いやに冷静だった。
いやに冷静だった。
僕は熊に変形したリンフォンの横を通り過ぎ、
台所のまな板に買ってきたものを出す。そして
空になったビニール袋をそっとリンフォンにかぶせ、
取っ手を持ってすくい上げた。
ごろん、と重みが移動してそれが中に収まる。
袋を回して縛り、一息ついた。
ぼとり。
僕はびっくりしてはっと飛び退く。
また板の上から生鮭が落ちただけだった。
熊と鮭。嫌な組み合わせだ、と思った。
午前九時。
不燃ごみの集荷を見届けて、僕はエントランスを出た。
学校は遅刻。でもどうでもいい。どうせ誰も来やしない。
リンフォンは怖い話になぞらえ、ビニール袋ごと
ガムテープで巻いて捨てた。今行ったゴミ収集車に
それが入っている。
明日までには処理されてしまうだろう、 最期まで
見届けたいがそうも言ってられない。
僕にはやることがあるんだ。
学校に寄ってメールを確認したあと、
私営図書館に来た。
今日の予報では何も降らないらしいので、いつもより
軽やかに動けている。街にもだいぶ人がいた。
図書館の館長らしい初老の男性が会釈してきた
ので、目線で返す。ファフロツキーズのせいで
閉館していたのを連絡して開けてもらったのだ。
事前にメールしておいたせいか、この人は何も
言ってこなかった。
ここは街のはずれ、あまり人の来ないところ。
館長の趣味で怪談や伝奇系のオカルト文献ばかり
集まっているので、趣味が高じている人以外は
寄り付かないそうだ。僕も来るのは初めてで、
少し緊張している。
館内には窓がなく、代わりに珍妙な絵画が飾られて
いた。見上げるとエアコンと通風口がある。
息を吸って、吐いた。図書館特有のにおいだけが
ある。道路の腐った生き物や下水の臭さはない。
かなり快適そうだった。これなら何時間も居られる。
都市伝説の本をいくつかめくって、それらしいものを
細かく読んでいった。不幸の手紙については多くあった
が、ロアについては少ない。リンフォンは創作か怪談の
方だろう、全く見当たらなかった。
何時間かしばらくそうしていて、手近な机に本を積んで
読み漁っていた。ふと、机の上に紙コップが置かれて
顔を上げる。
館長だった。彼は苦笑いして飲食禁止の張り紙を
指差し、特別だよというように手を振った。
僕は頭を下げて、それをいただくことにする。冷たい
お茶だった。ありがたい。
あまり収穫はなかったが、怪談を考察する
シリーズが見たこともない文庫から発刊されている
のを発見し、これを数冊借りていくことにした。
館長はこころよく承諾してくれ、持ち帰りやすいよう
トートバッグまで貸してくれた。よほど久々の客だった
んだろうな、と思うと少し切なくなる。
はやくこの怪雨もやめばいいのに。
部屋に着き、適当に腰かける。
今日はポストに何も入ってなかった。部屋に入るとき
悪寒もしなかった。おそらくもうリンフォンは無いだろう。
図書館では数時間と思っていたが、かなり集中
してしまったらしい。とっくに日は暮れていて、思い
出したように腹が鳴り、胃がきりきりと痛んだ。
あり合わせのもので何か作ろうと台所の方へ
向かったとき……ベランダに面したガラスが
大きな音を立てて砕け散った。
驚いて振り向くと……何かが投げ込まれた
ようだった。部屋の中に大きなものが転がっている。
有り得ない。ここは七階だ。もちろんベランダには
誰も居ず、外に近しいビルもない。どこかから投擲
するのは不可能のはず。
……よく見ると、それは鳥だった。いや、鳥の形を
した置物か。本物かと見間違うような、両羽を開いて
威嚇する鷹の像。
僕はこれを知っている。正しくは聞いたことがある。
精巧な動物の形に何度も姿を変えるパズル。一度
触り始めると昼夜問わず熱中し、常に考えているほど
他のことが手につかなくなってしまう玩具。
……凝縮された極小サイズの地獄。地獄の門。
その名を、「リンフォン」。
……そいつが、二段階目に姿を変えて、戻ってきた。