遼の後ろには、圭子と、残念そうにうな垂れる浩輔。
息子の寂しそうな顔を見て、圭子は彼をひょいと抱きかかえる。細い腕をしているが、さすが母親といったところだろうか。

それでも遼と顔を合わせようとしない浩輔に、圭子は困惑した表情で彼を見る。
ごめんなさいね、と言っているように見えて、とんでもないと首をふった。

母親の首筋にすがる浩輔に、遼から声をかけたのはすぐだった。

浩輔くん、今日は楽しかったよ。
ありがとう。

浩輔の背中に向かって言葉をかけるが、一向に振り向く様子はない。今まで聞き分けがよかったのもあり、急に駄々っ子になってしまった彼に、遼もどうしたらいいのかわからない。
子どもの心の移り変わりは激しい。

もしや眠いのだろうかと圭子に視線を送るが、彼女は苦笑して続ける。

この子、寂しいのよ。
遼くんといるのが楽しかったのね。

圭子の言葉に、微かだが浩輔の頭が揺れた。肯定を示しているようだ。

そこまで暗くなってしまうほど別れを惜しんでくれる浩輔に、遼も嬉しくなり、圭子に提案をしてみる。

あの、よかったら、また浩輔くんと遊ばせてください。
家の中がダメなら、外でも構わないですし。
心配でしたら、浩輔くんに俺の連絡先も渡してあります。身分証明もできます。

浩輔は、自分と遼の関係について話し合いをしているのだと気がつくと、のろのろと顔を上げて二人を見た。
薄く涙の膜が張った目を遼に向けると、ガッチリと視線がかみ合う。
浩輔を安心させるために、遼は小さく微笑んだ。

圭子はといえば、二人の無言のアイコンタクトを受け、しばらく考え込む。
今日会ったばかりの男だ。このまま子どもを任せるのが、どれだけ常軌を逸しているのか、遼にでもわかる。
しかし、それだけでは言い表せない何かがあるのだ。

遼は、浩輔と一緒にいたかった。
また、浩輔も同様に。

「お母さん」と浩輔が呼ぶ。
ハッとして、圭子は上目遣いに顔を覗く浩輔に気がつく。

寂しげだった彼の瞳が、今は希望にあふれる。
先ほどまでの元気のなさはどこへ行ってしまったのかと、圭子は思わず笑ってしまった。

彼女の笑顔を見て、浩輔は嬉しそうに遼を見る。
まだお許しを貰ってはいないが、浩輔の変化がそれを如実に表していた。

二対一じゃ敵わないじゃない。
まったく、コウちゃんも誰に似たんだか。

じゃあ、いいの?
ね、お母さん!いいの?

母の肩を掴み、勢いよく揺らす。
ガクガク頭を揺さぶられながら、圭子は浩輔を宥める。

いいから、いいから。
今日はバイバイしてね。

言われるが早いか、浩輔は圭子の腕を抜け出して、遼に手を差し伸ばす。キラキラ光る目は遼を写すが、当の本人は何を求められているのかわからず。

とりあえず、浩輔に視線を合わせようとしゃがみこむと、飛び込むように浩輔が抱きついてきた。
突然のことで体が固まり、倒れないようにするだけで精一杯だった。
抱きしめ返すことはできずに、ただ胸に顔を埋める浩輔を見つめる。つむじが可愛らしく渦を巻く。

待ってるからね!
公園で待ってるから!
絶対来てね!!

……うん。

顔が離れた浩輔の頭を優しく撫でてやる。
笑う彼の顔を心に留め、遼は立ち上がって圭子に、家に勝手に入ったことを詫び、浩輔に会うことを許してくれたことに感謝した。

頷く彼女と、大手を振って見送ってくれる浩輔に応え、遼は深津家を後にした。

空には三日月と、まばらに光る星々。
タイミングを見計らったかのように鳴る携帯。

カバンを肩にかけなおし、画面を見ずともわかる相手にため息を漏らす。
先ほどからもメールが何通か届いていた。返事を返さないだけでこれだ。

眉がキツく狭まっているのに気がつき、遼は指で額を揉み解しながら電話に出た。

……はい。

遼の母

もしもし?遼?
今どこにいるのよ。何時だと思ってるの?

いいだろ何でも。
今から帰るよ。

深津家にまで声が聞こえてしまうのではと不安になり、歩きながら話すことにした。

しかし相手はそんなことは知らずに、遼を追及する声を止めない。むしろ、次第に強い口調に変わっていく。
それもいつものことだが、今日は一段と耳につく。先ほどまでの明るい部屋とは一転、ここはなんて暗いのだろうか。

遼の母

そういうことを言ってるんじゃないの。
母さんも、父さんも心配するでしょう?何かあってからじゃ遅いんだから。

体が使い物にならなくなったら、大変だし?

遼の母

当たり前じゃない。大事な体なのよ?
せっかく良い学校に入ったのに、何もなくなっちゃったら頑張りが無駄になるのよ?
遼も嫌でしょ?

さも当然のように言う母の態度に、遼は頭が痛くなる。

今の学校も遼の希望ではないし、良い学校に入りたいと言ったのも遼ではない。全ては彼女の決めたことだ。
それを『遼が考えて行動したこと』、というレッテルを貼られているような言い方が我慢ならない。

母の問いかけには答えず、「今から帰るから」とだけ言って、携帯の電源を落とした。
連絡がきた合図さえ聞くのが嫌になる。
熱の引いていく携帯を見つめていたが、真っ黒な画面に吸い込まれそうに感じ、遼はすぐにしまい込んだ。

再び家に向かって歩き出す。
帰るためには浩輔と出会った公園を通ることになる。学校から、自宅へ行くか深津家へ行くかの分かれ道となり、遼には明暗を分けるものでも。
街頭のお陰で、夜空の明かりは見えそうにない。三日月の輝きは心もとないものだが、満月より落ち着く。

ボーっと空を見上げ歩いていると、いつの間にか公園の前に立っていた。

暗くなった公園に人の影はない。
夜の外気に触れていると、怖さがこみ上げてくるが、遼にはそれ以外にも感じるものがある。
羨ましさだったり、それに対する困惑だったり。

遼は公園から視線を逸らして先を急いだ。
少しすれば目の前には自宅が現れる。

豪奢な入り口は上手く周りと調和している。
ここらは、いわゆる富裕層が暮らす一角。一般の家庭より少しお金が多いというだけで、それほど大きな違いはない。
遼は重い腕を持ち上げ、ゆっくりと扉を開ける。

お出迎えはないようだが、家の置くから話し声が聞こえる。遼の母と父の声だ。
言い合う二人はどこか攻撃的で、遼は方向転換したい気持ちを堪えて、さっさと靴を脱ぎ、「ただいま」と声をかけてから二階へ逃げた。

後ろから母が追いかける音がしたが、そのまま部屋へ入って鍵をかけた。

遼の母

遼?遼!
何で顔を見せないの!?

挨拶はしたんだ。
疲れたし、寝たいから静かにして欲しいんだけど。

返事はない。
代わりにスリッパが階段を下りる音が遠ざかるのを聞いた。

遼はベッドに飛び込み、制服にシワが寄るのも構わずに無造作に寝転がった。
お尻に携帯があたる。

遼は目の前に携帯をかかげて、着信履歴をひらく。母、の文字が並ぶ履歴を一括で削除し、なんだか痛む頭を指で叩いた。
全身が脱力し、柔らかな布団の中に埋もれていく。

電気の眩しさに目を細め、しかし起き上がる力はなく。
遼はそのまま、そっと瞼を閉じていった。

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