やだ、美味しい。

口元に手を添えて、深津 圭子(ふかつ けいこ)は賞賛の声をあげた。
褒められれば、遼も悪い気はしない。顔には出さないが、自分がしたことを褒められた嬉しさに、頬が染まる。

玉ねぎの甘い香りが充満したところで、圭子はスプーンを置いた。

これじゃ、私のカレーなんて
合って無いようなもんね。

お母さんのも美味しいよ?

訂正する浩輔に、圭子は「ありがと」と笑う。
頭を撫でる彼女の手は優しく、浩輔の満足さは見ずにもわかる。

明日のためにと鍋に残りがあるが、父親が帰ってきたらわからないな、と圭子は唸った。
足すこともできる旨を圭子に伝えると

本当?
それじゃ、お願いしようかしら。

はい。構わないですよ。
キッチンお借りします。

その間に、コウちゃんはお風呂入ってきちゃいな。
お兄ちゃんに、後でさよなら言えるように!

うん!

元気のいい返事を返し、浩輔はお風呂場に向かう。
パタパタと足音が遠ざかっていくのを聞き、遼もキッチンに立った。残った玉ねぎを使うことにして、先ほど洗ったばかりの包丁を掴む。
あとは少しづつ味を整えて終わりだ。
彼が、家に帰らなければならない時間も、迫る。

憂鬱な気分を感じながら、遼は玉ねぎの皮を向いていく。
茶色い皮を過ぎれば、あとはいつまでも白い世界。このまま時間も同じように過ぎればいいのに、と考える。

ボーっとしていたので、背後で動いた気配に気がつかなかった。
すぐ後ろに圭子がいる。

驚き、遼が肩を跳ねさせると、それ以上に圭子がビックリしたようで、胸に手を当てて苦笑した。
片手に玉ねぎ、片手に包丁を持ったまま、遼は小さく頭を下げた。

すいません。
危なかった……。

大丈夫、大丈夫。
気にしないでー。

明るい圭子に、罪悪感が増す。

遼は肩を狭めて、なるべく小さい範囲で作業を再開。
玉ねぎは目が痛くなるので、あまり顔を近づけない。鼻から吸って、口から吐く。
料理の本で読んだことのある知識だ。
学校での調理実習では、彼の知識がクラスメイトたちに重宝されている。
それは、ここでも同じようだ。

少し離れたところで、圭子は感心して遼の手さばきを見つめる。彼女の口からは、ため息ともとれる、長い吐息がもれた。

凄いねー。
私なんて、今でも涙流しながらやってんのよ?
揚げ物なんて地獄。

ぶるり、と体を震わせる圭子。
嫌な思い出が蘇ったようだ。油が跳ねる恐怖は、誰でも経験するだろう。
遼も初めはそうだった。

好きでやってますから。

おうちでも?

何気ない問いかけに、遼の手が一瞬止まった。
が、すぐに持ち直し、頷く。

……はい。
家事はできるんです。
いい物件でしょ?

確かにね。

冷蔵庫を開け、2リットルのペットボトルを持つと、キャップをあけてそのまま飲む。豪快な母親だな、と遼は横目に見る。
浩輔の人当たりのいい性格は、彼女から受け継いだものだろう。

視線が合うと、遼の方から外す。
これは癖で、すぐに直るものじゃない。

圭子はズレた視線をそのままに、ペットボトルを冷蔵庫に戻して、遼の横顔を眺める。
真剣な表情だが、それだけではない。

ねえ、遼くん。
家にいる理由はわかったとして、どうしてこんな時間までいてくれるの?
ましてや、通報されてもおかしくない形で。

表情は柔らかいが、語調はキツめ。
答えないことを許してはくれない言い方に、遼は言葉をなくす。

切り終わった玉ねぎを炒めるためにフライパンを出す。
熱したフライパンに玉ねぎを落とすと、ジュッと激しい音と共に、一気に水分が飛んでいく。
色が変化するのと同じくして、刺激の強かった香りも、まろやかなものに変わっていく。

手際はいい遼だが、それ以外は何一つ追いつかない。
圭子になんと答えたら良いものか、考えに考えるが、この場をしのぐ適当なものがない。
本当のことは、あまり話したくはなかった。

だが、彼女がそれでオッケーを出すかどうかはまた別の話。

ちらりと隣を窺えば、まだ遼を見つめている。
困ってしまい、仕方なく、自分のことを少しばかり教えることにした。
これ以上引き伸ばして、浩輔に聞かれるよりは余程いい。

家に帰りたくないんです。
一身上の都合で。

その都合って?

……親が、嫌いで。

あら、傷ついた。

口ではそう言いつつも、腰に手を当てる姿は、全く傷ついているようには見えない。

遼は苦笑して火を弱火にし、スープを作る作業に移行。
水を足し、コンソメを足し……味の確認をして、黒胡椒を少し。浩輔には気をつけてもらおう。
綺麗に色づいた玉ねぎを、鍋に投入して、しばらく煮込めば完成だ。
もう、手先に頼ることはできなくなる。

遼は顔を上げ、続く言葉を待っていた圭子に向く。

圭子さんは好きです。

それを、自分の親に言ってあげなさいよ。
何?反抗期なの?

……まあ、そんなとこです。

瞬間、笑顔の無くなった遼だったが、すぐに続ける。

でも、もう帰りますよ。
迷惑かける気はなかったし、お父さんも帰ってくるでしょ?
客がいたら、ゆっくりできないし。

……そうね。
でも、浩輔が出てくるまで待っててよ。
私、約束しちゃったんだから。

言って、浩輔の様子を見に、彼女は廊下に出た。
後ろ姿を見送る遼の体から力が抜ける。こんなに緊張したのは、バイトの面接以来だ。

ブルブルっと上着のポケットで携帯が震えた。
嫌な予感がする。
こんな話をしてしまったからだろうかと、遼は後悔して携帯の画面表示を見る。
そこには見知った名前。
母のものだ。

電話ではなく、メールだったことだけが救いだ。

ゆっくりと指先で画面をなぞると、友人たちから貰うメール画面と同じなのに、神経質そうに見えた。

『まだ帰らないの?』

毎度届く内容のメールに、遼は眉根をグッと寄せて返信もせずにポケットに戻す。

廊下の向こうから、圭子と浩輔の明るい笑い声が聞こえる。遼は唇を引き結んで、鍋に蓋を被せて火を止めた。
笑顔は見えなかった。

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