第10話 毛巽寺

毛巽寺(もうそんじ)の境内。

 霧湧神社の南側にある寺は毛巽寺と呼ばれている。毛劉寺と同じくらいの年代に建立されたのだそうだ。この寺には鬼を退治するとされる増長天像が奉られて村人たちの信仰を集めていた。
 その毛巽寺の境内を見守るように鬱蒼と茂る草木に囲まれている。森の中には四人の男たちがヒソヒソと話していた。
「本当に大丈夫なのか?」
 この男の首に巻いているタオルは色が茶色くなっている。農作業の途中だったのだろう。
「あの人は平気だと言っている……」
 そう答えたのはクリーム色の作業着着た男だ。他の男たちはこの作業着の男に向かって話しているようだった。
「俺は気が進まないんだが……」
 この男は皆の中で比較的若い方らしい、上下のジーンズに野球帽を被っていた。
「……それは全員がそう思ってる。 でも、このままやるしかないんだ」
 クリーム色の作業着の男は、工作を続行するように促しに来たようだ。
「ああ…… そうだな…… 折角御出で下さったんだ」
 最後に話をした男は誰とも目線を合わせないように俯いていた。クリーム色の作業着を着た男は、全員の意志の確認に来たのだった。ここで中断しては元も子も無い。
 クリーム色の作業着を着た男は全員に細々と指示を出して、そのまま謎の男たちは三々五々森の中に散って行った。



 宝来雅史と月野姫星の二人は、伊藤力丸爺さんに連れられて、月野美良が立ち寄ったとされる廃寺の毛巽寺へやってきた。霧湧神社で見せた姫星の体調も気になるが、取り敢えず現地を確認しておく事にしたのだ。一度見ておけば考える際のヒントになると思うからだ。何しろここまでの所、何も収穫が無い、折角遠路はるばるやってきたのに、このまま手ぶらでは帰れないのだ。
 霧湧神社から伸びる細い路地を南に進み、更に蛇行した林道を進むと、鬱蒼と茂る草木に囲まれて毛巽寺はあった。毛劉寺のような門は無く、そこは古びた平屋建ての一軒家風で、ひっそりと言った趣で佇んでいた。そうは言っても近所の者が庭や境内を交代で掃除しているので荒れ果てた印象は無い。
 そして、ここにも泥棒を警戒してなのか、新しい防犯カメラが設えてあった。


「今は廃校になってしまったんじゃが、村の小学校が出来る昭和の初め頃までは、ここが学校代わりじゃったんだ」
 力丸爺さんはここの卒業生だそうだ。雅史はそんな説明を聞きながら建物の外に居て写真を撮っていた。
「バイパスが出来てからは、子供たちは村のバスで、隣町の小学校に通うようになってしまってのう……」
 姫星は一人で本堂の中に入っていった。中に入るとそこは床板だけがあり、かつて仏像が設置されていた場所も、柵で囲われた板の間だけだった。見事に何も無い。何か手がかりになるようなものは無いかと部屋の中を見回していると、ぞわりと外とは違う空気の冷たさ感じた気がした。
「え? また?!」
 その時、姫星は何かが近づいて来る気配に気が付いた。何だろうと思って室内を見回しても何も無い。開け放たれている窓から外を見ると黒い足跡だけが、寺の境内を横切って本堂に向かって来ているのが見えた。”ヒタッヒタッ”と音がする気がする。
 やがて足跡は窓の下付近までやってきた。”ガチャッ”と鍵が開く音がして、続いて”ぎぃーーーっ”と、木戸が開く音が聞こえ始める。しかし、姫星の周りには木戸などどこにも無い。自分から見える本堂には、襖と障子と木の床板だ。窓の方からは”ペタッペタッ”と足音がゆっくりと近づいてくる音がするのだ。
 部屋の温度が更に下がったように感じた。間違いない何かが本堂に侵入して姫星に向かってきている。姫星の額から汗が一滴流れた。
 姫星は目を凝らして正体を探ってみようと試みたが、結局、何も見つけることは出来ずじまい。
突然、左手ある箱庭に面したガラス戸が”バン!”と叩かれた。本堂の壁の内側から”ピシッピシッ”と音がする。姫星は思わずそちらを見てしまった。
 しかし、何も無い。視線を元に戻すと、本堂の中央付近から、黒い霧のような影がのっそりと立ち上がってきた。それは二メートルくらいもの高さがある。何よりも不気味なのが、黒い霧はとぐろを巻くような感じで、ぐるぐると回転しているのだ。
「宝来さんっ! おじいちゃんっ!」
 姫星は自分に近づいて来る黒い霧から目を離さずに、外に居る雅史たちを呼んだのだ。


「どうしたっ?」
 急に自分を呼び出した姫星の身を案じた、雅史と力丸爺さんが慌てて本堂に飛び込んできた。
「何か居るっ!」
 姫星は本堂の黒い霧を指差しながら、飛び込んできた雅史の影に隠れた。力丸爺さんは自分の杖を構えて本堂の中を伺っている。不審者が居ると思っているらしい。
「…… へっ? ……」
 雅史は戸惑ってしまった。姫星は指差す方向には何も無い。雅史と力丸爺さんは顔を見合わせた。しかし、姫星はそこに何かが居ると自分の影で震えているのだ。そこで雅史は友人が話していた、とある現象を思い出した。
”まてよ…… 鼻血に幻視に…… ひょっとして!”
 自分の鞄から小型のタブレット端末を取り出し、姫星を惑わせている現象を確認する為に、とあるアプリを起動した。
「やはり、これが原因か……」
 アプリが表示する計測結果画面で、確信を得た雅史はタブレットにイヤフォンを差し込んだ。
「姫星ちゃん。 これを耳に装着するんだ」
 雅史はタブレットから伸びるイヤフォンを姫星の耳に装着してあげた。
「…… ! ……」
 姫星はイヤフォンから出て来る圧迫するような音に顔をしかめたが、自分が見えていた黒い霧がたちまちのうちに消え去るのを見て驚いた。霧が風に吹かれて霧散するように消えたのだ。
「まだ、見える?」
 その結果に驚いた姫星は雅史から少し離れて周りを見渡した。雅史と力丸爺さんが心配そうに姫星の顔色を窺った。
「…… 大丈夫だけど…… どうして??」
 姫星は首を振った。そして、目を見開いて雅史を見返した。
「恐らく低周波音にやられたんだ。 この村には通常では有り得ない特殊な音が発生しているらしい。 なんだか、異常な高周波音と低周波音に包まれている感じだ」
 雅史はタブレットを見ながら言った。
「低周波音の影響を受けた脳が、幽霊を創り出していたんだよ」
 力丸爺さんは話の途中から付いて行けなくなったが、どうやら姫星は大丈夫だとわかると、手に構えていた杖を元に戻した。
「そこでアプリを使って逆送波を送り出して打ち消すようにしたのさ」
 手にしたタブレット画面を姫星に見せながら説明する。



 原因は低周波音(19Hz付近)だった。それを敏感に感じる事が出来る人間が、長時間浴びていると幻覚や幻聴を見える様になってしまう。脳の神経が参ってしまうのだ。そして、有りもしない幻覚や幻聴・幻覚を創り出してしまうのではないかと言われている。他にも廃墟特有の雰囲気が、人間の感覚に勘違いをさせてしまうのもある。
 雅史が行ったのは逆送波を送り出し、その異常な周波音を打ち消すやり方だったのだ。ノイズキャンセルとも言われている。
「以前、友人が廃墟跡での幽霊騒ぎの検証に行った事があって、その時に異常な低周波音を計測したと、言っていたのを思い出したのさ」
 雅史は姫星にそう説明しながら、外に出ようと手招きした。本堂が原因なら、いつまでも姫星をここに置いて置く訳にはいかない。姫星の安全が最優先だからだ。
「人間は不安を感じたときに、自分が見えてたものを、自分の恐怖の記憶に置き換えるのさ。 その幻覚を勝手に解釈して霊現象だとしたがるんだ」
 雅史は姫星の手を引いて本堂を出ようとしている。今はアプリのおかげで抑えているが、根本的に解決している訳では無いからだ。
「…… じゃあ、幽霊なんかいないの?」
 姫星は尋ねた。心霊体験をしたという友人を何人も知っているし、自分でも見た……と、思っているからだ。
「そういう訳ではないよ。 本人が見たというのなら、きっとそうなんだろうと思うよ? でもね、確証の無い話を、むやみ信じては駄目だということだ」
 雅史は合理的に考える人間だが、他人の信仰まで否定するつもりも小馬鹿にするつもりも無い。自分に影響が無ければ、勝手にすれば良い考えているタイプだった。


「さあ、寺から移動しよう。どうやらここいら一体に妙な音が出ているようなんだ」
 雅史は姫星の手を取り先を促した。本堂から出ても若干の異常周波数が計測できている。だが、雅史は根本的な疑問があった。
「しかし…… どうして、こんな高周波や低周波が発生しているんだ?」
 雅史と姫星は本堂を出て来た。雅史は手元のタブレットのアプリを見てみた。するとさっきまでメーターを振り切る勢いだった、レベルメーターが平常値に戻っていた。本堂の中だけで謎の周波が発生していたらしいのだ。
 原因を探るのに興味を惹かれたが、今は姫星の安全と美良の移動した痕跡の確認が優先した。
「今は防止されているんで見えなくなったのさ」
 雅史は姫星に説明しながら周りを見渡した。何も異常が無いが姫星をここに留めておくのは、危険なのかもしれないと思い始めたのだ。そして残念なことに、ここでも美良の痕跡は無かった。


「ほぉ、謎の異常音ですか…」
 毛巽寺を出た雅史と姫星とは、車で村役場に向かい村長に面会していた。異常音が村で発生していないか聞く為だ。
「実を申しますと、異常音では無いのですが、村の住人たちから似たような怪現象の報告が相次いでいるんですよ」
 そのひとつ。
 神社に至る道沿いに一軒の農家があった。神社に泥棒が入ってからの話だが、午前二時過ぎ位になると、ピンポンダッシュの悪戯をされるようになったそうだ。十分から二十分間隔で二、三回ぐらい鳴らされる。玄関にから外に出て見ても誰もいない。酔っ払いの悪戯だろうと思い無視した。しかし、次の日も悪戯されるので、頭に来てチャイムの電池を抜いたそうだ。
 それでも”ピーンポーーンッ”と鳴る。住民は震えあがり、余りにも気味が悪いのでチャイム自体を外してしまった。すると、今度はドアがノックされるようになったそうだ。最初は”コンコンッ”という感じなのだが、無視していると”ドンドンッ”と強くなり、ついには”ドンッドォーンッ”と家が振動する程のノックになる。住人も仕方無しに玄関に出ると、やはり誰もいない。
「ノイローゼになりそうですわ」
 話をしてくれた住人は力なく笑っていたそうだ。そんな家が何軒かあると日村は話した。そこへ霧湧村の駐在所に勤める田中宏和が、自転車に乗ってやって来た。かなり、慌てているようだった。
「田中君。 そんなに慌ててどうしたんだね?」
 日村が窓から田中に尋ねた。


「警察署に勾留されていた泥棒のキムが死んだそうです」

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