ふむ、疫病の可能性があると…… 言うことかね?」
 日村は田中に聞き返した。
「はい」
「腰の痛みや神経痛を訴える者は多いが、身体が痒いという者は居ないねぇ…… 何しろ年寄りが多いから……」
 もちろん、村で奇妙な疫病が流行っている事実は無い。
「しかし、気にはなるね。 後で広報係と保険係に言っておくよ。 ご苦労様」
 似たような症状が出ていないか確かめるためだ。それを聞いた田中は礼を言って駐在所に戻って行った。


「…… 自分で自分の皮膚を剥がしたって事ですよね」
 雅史は村長の話を聞きながら言った。
”リーの時も全身の皮膚が無かったと聞いている。 と、いうことはリーも自分で自分の皮膚をはがしたのだろうか?”
 雅史は今日発生していた異常音との関係を疑ったが、場所が隣町の警察署では、異常音は関係無いのかもしれないと思った。場所が離れすぎている。だが、全身の皮膚を剥がして死んでいるのは事実だ。何か原因があるはずだった。
「何でもないのに痒いと思い込まされたみたいですね……」
 姫星は死んだ泥棒が黒い霧みたいなものと言っていたのが気になっていた。自分も霧湧神社や毛巽寺で似たような幻覚を見ている。
「ええ、マガツカミ様の罰が当たったと村では噂されております」
 日村は目を伏せながら話した。キムとリー。二人に共通しているのは霧湧神社の御神体を粗末に扱ったという事だ。


”マガツカミ様っていう神様も、五穀豊穣・子宝祈願の割には情け容赦ないわね…… ちょっと可哀想……”
 姫星が思った感想だった。いくら泥棒とはいえ壮絶な死にざまだったからだ。

pagetop