ショートショート
「波がきこえる」



どうしようもない青が、僕の目の前に広がっている。

空の青と、海の青。

そして打ち寄せる波と、カモメの声。

水平線を眺めながら、僕はこのまま飛び降りたい衝動に駆られた。

……

なるほど、自殺の名所とはよく言ったものである。

この断崖絶壁からそろそろと下を覗き込むと、ぽっかりと海が口を開けて僕を待っている。

途絶えることがない波の音が、まるで催眠術をかけるように頭の奥に響く。

形容しがたい快感に襲われ、意識が飛びそうになった。






……ああ……








……このまま落ちちゃえば……








……僕の中にある汚れが……








……全部……








……落ちるんだ……






一歩前へ踏み出そうとした僕。

すると、その肩を掴む手があった。

振り向くと、見知らぬ女の子がいた。

助走をつけないと、ほら、あのポコッと出た岩があるじゃない?

あそこに当たっちゃって、海に入る前に死んじゃうよ?

崖から少し出っ張った岩を指さす。

何も言えないでいると、その女の子は言った。

私みたいになりたくないでしょ?

え? どういうこと?

そう言うのがやっとだ。

私は幽霊ってことだよ

彼女が一瞬、霞んで見えた。

いつの間にか夜空には月が浮かび、潮風も随分と冷たくなった。

彼女と話し込んだが彼女は自分を幽霊だと言って譲らない。

幽霊って足がないんじゃないの?

スカートからは細くて白い足が見える。

今時、足のない幽霊なんて流行らないわよ

そういうものかな?

そういうものよ

彼女は小さくため息をつくと、まくしたてるように言った。

日本の幽霊に足がなかったのは昔、誰かが立派な「足のない幽霊」を掛け軸に描いたからなのよ

あまりに上手だったんで、こぞって日本の幽霊はみんな真似したのね

横並び主義もいいとこだわ

いかにも「面白くない」という顔をする彼女に僕は苦笑した。

へー、君って物知りなんだね

当たり前じゃない

だって私、幽霊だもの

当然といった風に、鼻をツンと空に向ける。

降る月明かりが彼女を照らして、僕にはまるでスポットライトを浴びているように思えた。

ねえ、こんな遅くまでこんな所にいたら、家の人に怒られるんじゃない?

だーかーらっ! 私は幽霊なんだってば!

あくまで僕をからかいたいらしい。

いい加減に呆れた僕は、適当に彼女の話に合わせることにする。

帰る家もないなんて、幽霊って可哀想だね

大丈夫よ。朝日が昇りきったら私は消えちゃうから……

どこ行くの?

……分からない。ずっと遠いトコ

ため息混じりに言う彼女。

そしてふと顔を上げると僕を見つめた。

そして、呟く。

ねぇ……キスしよっか?

え?

私、キスの味も知らないで死んじゃったから

彼女の瞳に、暗い影が見える。

口元には悲しげな笑みが見て取れた。

辺りが白々と明け始める。

水平線から太陽が顔を覗かせる。

朝日が僕と彼女を潮風と共に包み込んだ。







……ざざぁ……









……ざざぁ……











……波が……きこえる……




僕は恐る恐る彼女の肩を抱き寄せる。

一瞬、体を硬直させた彼女は、そっと、僕に体を預けてきた。

そして、僕と彼女はお互い目を合わせたあと、目を閉じる。

















ゆっくり、ゆっくり、距離を縮める。











……

……

その瞬間、全てが止まった。















時間も……光も……風も……波の音も。















永遠の瞬間のあと、彼女は照れた笑みを浮かべて呟いた。

……ありがと

その声はとても小さくて、とても可愛らしかった。












あと少しで朝日が昇りきっちゃうね……

うん……

消え入りそうな声で、彼女は頷く。

僕は彼女の手に自分の手を重ねた。








――彼女が幽霊であるわけないんだ。








だって、今確かに彼女の温もりを感じているのだから。

……

僕は手に力を籠める。

……

彼女も強く握り返してくれる。






……ざざぁ……








……ざざぁ……






波の音だけが、やけにはっきりと耳に響いた。








-FIN-

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