起きてくださいよう、いっせー


 ビジネスホテルのツインルーム。つぶらな瞳をした小学生くらいの歳の子が、九時を過ぎても起きようとしない相方の肩を揺らす。

 彼女は白いミディアムヘアをしており、前髪をうさぎの装飾が施こされた大きめのヘアピンでとめており、額と共に下がり気味の眉が堂々と露出され、それが少し間の抜けた印象を与える。歳に不相応な赤色のピアスをしており、統一された簡潔なデザインの金属製のチョーカー、ブレスレット、アンクレットをつけていた。

千琉華よ、俺は起きてる。起きてるんだ。ただ、起き上がる気にならないんだ……


 一晴は枕に顔をうずめたまま、微動だにせずにくぐもった声を発する。ホテル特有の清潔感溢れる香りが彼を深い眠りに誘おうとする。

 千琉華はただでさえ下がっている眉をさらに八の字にさせ、青色のマフラーに口元をうずめる。彼女はもう荷物もまとめ終え、今すぐにでも出かけられる格好になっている。普通なら一晴は叩き起こされても仕方のない状況だが、千琉華にそんなことはできない。

それ起きてるって言えないですよう……。早くしないと朝のビュッフェの時間終わっちゃいます

ビュッフェなんかどっちでもいいだろ

良くないです! 楽しみにしてたんですから

あー、そうなん? ……でも、そもそもさー、あれだよ。俺ら、旅行に来たわけじゃないし。ビュッフェとかちょっと違うじゃん? まだ寒いし寝る。つーかエアコンつけてくれ


 三月中旬の冷気は、窓から容赦なく伝わってくる。この部屋も相当に寒い。先に起きた千琉華だったが、平気だったのでエアコンをつけるのを忘れていた。

確かにお仕事で来ましたけど、でも……もうお仕事は終わったんです。ビュッフェくらい行っても罰はあたりませんよう……


 二人は、広島に出現したダンジョンの調査に行っていた。広島県庁の依頼でダンジョンマップを作製する仕事だ。二人はこういったダンジョン関係の仕事を請け負って生計を立てている。

 その帰りに、京都で一泊することにしたのだ。

帰るまでがお仕事だぁー。観光気分は良くないぞ

えー! いっせー、今日は京●ニ見に行くんだ、とか昨日言ってましたよ。思いきり旅行気分ですよ。観光する気満々ですよ


 その反論を受け、一晴はばっと勢いよく起き上がる。千琉華は

ひうっ

と小さく声を漏らし一歩後ずさった。

ばっ、お、おま……京●ニは観光じゃない、義務だ! せっかく経費でここまで来たんだぞ! 京●ニ行かないって選択肢がねーだろ!

でも、まだ調査したダンジョンのマップも作ってないですよ。今日はそれをやらないと、納期に間に合わないんじゃないですか?


 一晴は

うっ

と声を上げ、よくも思い出させてくれたな、と恨めしそうな表情を作る。マップ作製は非常に細かい作業になるため、疲れるのだ。しかも今回はモンスター分布とアイテムドロップ箇所も作らなくてはいけない。それをいれるとやはり一日がかりの作業にならざるを得ないのだ。

余計に起きる気をなくした。永眠する

ふっふ~ん♪


 布団を丸被りしてしまった一晴だったが、場違いに上機嫌そうな千琉華の声が聞こえてきたのでひょっこりと顔だけ出す。

なんだよ……?

そう言うと思って、マップ、完成させときましたよー


 千琉華は得意気な笑顔を浮かべている。一晴は思わず目を見開いた。

なん……だと……

ついでにモンスター分布も、アイテムドロップ箇所も書きこんどきました、もう提出するばっかりなんだから

 一晴は硬直し、ゆっくりと彼女へと腕を伸ばす。両腕で肩を掴み、言う。

ありがとうございます、千琉華様!

えへへ、いいんですよ。一晴のお役にたてるのならなんだってします


 彼女は尽くすことが喜びのように、無垢な笑顔を浮かべた。
 一晴は彼女の頭をわしわしと強く撫でた。彼女は少しくすぐったそうに笑みを浮かべた。

…………


 彼女の尽くしてくれる心意気は非常にありがたいと思う一晴だが、一抹の不安が頭を掠めた。

 あれ……? このままだと俺、ヒモになるんじゃないか?

 どんなにダメダメになってしまっても、甲斐甲斐しく世話をしてくれる千琉華の姿が容易に想像できた。そして自分なら、最初は抵抗するもいずれこの状況に慣れ、ずるずるとヒモになってしまうかもしれなかった。そんなダメな部分を自分の心の中に見つける。さすがにそれはいただけない。

まあでも、……俺はロリコンじゃないから大丈夫かな

きゅ、急になんですか


 千琉華は少し頬を染め、目を逸らして言う。

……いっせーの今期視聴アニメリスト的に、もう手遅れだと思いますよ……

んなわけねえだろ。たまたま面白いものに全部ロリが入ってんだよ。たまたま毎期、ロリが入っているアニメが面白いんだ。つまり、まあ……


 ロリコンである。
 とは言え彼はただ、無垢で真っ直ぐで分かりやすい物語が好きなだけだった。

あー、もう。いいから早く起きてくださいよ。ほら!


 照れ隠しなのか、それともいつもの調子に痺れを切らしのか、千琉華がカーテンを開ける。朝日がぴしゃあっと部屋に差し込み、一晴を照らした。

うぎゃあああああああぁぁぁぁぁ!


 一晴は朝日を手で遮り、吸血鬼のように日差しから逃れようとベッドから滑り落ちた。冷たい床の感触が背中を侵食してくる。こうなればもう起きるしかない。一晴は観念して立ち上がった。

せっかくやってくれたんだし。じゃあビュッフェ行――


 と――。

 瞬間、彼の表情は凍りつく。

 窓の外を見て。

 アレを発見して。

……? いっせー、どうしました?


 異常を察知した千琉華が、首を傾げて彼を見つめる。

……まずい、な……


 一晴の顔からは先ほどまでのふざけた表情は霧消していた。千琉華が彼の視線の先を見る。

 そして、千琉華の表情も切り替わる。そのつぶらな瞳を細め、それに焦点を合わせた。

――天使


 ビジネスホテルの二十四階からは京都の街並みが一望できる。その街並みに陰を落とすものがあった。

 天使である。

 ふくよかな裸の子供の姿をしており、背中からは飾りのような白い翼が生えている。腰には白い布を纏い、口には――ラッパ。絵画などで見られる、あの天使そのものだ。

 ただ、十メートル以上と巨大で、その小さな翼では浮遊できるはずもないのにぷかぷかとその場に浮かんでいた。

 一晴が窓をスライドさせて隙間を空けると、街のどよめきが飛び込んできた。

 悲鳴、怒号、叫喚――。
 人々が天使を中心として散る。街はパニック状態だった。

 天使がのけ反るように胸を膨らませる。

 そして、次の瞬間――、

 プアあアァァァぁぁぁッ!! パッパラアアああァァァァァァぁぁァァッパアアアアァァァぁぁッッ!!!

 世界の崩壊の合図が鳴った。

 音がホテルを揺らす。一晴は耳を抑え、窓を閉める。しかし、さほど意味はなかった。ガラスに途端にヒビが走り、ほどなく粉々に砕けたからだ。一晴は窓から離れるように飛び、そのまま床に伏せた。それでも体全体が音を浴び、大きすぎる波が容赦なく衝撃として襲った。

くうっ――――!


 ちくしょう、やってくれた。

 ようやく音が鳴りやむ。三半規管が狂う中よたよたと起き上がり、街の逃げ惑う人を見る。中心からはほとんど人がいなくなっていた。頭ががんがんと痛み、ぐわぁんと緩い耳鳴りがした。

 天使のラッパの音をこんな間近で聞いたのは初めてだった。

 そうだ、千琉華は――。

 千琉華へと目を向けると、彼女は平気そうに立っており、意思の籠っていない瞳で天使を見つめていた。

 この音で無傷、さすがは規格外だ――。

だい、じょうぶか……、千琉華……


 一応確認のために声をかける。

 彼女は一晴の声で我に返ったようで、こちらに気付いた。瞬間、目を見開き、今にも泣き出しそうな顔で駆け寄ってくる。

――っせ―――

ああ、オッケー、聞こえる。大丈夫だ


 一晴は心配させないために立ち上がる。ほら、と両手を広げてみせた。本当は今にも倒れそうだった。

 窓枠に体重を預け、窓の外を引き続き見る。

 ラッパを吹いた天使は仕事を終えたように雲の上へと消えて行った。代わりに、雲の一部に大きく影が落ちる。やがて、もわり、と雲の中から巨大な神殿が出現した。それはゆっくりと下降してきていた。

……神殿サクラム型、か


 神殿は見る限りモスクのように見える。独特な曲線を描いた金色のドームが建物の頂点を飾っており、神殿の四隅からは天に真っ直ぐと伸びる塔が立っている。左右対称の作りであり、豪華なことに噴水のついた庭まで付随してきていた。神殿の周りは全て砂漠のような乾いた黄土色の砂であり、円上のフィールドを形作っていた。

 神秘的な作用により、神殿は一定のゆったりとした速度で地上を目指す。やがて、神殿の下部が京都の建物を押し潰し、着陸した。

 ――こうして、日本に七十二個目のダンジョンが誕生した。

 神殿の周りには結界のような薄い膜が見え、その内部が砂漠となっている。あれが、現実世界リアリティアと幻想世界(ファンタジア)とを分ける境界(マージナル)である。半径は徐々に拡大しており、その内側に飲み込まれた町並みは、全てが砂へと変わっていた。

 さながら、砂漠の宮殿だ――。

 一晴は鞄から目盛のついた双眼鏡を取り出し、それでダンジョンを捕らえる。

初期半径五十メートル程度……ランクⅢか


 放っておくと、この半径はゆっくりと広がっていき、一週間もすれば限界半径――ランクⅢなら五百メートル程度になる。つまり、街一つを全て砂へと変えてしまうのだ。

 現実世界の幻想化を止めるには、ダンジョンボスを倒す他ない。

千琉華


 一晴が千琉華の頭に手を乗せて見つめると、彼女は覚悟した顔で頷く。

はい


 一晴の頬に汗が伝う。よほどの緊張状態なのか、焦点も定まらない。手も震える。

 大阪がランクⅧダンジョンにより幻想化してから、予備としての都市機能の一部は京都に移設されている。

急ぐぞ。このままでは――

はい、京都がなくなって――

京●ニがなくなっちまう! それはやばい! 俺の、アニメファンの命に関わる


 一晴が顔面蒼白でグレーのパーカーにグレーのスウェットというどう見てもパジャマな格好で部屋から走り去った。

はあ……このオチ、ちょっと分かってましたよ……


 千琉華は

もう

と少し頬を膨らませ、部屋を急いで片付けてから荷物を持って彼を追いかけた。

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