目覚ましのベルをかけ忘れた。
それどころか僕はパジャマにすら着替えずに、リビングのソファにうずくまって寝ていた。昨日は何だか眠れなくって、無意味にビデオを見まくっていたのだ。
それなのにきちんといつも通りの時間に起きられたのは、インターホンが鳴ったからだ。
目覚ましのベルをかけ忘れた。
それどころか僕はパジャマにすら着替えずに、リビングのソファにうずくまって寝ていた。昨日は何だか眠れなくって、無意味にビデオを見まくっていたのだ。
それなのにきちんといつも通りの時間に起きられたのは、インターホンが鳴ったからだ。
こんな朝早くに誰だろう
どちら様ですか
私よ
あくびをかみ殺しながら出ると、フユコの声が聞こえた。一気に目が覚めたじゃないか。
玄関を開けると仏頂面をした制服姿のフユコが立っていて、ずかずかと家に踏み込んできた。
僕は止める気もせずに彼女の後ろをついていく。何か余計なことを言ったら首をしめられそうな。
フユコはキッチンに入ると、エプロンをつける。さくさくと昨日の残り物の八宝菜と味噌汁を温めなおし、グリルで魚を焼き始めた。
もしかしなくても、これは朝ごはんを作っている?
あの……さ、フユコ?
昨日、全力疾走で逃げていったのはどこの誰だっけ。
ぐるんとフユコがこっちを振り向く。眉毛が逆八の字。ちょっとどころじゃなく怖いんですけど。
昨日は、悪かったわ
…………何のこと?
いきなり帰って、悪かった。メグルが一番大変だし混乱しているのに、気味悪いとか思った自分に腹が立ったわけ
……あ、やっぱり気味悪がっていたんだ、昨日の
今は、大丈夫
それは、もう気味悪いだなんて思っていないってことなのか。それとも僕の言動がちょっとおかしくても許容する度量を身につけたということなのか。多分後者。
フユコは魚を焼く片手間で洗い物を片付けながら、会話を続ける。
これからどうするの……両親いなくなって、そのマユリちゃんも
うん、みんな木になっちゃったなぁ。貯金があるから生活はしばらく大丈夫だと思うけど
お金はともかく、メグルは生活能力ないもんね。それに、やっぱり保護者がいないのはマズイでしょ
親戚とか当たってみるしかないのかなぁ
僕の家、あんまり親戚と付き合いがないんだよなぁ。一つだけ遠く離れているし……引き取られるなら転校だけど、それはやだな
仮に面倒見てくれる親戚がいたとしても、転校しなくっちゃいけないだろうし。それはさすがにちょっとなぁ。来年は受験があるっていうのに。
ダイニングの椅子に座っていると、目の前に大根おろしつきの鮭の切り身が置かれた。いつのまに大根をすりおろしたんだ。僕がぼんやりしている間か。
フユコ、意外といいお嫁さんになりそうだ。……意外に、ってつけたら殴られるんだろうけど
朝から八宝菜は胃に重いかもしれないから、一応魚も焼いといたわよ。さあ、さっさと食べて。それと、食べたらちゃんと準備してよ
前言撤回、お嫁さんっていうよりおふくろさんだな
八宝菜と味噌汁と鮭の切り身。何て豪華な朝ごはんだ。こんなにいっぱい入るだろうか。
いただきます
食べる。普通に美味しい。何かちょっと感動した。
今日のはゴムみたいじゃない
え、私、変なもの入れてないわよ!?
僕がしみじみと呟くと、洗い物の続きをしていたフユコが驚いて振り向いた。
あー、ゴムが入っていたわけじゃなくって。昨日は何を食べても何か味がしなくって、ゴムを噛んでいるみたいだなぁって。今日はちゃんと美味しい
フユコが黙りこくった。水を止めて、手を拭いて、そして。
何してんの、フユコ
頭なでてんの
いや、それはわかるんだけど
何で僕はフユコに頭を撫でられているんだ?
ごめんね、昨日。本当に、ごめんね
いや、だから、何が? ご飯美味しいよ、変なもの入ってないって
何でフユコが泣いているんだ?
というか、この状況で僕はどうすればいいんだ?
しばらく彼女は泣き止まなくって、僕はとりあえず彼女にティッシュを渡して、それで
こういう時はハンカチでしょ
って逆ギレされたりしたわけだ。いいじゃん、ティッシュ。清潔で後片付け簡単じゃないか。
あのさ、メグル
ん?
晩御飯、うちに食べに来なよ
え、いいよ、悪いし
じゃ、引きずって連れて行く
誘拐じゃないか
なんかね、今のメグルを一人にしておくの、すっごーく不安だわ
……病んでるから?
ぶっちゃけ、そう
そこまで言われるほどおかしいかな。
アイデンテティに疑惑発生だよ
とりあえず、フユコと仲直りできたのは良かった。隣の席で昨日みたいな態度をずっととられたら、それこそ病気になりそうだ。
フユコなりに考えてくれているんだよな
ごちそうさま
綺麗に食べ終えた皿をフユコはひょいと取り上げて洗い場に持っていく。
僕は彼女の邪魔をしないようにさっさと退散して、顔を洗って着替えてくることにした。
二階にある僕の部屋から降りてきたところにある扉は、両親の部屋。
空けて見ると天井を突き破った二本の木の手前に、天井までは届かない木が一本加わっている。
マユリの残骸は残っていない。保育園に行く前に母さんが結ってあげていた柔らかい髪の毛も、着ていたお気に入りの花柄のワンピースさえも。
その木を飾ってるのは花柄のワンピースではなくて、真っ赤なリンゴに良く似た果実。
この実を食べたら、僕はマユリと話すことができるのかな……
僕は試しにその実をひとつ、もぎ取って見る。甘酸っぱい芳香。どこからどう見てもただのリンゴだ。
赤い赤いその実を、僕は結局口にすることはなく、鞄の中におしこんだ。
……いってきます
そう呟いて扉を閉めた時、枝がざわめく音が聞こえたように思えたのは、きっと気のせいだろう。
高校の屋上にはエデンのリンゴが一本生えている。それは僕の友達だったヒロアキだ。
副担任から担任に昇格したスズキ先生が、明後日から屋上がまた使えるようになるんだと告げる。ヒロアキが木になってしまった時からずっと閉鎖されていたのだ。
ヒロアキの親と学校とで、ずっとあの木の処遇について話し合っていたはずだ。多分、それの決着がついたんだろうな。
死体が残らないのって困るよなぁ……
木を自宅の庭に植え替えてお墓にするなんて遺族もいれば、伐採した木を『火葬』する遺族もいる。木になったことを信じられずに、警察に行方不明者の捜索願いを出す人だっている。
僕も父さんの勤め先と保育園に連絡をしておいたけど、結局まだ親戚に連絡していないし
葬儀を出す気にはなれなかった。僕の家族は、寝室で仲良く並んでいる。
マユリが木に変わってしまった両親と話をする方法を見つけたと喜んでいたのが、脳裏をかすめるのだ。
あの木には、元になった人間の心が宿されているのかもしれない。
ねぇ、メグル、聞いた?
やけに心配性になった僕の幼馴染は、HRを終えて騒がしくなった教室をちらちらと見回しながら、僕の制服のすそを引っ張った。
聞いたよ。屋上が開放されるって
うん、それなんだけどね……、
あの木、伐採されるんだって
……ヒロアキの親は?
それが、今までもめていたのってあの木がヒロアキ君だって親が認めなかったせいみたいで。伐採後に引き取り手がいないから、学校側で処分するってことで決着がついたみたい
僕は反射的に立ち上がっていた。イスが倒れて結構派手な音を立てて、クラス中の注目を集めてしまったけれどもそんなことはどうでもよかった。
メグル!
廊下に出る。一限から教室移動だったらしい生徒が驚いて僕を振り返る。後ろを追いかけてくる足音はフユコだろうか。
二階から三階へ。三階から屋上に続く階段を駆け上がる。屋上の扉は鍵で硬く閉ざされて開かない。蹴ったってびくともしなかった。
メグル……教室、戻ろうよ
屋上に続く扉の前で座り込んでいた僕に、追いついたフユコが声をかける。僕は首を横に振る。こんな気分で勉強なんてできるもんか。
びっくりした。突然走ってくんだもん
ごめん
一限、サボろっか
何でここにきたのかって、聞かないの?
聞いたほうがいい?
…………
ちょっと迷った。言ったら、また病んでいるだの壊れているだの言われる気がしたからだ。
だけどこの先、あのエデンのリンゴが伐られたり焼かれたりするのを見るたびに、僕はあの木に人の心があったらと考えずにはいられないだろう。
あれがマユリの空想が生み出したものだとしても、木に心がないとは言い切れないし……
人間が脳みそで物を考えると同じように、エデンのリンゴもそのくすんで乾いた色の幹で、豊かな葉をつけた枝で、甘酸っぱい匂いのあの赤い実で物事を考えているかもしれない。
そう思うと、僕はこの考えを一人で抱えていくのが急に怖くなってしまった。だから、フユコにはマユリが言っていたことをほとんどすべて包み隠さずに話すことにした。
正直、僕自身、どこまで信じていいのかわからないことなんだけど、聞いてくれる?
うん、いいよ
フユコは僕の話をちゃんと聞いてくれた。多分、ほとんど信じてはいなかったんだろうけど、彼女が真剣な表情でうなずいてくれただけで、僕にはじゅうぶんだ。
メグルさ、ちゃんと辛い時は誰かに言いなよ
……うーん? 別に辛いわけでもないんだけど
じゃー自分のこと全然わかっていないんだよ。立て続けに友達とか家族とか亡くしたからどっか麻痺しちゃっているんじゃない?
そう見える?
うん。普通に考えたらさ、死んで別れるんじゃなくっても、転校とか進学とかで離れ離れになるだけで悲しかったり寂しかったりするものじゃない?
ああ、そうか……
フユコが言ったその言葉は、なんだか僕の心にすっと入ってきた。
それが死でなくたって、親しい誰かが目の前から消えてしまうことは悲しい。当たり前の事実が心の中に入ってこないのは、きっと僕が壊れて何も感じなくなっているからなんだろう。
フユコ、僕はあの木を伐られるのはいやだ
うん
僕が木になったとしても、切ったり燃やしたりしてほしくないな
……うん。ねぇ、先生にお願いしてみようか、ヒロアキ君の木のこと
うーん、でも……どうやって?
屋上からどっか別の場所に植え替えられるか。それが無理でも、枝を分けてもらえたりするかも。そしたら、二人でどっか安全な場所に植え替えよう
……うん、そうだね
ぽんぽん、と頭を軽くなでられる。何だか小さな子供みたいな扱いだな。
でも僕は、不思議とフユコに頭をなでられるのが意外と嫌いじゃないみたいだ。
一限目終了のチャイムが鳴った後、僕らは職員室まで行ってきた。屋上の木は移植だれるらしい。伐採するというのはどうやら生徒間での噂話だったらしい。
元は生徒であるあの木を伐採するのには、学校側もためらいがあったらしいのだ。お祓いをして伐るか、移植するかを検討して、後者が選ばれたらしい。
僕らは先生から内緒で移植場所を教えてもらって、二時間目の授業にはちゃんと出るようにと釘を刺された。
二時間目の授業は代理の先生が決まった現国。教え方がへたくそでちょっと眠くなる授業だった。
本当にいいのか?
だーいじょうぶ!昨日のうちにお父さんとお母さんには話をつけておいたから!
学校帰りにはフユコの家に行くことになった。
一緒に下校するのはなんだか照れくさかったけれども、心配かけた手前もあるので仕方がない。
今日はハンバーグを作るからねー♪
楽しそうだなぁ……
彼女の家は両親共働きだ。母親は、今日はスーパーの夜勤に出ているそうだ。父親の方はタクシーの運転手で、夜は家にいないことが多い。
そんなフユコの父親は、僕が彼女の家にあがったのと入れ違いに仕事に出て行った。変なことすんなよ、ってちょっとどつかれたけど。
あれ、どこまで本気だったんだろう。子供の頃からの友達じゃなければ、タクシーで遠いところまで連れて行かれていたかもしれない
夕食作りの手伝いをしようと思ったけれど、やっぱり役に立たなくってキッチンから追い出された。一生キッチンに立つなってさ。酷いなぁ。
ニュースキャスターが告げる。エデンの林檎症候群の猛威は一向に衰えることはなく、政府も対応に追われている。死亡に際する本人確認はどうなるのか。保険金や遺産相続はどうなるのか。
きっとこの間にも、どこかで誰かが木になって真っ赤なリンゴを実らせているんだろうな
ぼんやり眺めていると、突然チャンネルが変わった。振り返ると、テレビのリモコンを持ったフユコが腰に手をあてて仁王立ちしている。
憂鬱な気分になるもの見ないの!
時事ニュースや世界情勢を知るために、一日一回はニュースを見るべきだ
世界史のオグリ先生の口癖じゃない、ソレ
憤怒の形相で、彼女はバラエティ番組へと画面を切り替える。
お笑い芸人が時事ネタを使ったコントを展開している。リンゴの木に扮した芸人が、一般人役の芸人に飛び蹴りしていた。
テレビ画面がブラックアウト。フユコの顔が般若のお面になっている。
何でデリカシーのない番組ばっかなのよ!
あー、別にフユコが心配するほど、僕は気にしていないんだけど
その無自覚すぎるところが心配されているってどーしてわかんないのよ、この朴念仁!
リモコンでパカパカ頭を叩かれた。
軽くとはいえ……痛いなぁ、もう
まあ、いいわ。ちょうどご飯できたところだし、食べましょ?
リモコンをソファの上に放り投げ、フユコは何故かダイニングには向かわずにテレビ横のラックを漁っている。何か探しているみたいだ。
あ、これこれ。背中がずっとかゆくってさぁ
彼女が引っ張り出したのは孫の手だった。
何で……?
背中のちょうど手の届かないところを虫に食われちゃったのよ
あっそう……
何だそんなことか。一瞬だけひやりとしてしまった。
背中がかゆいとかいうから、僕はてっきり……
心の底から安堵して、それもおかしいな、と首をかしげてみる。両親が木になった時も――マユリが目の前で木に変わった時だって、別世界のできごとみたいに見ていた僕が、こんなささいなことで焦っている。
でも友達を心配するのは当たり前なんだから、おかしかったのは今までなのか
ヒロアキの木のことでちょっとナーバスになっているのか。フユコの言うとおり、僕は自覚していないだけで結構ボロボロになっているのかもしれない。
どうしたの? 食べないの?
あ、うん。食べるよ。いただきます
リビングから戻ってきたフユコに促されて、ハンバーグに口をつけた。柔らかくて美味しい。ちゃんと手作りの味がする。
フユコ、いいお嫁さんになれるね
今度は自然に口をついて出た。意外と、とはもう思わないな。
フユコは顔を真っ赤にして、うつむいた。
うわ、ものすごく照れている?
じゃあ…………ちょうだい
……はい?
うつむいたままぼそぼそ言うから、よく聞こえなかった。
顔を上げる。真っ赤な顔で、何故か怒ったように睨み付けてくる。
あれ、僕は何かヤバイことでも言ったかな。意外と、ってつけなかったのに
じゃあ、メグルがお嫁さんにもらってちょうだいよ
…………はい?
あれ何かおかしくないだろうか。こんな展開は予想外だ。だって、お互いランドセルを背負っていた時からの知り合いなんだぞ。
何でそんなに真っ赤な顔しているんだ。こっちまで顔赤くなりそうだよ。どうすればいいんだ。
今更、こういう……
ああ、もう
嫌なの?
あー。その、嫌じゃ、ない。むしろ、嬉しい……かな?
はっきりしなさいよ
……嬉しいです。喜んでちょうだいします
何か誘導尋問にかけられている気がする。
そのまま、しばらく二人とも無言だった。お互いにうつむいて、ろくに顔も上げずにハンバーグをついばんだ。
さっきまで美味しかったハンバーグが、何の味もしなくなった。でも、前にフユコに逃げ出された時と違って、ゴムみたいだとは思わなかったな。
なんか、綿菓子を食べている気分だった。ハンバーグなのに。ふわふわして現実感がなかったっていうか。
…………ごちそうさま
…………ごちそうさま
二人でぎこちなく挨拶をかわして、フユコは皿を洗いに、僕は手持ち無沙汰な気分でリビングへ。
フユコが洗い物をする水音を聞いている間、僕の脳内はもし本当にフユコと結婚したらという空想で支配されていった。
今まで関係が近すぎてあんまり意識していなかったけど、それなりに可愛い容姿をしているんだよなぁ……
男女問わず人気があったから、クラス委員に推薦されたんだんだし……
家事ができて、かわいくて、そのうえ色々世話を焼いてくれる。
あれ、フユコって地味にパーフェクトな存在じゃないのか?
時々感情に任せて殴ってくるのさえなければだけど……
洗い物を終えて戻ってきたフユコは、テレビ番組の代わりにDVDを流した。僕の隣に座って鑑賞開始。
ラブロマンス映画だ。フユコもこういうのを観るんだな。女の子だもんな。
女の子の家で二人きりって、今思えばなんて状況だろう。
……!!
…………!!
DVDの内容何てほとんど頭に入らないのに、気が付くと画面の中でがヒロインとヒーローが抱擁とキスを交わして。
うわぁ、ちょっと気まずい。僕にどうしろっていうんだ……
…………
さっきのあれは、どうとらえたらいいんだろう。一応、僕がプロポーズしたことになるのかな? 何か違うような……。じゃあ、今は恋人同士なのか? それも違うような
あの、さ……フユコ
……うん?
ありがとう、色々心配してくれて
どういたしまして
これからも一緒にいてくれる?
今更何を言ってるの?
じゃあ、ちゃんと付き合うことにしようか。その、恋人、として……
…………
答えは返ってこなかった。
彼女の視線は映画に釘付けになっている。
仕方ないから僕も映画を観る。物語は終盤、悲劇的な運命によって引き裂かれた二人が、再びめぐり会う。病で死の淵に立ったヒロインの元に駆けつけたヒーローが、もう二度と引き裂かれることはないと彼女に永遠の愛を誓う。
僕は、正直あまり面白いと思えなかった。
この設定ならたとえ二人が結ばれたって、先に残された未来なんてほんのわずかじゃないか。滅入るよ……
スタッフロールが流れ始めたDVDを止めて、フユコは僕にバッグを押し付ける。今日はもう帰れってことらしい。
フユコの女心がいまいちよくわからない。誰か翻訳してくれ。
彼女なりに、僕と同じようにいきおいでこんな状況になったことに、照れたり混乱したりで忙しいんだ、きっと。そう思っておこう。
じゃ、また明日
スニーカーに足を突っ込んで、いつもの挨拶で別れを告げる。
フユコは僕の顔をじっと見つめていた。
何かついてる?
ううん。あのさ、ひとつきいてみてもいい?
何?
もし……もしもの話だよ? 私が木に変わっちゃったら、それでも一緒にいたいって、言ってくれる?
僕は、答えられなかった。
フユコが木に。そんなこと、考えたこともない。考えたって、答えなんてわからない。
僕は――やっぱりおかしい
友達が木になった時、ただただもう会えないんだなって空虚感だけが胸を支配した。
両親が木になった時、もうどうにもならないんだなって無力感だけが頭を巡った。
妹が気になった時、マユリはもう泣かなくてもいいんだなって、変な安心感が身体中に広がった。
僕にとってエデンのリンゴは、現実感の伴わない喪失だった。
だけど――。
フユコは言ったよね。僕は無自覚に壊れたことを言うから心配だって
うん……言ったね
もちろん一緒にいるよ、って僕に言って欲しかった?
うん……ごめんね、矛盾しているよね
フユコはうつむいている。泣いているのかもしれない。
僕はその理由を考えないようにする。
きっと、僕は自分が木になるとしても、仕方ないなって思うだけなんだろう。せいぜい、どこだったら木になるのが丁度いいか考えるくらいで。そして友達に会えなくなるのが寂しいってくらいで。
でも、フユコは違うだろう。壊れていない彼女は、僕みたいに『まあいいか』なんて言えないだろう。
僕は……嫌だ
本当にどうかしているんだな、僕は。
両親やマユリの時にも出なかった涙が、どうして今出てくるんだ。
嫌だよ。嫌だ。僕が一緒にいたいのは、人間のフユコなんだ!
走り出す。追いかけてくる足音はない。
息が切れる。心臓が跳ね上がる。足がもつれて転ぶ。
鞄の中から、丸い塊が転がり出てきた。街灯の下では色あせてみえる、リンゴの赤。何故かずっと持ち歩いていた、マユリの木からとった実だ。
僕は立ち上がって、その真っ赤な実を跡形がなくなるまでぐしゃぐしゃに踏み潰した。くさりかけているのか、強烈な匂いが辺り満ちる。変に甘酸っぱい、吐き気がこみ上げてくる匂い。
リンゴを食べれば、木と話が
できるようになるって……?
そんなことが何の救いになる。たとえ本当に言葉をかわせても、彼らが人間に戻れるわけではないのに。
リンゴの残骸をもう一度強く踏みにじって、僕はまた走り出す。
その翌朝、フユコは家に来なかった。
学校にも、来なかった。