やっぱり、見た目が何か変わっているようには見えない。だが、確実に今までとは違う事があった。

 それは――――…………

おはよ、ドラゴン

おはよう


 身体が、重いということ…………!!

 翔悟と何気無い朝の挨拶を交わした。

 まさか隣のこいつも、今や俺が百キロを超える重量になっているとは思うまい。姿形だけを見たら、力士もびっくり。裸足で逃げ出すレベルだ。

 体重計は壊れてなんかいない。俺の体重が増えたことは、他ならぬ俺自身が疑問に思っていた。

 喧嘩した時の、身体の重さ。あれが全てを物語っていたんだ。通常なら体重が一.五倍にもなりゃ絶対に気付く所だろうが、今回はそうは行かなかった。

 俺にとっては微々たる変化になるように、どこかで調整されているのかもしれない。

試しにジャンプしたら、重みに気付いちまったからな……

は? 重み?

ああいや、少年ジャンプって意外と重いよな


 ついうっかり口をついて出てしまった言葉を、適当な話で誤魔化した。翔悟はきらきらとした眼差しで、俺の事を見ているが。

そうなの!? 俺も今度ジャンプ持ってジャンプしてみる!!

 良かった、こいつが馬鹿で。

 それとなく翔悟をやり過ごして、教室へ。引き戸を開けると、すぐにクラスの様子が目に飛び込んでくる。

 俺を見て、そして……目を、逸らされた。


 空気が静まり返った。今まで静かだったのではなく、俺が入った事によって静かに『変わった』ような気がした。

 ……なんだ? この、物々しい雰囲気は……今までも俺は避けられていたけど、今回は更に悪化しているような。

……


 水希がはっきりと、俺を睨んでいた。

 なんだよ。

あいつ?

たぶん。二年の先輩三人掛かりで倒せなかったっていう、あの……


 ――――あっ。

ドラゴン?


 しまった。

 下級生にやられたなんて知られたら恥だろうからって、噂になることはないと高を括っていた。

 家に電話があった訳じゃない。なら、これからか……? こうなってしまったら可能性は色々考えられるけど、教師にも伝わっていたとしたら、停学は間違いなさそうだ。

 誰も、俺と目を合わせない。噂が事実になったとでも、思っているんだろう……それは今までと同じと言えば、そうなのかもしれないけれど。今の俺にとっては、より冷たく感じられた。

 扉を開いて、先生が入って来る。俺は席に座り、冷や汗を流しながら審判の時を待つ。

 ちくしょう、胃が痛いぜ……

はーい。それじゃ、ホームルームを始めますよー


 …………あれ? 生徒達の表情とは裏腹に、先生の様子は楽な雰囲気だぞ。

 そのまま、何事もなく授業が始まった。昼休みに生徒指導室に呼ばれる事も無かったし、先の不良連中が絡んでくる事も無かったし……

 なんで?

翔悟、お前昨日さァ……何で絡まれてたの?

え? なんか、金髪ウゼーとかで……


 そうか。

 生徒の印象操作はともかく、先生に俺と喧嘩したことを話してしまったら、翔悟に絡んでいた事も公になってしまうからか。自らも停学になるリスクを冒してまで、俺を停学にする事も無いだろうという事なのかもしれない。

 そっかあ。それなら、この件についてはひとまず儲けものだ。

 生徒達の会話を盗み聞きしてみれば、噂を流されたのは『二年の先輩三人』が、『新入生の不良』にやられたという内容のようだった。やられた先輩が誰だったのかは分からないし、新入生の不良とやらが誰だったのかも分からない。

 だが、新入生で不良と言えば真っ先に俺の名前が上がった。そういう事だったんだろう。

 新入生で不良っぽい奴が、まだ俺しか居ないと見ての作戦か。でかい図体して、姑息な事をしやがる。

……ドラゴン、なんかお前今日、避けられてるくね?

そうか? いつもと同じだろ


 放課後になると、ようやく気付いたのか、翔悟がそんな事を言った。何でもない事にして、俺はさっさと荷物をまとめる。

 あまり予想していなかった出来事だが、これだけなら別に何が起こる訳でもない。気にするほどの事ではない、か。

まさか、俺のせい……?

気にすんな。それよりクラス委員だから帰れ帰れ


 そう、俺にはこんな問題のことを気にしている暇などないのだ。どうにかして今日、水希から『か、勘違いしないでよね(以下略)』の台詞を聞かなければならないのだから。

 別にクラスの誰に無視されようが、友達が出来なかろうが、俺にとっては大した問題では…………

 …………あれ。ちょっとだけ傷付くぞ。なんでだろう。

ドラゴン!! ……ほんと、お前には感謝してるからな!!


 翔悟に手を振って、別れる――……意味の分からない奴ではあるけど、今の所はあいつがこの学校で、唯一の友達ではあるんだよな。

 呆然と、扉に向かって手を振り続けた。

顔、たれてるわよ

おわっ!?


 間近で声を掛けるもんだから、仰天してしまった。たれてるって何……? どういうこと?

 まさか、既に顔も豚に…………!?

冗談よ

冗談かよっ!? シャレにならねーから!!

何かあったの?

あ、いや……


 くそ。水希の奴、真顔でボケる癖をそろそろなんとかしてくれ。

 見ると、水希は今日も大量のプリントを持っていた。その上で、椅子に座っている俺を上から見下ろしてくる。可愛い顔してるんだから、もう少し性格がどうにかなればな。

 いや、可愛い顔って何だ。俺は水希に一体何を求めているんだ。

ところで、アンケート集計だけじゃないのか? 何だよそれは

夏休み前の防災訓練の予定づくり

聞いてねえぞそんなの

今日決まったのよ


 なんてことだ。作業がどんどん増えているじゃないか。アンケートもやるんだよな。一人で今日中に帰れるのか、これ……この状況で俺が体調不良を訴えるって、ちょっと良心が。

 ……いや、背に腹は代えられない。ここは水希に、涙を呑んで貰うしか。

 少し大袈裟に、咳をしてみせた。

ゲホッ、ゲホッ…………


 さあどうだ、水希。聞いて来い。どうしたの、調子悪いのって。そうしたら、『風邪引いてるみたいなんだよな』と俺は喋る。

 保健室に行って、杏月さんの横で寝る。丁度仕事が終わった位に戻って来ると、水希が俺の仕事をやってくれているというわけだ。

 そして。か、勘違いしないでよねっ。別にあんたの為じゃないんだからねっ。……と、水希が言う。

 まあ、ニュアンスはどうでもいい。俺の為じゃない事が伝われば、なんでも。

 水希は訝しげな瞳で、俺を見て――――

どうして私を見て、これ見よがしに咳をしているの?

気のせいだよ!!


 何だよ、これ見よがしにって。悪かったな、わざとらしくて。……いや、そうか? 俺はさり気なく咳をしただけだぞ。

 そんなに分かり易いんだろうか。いや、でも分かり易いかどうかは関係ない。俺が風邪を引いているのかもしれないって、水希に気付いて貰えればそれで良いんだから。

どうも、風邪引いちまったみたいなんだよな……

そう。私にうつさないでね

…………ああ、努力するよ…………!!


 えげつねえ。えげつねえよ穂苅水希。これがスーパードライってやつなのか。

 どうしよう。この調子じゃ、俺が仮に保健室に行った所で、俺の分の仕事はそのまま残っている可能性さえあるぞ。自分の分だけやって帰られたら、時間も測りようがない。

 保健室に行ったフリをして、廊下で見張るか……? でも水希が俺の分の仕事をやってくれないと、『べ、別にあんたの(以下略)』も言ってくれないんだよな。

 ……そうだ。見張る方向でいこう。

悪い穂苅さん、なんか俺、ちょっと気分悪くなってきたわ

そう

……保健室で、休んで来ようかな

……


 会話が続かねえ…………!! 会話が続かねえよ師匠!!

 世の中のイケメンは一体こんな時、どんな台詞で女の子の心を溶かしていくんでしょうか。いや、それでさえ溶かすことが出来ないからこそ、スーパードライなのか。

 いや、負けるな俺。ここで負けたら豚行き直行だぞ。

で、でも、仕事残ってるしなー……なーんて……


 ふと、水希が俺の事を見た。

 純粋な瞳。決して笑顔を向けられる事はなく、怒られる事もなく、無表情なままだ。

さぼりたいなら、好きにしたら

……


 俺の中に、僅かに残っていた水希への期待とか、そういうものが、音を立てて崩れ落ちて行くのが分かった。


 そうだった。


 特定の台詞を吐かせようなんて、とんでもない。俺と水希はまず、日常会話を成立させる所からスタートじゃないか。

 そんな事は分かっていたけれど。心の何処かで、一生懸命会話をしようと試みれば、水希も少しは普通に話してくれるかもしれない、なんて。

 期待感だけが先行していた事を、認めざるを得ない。

…………あー。やっぱ、やっていくわ

そう


 おうおう、居心地悪そうにしちゃって。俺が居るとそんなに駄目ですか。

 どちらかと言えば、保健室に行くことを期待されていたようにさえ感じられる。

穂苅さん、さ。何でそんなに俺を避けるのかな


 ふと俺は、そんな事を口にしていた。

 水希はいつものように、無表情のままでいたが。少しだけ、その顔は寂しそうなそれに変わったような気がした。

……気にしないで。こういう性格なのよ


 答えになってねえよ。


 ○

助けてください!!

…………


 駅前のファミリーレストラン。呼び出した先で赤髪の男に頭を下げられた杏月さんは、少し驚いたような顔をして、腕を組んでいた。

 どうにかして、水希に近付かなければ俺は。どういう結末になるのか分からないが、とにかく豚になってしまう。らしい。

 このままじゃ、ギャグにもならない。いや、俺の存在自体がギャグになってしまう。それだけは、どうにかして避けなければならない。

 こうなってしまったら、ルール違反の可能性がどうとか言ってられない。なんとしても水希に台詞を吐かせて、豚化から脱出しなければ。

 あいつがスーパードライだから豚になりましたなんて、そんなビール腹はいらない。

…………手紙? あんたに?


 俺は自分宛てに届いた手紙を回収し、杏月さんに見せた。ふざけた内容の手紙を読むと、杏月さんは溜め息をついた。

これは何のゲームなの……?

ゲームでもドッキリでもないんだ、杏月さん!!
このままじゃ、俺が豚になっちまうんだよ!! っていうか既に百キロ超えてんだやべえんだって!!


 困ったような顔で手紙を読みながら、杏月さんは……まあ、そりゃ困るよなあ。仮に俺が言われる立場だったとしても困りそうだ。

……まあ、事情は分かったわ


 今日は金曜日。次は土日だから、月曜日には俺は豚になってる計算だ。という事は、休日をのんびり過ごしていたんじゃ、もう間に合わない。

 どうして自分が豚になる日を逆算しないといけないんだ。

とにかく、水希にこの台詞を言わせれば良いんでしょ?

ああ……でも、全然方法が思い付かなくて。俺一人じゃ、もう無理だと思って


 そう言うと、杏月さんは今時のギャルっぽい服装のまま、胸を張った。

まあ、この杏月たんに任せておきなさいよ

自分で自分のこと、『たん』呼ばわりしちゃう女の人って……

可愛くないわね

いえいえいえ!! ありがとーございますっ!!


 天下の杏月様を敬い倒す俺だったが。杏月さんはメニューをちらりと見ると、腕を組んで溜め息をついてから言った。

そういえば、パフェ奢るのまだだったわね

手伝ってくれるならパフェなんていらねえです

まあまあそう言わずに食べなさいよ、大関でしょ?

はっけよーい


 まさか、俺が体重の事でいじられる日が来るとは。杏月さんはキラキラとした笑顔で俺の事を見ているが。

 ちくしょう。俺だって、別に見た目はまだデブじゃないんだぞ。…………ん?

 席の向こう側に居る奴等は……俺がつい先日、翔悟の件で戦った相手じゃないか。四人席に座って、こんな時間に。

龍之介?

あ、いや……


 今日は、四人で話しているようだ。しかし驚くべき事に、その輪の中には……もう一人、見覚えのある顔があった。

 屋上で、水希に告白をした男。名前を確か、落合……とかなんとか、言っただろうか。

 まさか、あの連中とつるんでいたなんて。

 俺は席を立ち、ドリンクを取りに行く振りをして奴等の席に近付いた。

それにしても、落合もひでえ事するなあ

女の情報発信能力を侮っちゃいけないぜ。
お前等も影で何話されてるか、分かんねーもんだよ


 …………あのガタイの良い男が下級生に負けたなど、話す筈がないと思っていたけれど。

 そうか。俺の噂の一件は、落合が裏で糸を引いていたんだ。

 恰も他人の振りをして、第三者の意見として情報を発信する……それが不良には出来なくても、クラスの人気者ならできる。……そういう事だったのか。

 どうやら落合とか言う先輩、あんまり性格の良い男では無さそうだ。

そんなお前でも、振る女だって居るのになあ


 水希。

 落合は険しい目付きのまま、明後日の方向を睨み付けて言った。

勿論、このままじゃ終わらねえよ


 ……なんだか、雲行きが怪しくなって来たぞ。

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