もう、冷静ではいられなかった。

 僕は鷹に変形したリンフォンを素手で掴み、
割れた窓から外へ投げ出した。
 触れたらどうなるとかもう関係ない。触れなくたって
舞い込んでくるんだ。

 しんとした部屋に、僕の荒い呼吸だけが響く。

 リンフォンが地面に叩きつけられたような音は
しなかった。それに気づいたのは、倒れるように
気絶して目が覚めてしばらくした後だった。

 それから二日経つ。
 窓ガラスの業者が入るまで幸い雨もファフロツキーズ
も降ってこなかった。

 収まったのか、それなら良いが……
 吹きさらす部屋が直っても、僕にまとわりつく
寒気は止まらずにいる。

 まだ終わってない。
 まだ、ひとつ残っているんだ。

 今日は私営図書館に本を返しに行こうと思っていた。

 というのは、メールで確認したところちょうど
休館日だったのだ。
 元々ほぼ人が来ないのに定期的に休むのか、と
怪訝に思ったが、決まりなら仕方ない。

 ロアのことがあり、不幸の手紙のことがあり、
リンフォンのことがあり、アンテナを直す業者に会い、
図書館の館長に会い、窓を直す業者に会い……と
ここ最近は緊張する場面が多かった。
 小休止として何もせずにいるのもアリだろう。

 天気は、はかったように雨。
ぞっとするほど冷たい空気が、空調を切った部屋の
中を引き締めるように漂っている。
 雨の日はどうしてかファフロツキーズが無いことが
多い。降り注いでは汚れを流していってくれる、
言わば恵みの雨だ。

 汚しては清め、汚しては清め……この空は一体
何がしたいのか、僕には検討もつかなかった。

 翌日になって、晴れ。

 予報によるとファフロツキーズも降らないらしい。昨日
干せなかった洗濯物をベランダに出し、図書館へと
自転車を漕いだ。

 雨が降った翌日は、大気中のよどみが少なくて
心地いい。僕は久し振りに肺いっぱい外の空気を
吸って、綺麗な道路を駆け抜けた。

 図書館の管理人は以前行った時より喜んでくれ、
お茶を淹れてくれた。特に喋れることはないが、
機会があったら本を借りに来る約束をして帰ってきた。

 汗ばんで、少し。
今日は浴槽に湯を張ってみようと思う。

 清々しい日だから。良い一日だったから。

 アラームが鳴って、お湯が満たされたことを告げる。
 僕は脱衣所で服を脱ぎ、

 ぼちゃり。

 何かが落ちる音がして、僕は風呂場のドアを開けた。

 透明な海があるように見えた。何とも言えない色をした
生鮭が、一番風呂を僕より先に浴びている。

 ……よく見ると、それは置物だった。背びれと
尾びれが無い、首が伸びて骨が見えている、いびつに
死んだ魚の置物。それが湯船に浮いている。

 僕はこれを知っている。正しくは聞いたことがある。
 精巧な動物の形に何度も姿を変えるパズル。一度
触り始めると昼夜問わず熱中し、常に考えているほど
他のことが手につかなくなってしまう玩具。

 ……凝縮された極小サイズの地獄。地獄の門。
 その名を、「リンフォン」。

 ……そいつを、僕は掴んだ。無意識だった。

 瞬間、ぶるりと震えて取り落とす。そいつが
身じろぎしたのか、僕がおびえていたのかは
わからない。

 死んだ魚は湯の中を深く潜り込み……底に
頭をぶつけた。
 そして、首が引っ込んで背びれと尾びれが飛び出した。

 もう、それはどこから見ても魚だった。 
僕には、リンフォンが生き返ったように見えた。

 ――そしてこの日、僕らの街は死んだのだ。

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