僕はその足で駅前に向かう。今日は遅くなりそうだ。
妹にメールしておくか。僕は現在、妹と二人暮らしなのである。

ごめん、帰り遅れるから晩御飯食べてて

 送信っと。よし、これでだいじょ――携帯が震える。

分かってる

 返事早い。しかも『分かってる』って……え? なんで既知なの?
う、打ち間違い、かな。キョロキョロとあたりを見渡す。見知っている人影はない。そうだよね、お兄ちゃんの杞憂だよね。
駅前は、夕刻ということもあり、人が隊列を組む様に移動し、都会のにおいで溢れていた。駅前には、まるで空から降ってきたかのような流線型のデザインの巨大なビルが立ち並んでいる。その中には、市庁舎もある。――この街の市長は、選挙で選ばれない。誰もあの屋上の市長室で、誰が市長椅子に座っているか、そして、どうやって選ばれているかも知らない。ただ、日本一の天才が座っているということだけは知っている。
この街は、日本が大量に抱えた恩恵者という人材を有効活用する方法を模索するための実験都市だ。探偵という職業も、主に、恩恵者(主にサヴァン)を有効活用する方法として提唱されたものだ。
実験都市だからこそ特区であり、独立であり、選挙がなくても市長がいる。
もちろん、全ての人が恩恵者なわけではない。この街の人口の一割程度だろう。それでも、この街の外に比べたら、相当だろうけど。
ビルのうちの一つ、高層マンションを見上げる。

ここ、だな

 学長からもらった地図をぐるぐる回しながら見て、ようやくここに辿りついた。一筆書きしたような地図に、『ここのまんしょんだよ』って……分からないですよ、学長。あの人、絵のセンスは恐ろしく、ない。

どちら様でしょうか?

 マンションに入ろうとすると、入口に立っている二人の警備員のうちの一人が話しかけてくる。

えっと、那由多シロリに会いに来たんですが……あ、これを

 渡したのは桃園学長のサイン付きの書類である。書類というか、メモだけど。僕がそれを渡すと、彼は怪訝そうな顔をする。
 まあ……うん、こんな表情になるのも頷ける。メモには『かなきかなるさんをなゆたしろりさんにあわせてあげてください。 たんていがっこうがくちょう 桃園サクラ』とだけ書いてある。逆に怪しい。僕が警備員なら子供の悪戯だと思って、相手にしない。

来客予定を見てくるのでちょっと待っていてください

 警備員はその場を離れる。

…………

 どうやら来客予定に僕の名前があったようで、すぐに中に通された。メモ、役に立たなかった……。
エレベーターに乗り込み、最上階である四十九階のボタンを押す。動き出したところで深く一息ついた。
 那由多シロリ。それが、僕が紹介された探偵の名だ。サヴァン能力については教えられていない。探偵の個人情報を明かすのは、禁じられているからだ。
 しかし、どんな能力であったとしても、相当に頭が良いことは確かだ。
どれだけ難事件を解決したかによって定められる探偵ランク。なんと言っても、那由多シロリはかつて、その第一位に君臨していたらしい!
 探偵ランク第一位とはつまり、……なんだろう。すっごく頭が良いってことですね。半端なく。いや、本当に。僕の六百万光年くらい上位の存在。
 エレベーターが軽快な音を立て、扉が開く。最上階の部屋は、一つしかない。高級感溢れる扉の前に立ち、インターホンを押す。
 どんな人物なのだろうか。
 気品ある聡明な顔立ちで、紅茶を片手に微笑み、『ほう、君。なかなかやるではないか』とか言いそう。そして事あるごとに『君、そこには論理の飛躍があるよ』とか突っかかってきたりして。しかし時には優しく、『今回は君の手柄でもある。ふん、ほうびだ』とかぶっきらぼうに言いながら、ご飯を奢ってくれたり――で、僕はいつまで妄想に耽ってればいいのかな?

遅い……

 インターホンを押してから数分経つのに誰も出てこなかった。

すいませーん、哉木ですけどー!

 ドアを叩いてみても、叫んでみても、反応なし。

…………しょうがないよね

 僕は自分を納得させて、ドアノブに手をかける。捻ると、すぐに開いた。

あのー……

 ひょっこり顔だけ出して声を上げるが、やはり反応なし。
 ――もしかしたら。
もしかしたら、何かあったのかもしれない。部屋の中で具合が悪くなっていたり、犯罪者グループに占拠されていたり……。
 考え出すと嫌な予感が止まらなくなり、僕は靴を脱いで上がり込み、リビングへと繋がる扉を勢いよく開け放った――、
 ら。

きゃぴきゃぴ♪ るるる~ん♪ 敵だと思ったらぶーっとばーせー、間違ってたら、ごめんなちゃい♪

………………

 はい。今日もいい天気ですね。本日六月九日はロックの日らしいですよ、ええ。ぜひとも玄関の鍵には注意したいですよね。お客さんが来て、恥ずかしいところを見られてしまうかもしれませんから。……本当に。
 目の前に広がっている光景は、正直に言えば、よく分からなかった。
 よく分からないなりに報告すると、テレビの前で少女がアニメのエンディングを躍っていた。探偵はどこかな。紅茶を片手に微笑んでる探偵は。
少女は雪のような純白の髪にビー玉のような真紅の瞳。季節外れの白いもこもこのマフラーを巻き、口元を覆って――、あれ? なんかどこかで見た事ある? そう言えば、シロリという名前もどこかで……。
もしかして、この少女が、那由多シロリなのか。
 僕の存在に気付いていない彼女に一歩近づこうと歩みを進めると、ぐにゅ、と何かを踏みつけた感触があった。

…………練乳?

 僕が踏んだのは、牛の顔が印刷されている練乳のチューブであった。中身は空のようである。なんでこんなところに練乳が?

うわっ

 僕が部屋を見渡すと、つい声をあげてしまうような光景が広がっていた。
 練乳、練乳、練乳、練乳、練乳、練乳練乳れんにゅうれんにゅうれんにゅうれんにゅうれんにゅうれんにゅうれん……にゅうれん。
 特定の場所に積み上げられた練乳のチューブの山。見る限り、全て中身は空みたいだ。何にこんなに使ったんだ? というか、ちゃんと捨てなよ……。

…………あの

 声を掛けるが、彼女はまるで僕には気が付かず、ダンスに夢中である。

あの!

 テレビの音量を上回る声をあげてみても、彼女は反応しない。夢中過ぎるだろ。
 肩を叩こうと歩みを進めると、こつん、とテレビのリモコンが僕の足に当たった。僕は拾い上げて、電源ボタンを押す。
 プツン、と液晶が暗転する。

きゃぴきゃ……あれ……?

 踊っていた少女、那由多シロリは動きを止める。

………………………………

………………………………

 静寂が部屋に染み渡った。
 ダンスを途中でやめて硬直していたシロリであったが、油の切れたロボットのようにぎこちない動きで首をこちらに向ける。
 そして、ばっちりと僕と目が合い、段々と目を見開く、無言で。
 気まずい。気まずすぎる。この空気を打破しないと。今すぐに。考えろ、何か、気の利いた言葉を――

……な、なかなか、ダンス、うまいね

 微笑んでみた。

な、な、な、な、……なんで、そこに……そこにいいいぃぃ! いるのおおおおぉ!

 彼女は真っ赤にした顔を左手で覆いながら、右手をぶんぶん振り回して僕を指さしている。

いや、あの、何度も呼んだんだけど……気付かなぐふっ――

 一直線に飛び込んできた。避けられたが、そうすると彼女が壁にぶつかってしまうので、受け止めようと腕を広げると――鳩尾に肩がクリーンヒット。えっ、なに? 殺しにきてるの?

ごほっ、うえっ! ちょ、ちょっと!

 僕がたまらず倒れ込んで咳き込むと、彼女は僕の上に乗っかり、両肩を掴んで揺さぶる。

見た!? ねえ、見たの!?

 頭が揺れて気持ち悪い。あと、その、見たといえば……前屈みになっているせいで、その、なだらかな膨らみが、うん、ちょっと、危ない。

見えてない! だから早くどいて、危ないから!

何の話!? シロリはさっきの、その、……あれを見たかって聞いてるの!

 顔を紅潮させ、目尻に涙を溜めてまで必死に聞いてくる。
 こんな時、僕は、どうしたらいいのだろうか。見てないって言うのは、嘘になるし……見たと言えば、傷付けることになっちゃうし。
 でも、それでも僕は、嘘は付けない。

み、見ました

やっぱ見たんだ! ひどい! もうやだあぁ! …………恥ずかしいよぉ

 部屋の隅に行き、座り込んでしまう。
 どうするんだよ、これ……。
 僕は取り敢えず立ち上がり、彼女の背中に語りかける。

えっと、君が那由多シロリ……? いや、違うとは思うんだけどね、一応

 だって、那由多シロリって、かつて探偵ランク第一位だった超天才だからね。こんなちんちくりんな女の子では万が一でもな――

そうだよ……ぐずん

 ……まあ、ですよね、状況的に。現実逃避終了。
 彼女は僕に背中を向けたままごしごしと拳で涙を拭きとり、僕の方へ向き直る。

シロリが、那由多シロリ、探偵だよ。……あなたは?

僕は、哉木架成……です

……かなる

 確かめるように僕の名を呼ぶ。

さっき、学校にいたのってかなる、だよね……?

え、あ、えっ? ……ああ! 絡まれてたのって君か!

 そういえばどこかで見た事があると思っていた。ついさっき見たばかりじゃないか。いやー、こうして助けた本人に面と向かって会うのはどこか気恥ずかしい。だってお礼言われることが決定しているわけだし。

相当ストレス溜まってたんだね。端から皆を投げるなんて、かなるってちょっと怖い人?

違うんだよ! いや、はい、違うんです……。いろいろあって、悪気はなかったんです……

 彼女には、僕が助けたという認識がなかったようだ。

? ふうん

 彼女は疑問を残していたようだったが、これ以上追及するほどのことでもないと判断したのか、それ以上は突っ込んでこなかった。僕的にもありがたいです。
 というか、不良二人に絡まれて、舌戦で苦戦しているように見えたけど……本当に探偵なのかな?
 僕は彼女の全身を舐めるような目つきで見る。
 探偵だったら、あれくらいの場面、言いくるめられるような気もするんだけど。
 僕の視線の意味を汲み取ったのか、彼女が上目使いで覗き込んでくる。

シロリが探偵だって、信じられない?

 困ったようなお願いするようなその表情により、僕は気恥ずかしくなり目を逸らした。

まあ……そりゃあ、ちょっと信じられないよ

 たった今、アニメのエンディングを一心不乱に踊っているところを目撃したばかりだし。部屋汚いし。幼い容姿だし。僕のイメージする探偵とは程遠い。
 僕の無言を肯定と取ったのか、彼女は少し考えるそぶりをしてから口を開く。

じゃあ、見せてあげるよ。シロリの頭の良さってやつを!

 ふふん、と得意顔で、まるで挑発するような視線を向けてくる。

……いや、別にいいかな

 僕の探偵像とかけ離れていたため、僕はショックを受けていた。シロリの挑発に乗るほどの元気がない。

えっ……

 シロリが呆然と僕の顔を見つめる。見つめる。見つめて、少し目尻に水滴が集まって瞳がうるうるとしてきた。……泣くことないのに。そんな表情、ずるいよ。

うわあ、すごく見たいなー、し、シロリの頭の良いところ見たいー

 涙に弱い僕は、棒読みのセリフを横目の視線と共に投射する。どうやら効果覿面のようで、一瞬にして彼女の顔はパアァ、と明るくなった。

じゃあじゃあ、何かボードゲームにしよ。シロリの家には大体揃ってるよ! こういう時のために買って置いたの! ……何か得意なのある?

将棋

 即答だ。正直、勝負をするのなら遠慮をする気はない。……涙目で迫られない限り。
 将棋は、数あるパターンから相手の思考を読み、相手が自分の思考を読んでいることも考慮しつつ、その上自分も相手の思考を読み――と、もう既に何が何だか分からなくなってしまうくらいに、頭を使うボードゲームだ。僕が頭脳を鍛える際に非常にやりこんだ。

将棋かぁ……シロリ、やったことないなぁ。ルール見ながらでいい?

え、それなら別のにするよ

いや、いいよ。将棋にする。……隣の部屋のクローゼットにあると思うから取って来て

うん……

 彼女はフローリングに寝転んで足をばたつかせている。家主なのに取りに行ってくれないんだね……。
 その後、おもちゃの箱の中かと見紛うほどに散らかった部屋から二十分かけて将棋盤と駒を発掘。探すだけで既にへとへとなんだけど。
 部屋に戻ると彼女はさっきの位置に寝転んだまま、漫画を読んでいた。

あ、かなる。おかえりー。どこ行ってたの?

君に頼まれて将棋セット探して来たんだよ! 何で頼んだ本人が忘れるんだよ!

あ、そうだった……じゃあ準備してねー

 準備も僕か。いや、別に駒並べるだけだし、別にいいんだけどね。僕は慣れた手つきで将棋の駒を並べていく。

ん、できたよ

よしよし、じゃあ始めよう

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